忘却の英雄
雨が降っていた。
冷たい雨だった。
街道沿いの小さな宿場町。
人々は足早に屋根の下へ消えていく。
その中を、一人の男だけが静かに歩いていた。
黒い外套。
無精髭。
疲れた目。
男の名は悪石平。
かつて世界を変えた科学者。
そして今は。
世界中から憎まれる男だった。
平は広場の時計台を見上げる。
時刻は夕刻。
今日はここで一泊する予定だった。
その時。
背後から声が飛んだ。
「あなたが忘却の英雄さん?」
平の足が止まる。
聞き慣れた呼び名だった。
忘却の英雄。
英雄と呼ぶ者もいる。
戦争犯罪者と呼ぶ者もいる。
どちらも間違いではない。
平は振り返る。
そこにいたのは少女だった。
金色の髪。
大きな瞳。
年齢は十六歳ほど。
雨に濡れているのに気にした様子もなく、にこにこと笑っている。
平は眉をひそめた。
「……俺に近づくな。」
「ひどい。」
少女は頬を膨らませる。
「初対面だよ?」
「だからだ。」
「意味分かんない。」
平は歩き出す。
少女はついてくる。
「ついて来るな。」
「やだ。」
「帰れ。」
「やだ。」
「面倒だな。」
「よく言われる!」
自慢げだった。
平は頭痛を覚えた。
少女は笑顔のまま言う。
「諏訪之瀬宝!」
そして胸を張る。
「不老不死の常世神だよ!」
平は数秒考えた。
そして言った。
「病院へ行け。」
「ひどっ!?」
宿へ向かう道。
宝は相変わらず後ろを歩いている。
「本当なのに。」
「不老不死がか。」
「そう。」
「エルフ族とは違うのか?」
「違う。」
「天使族は。」
「違う。」
「竜人族。」
「違う。」
「じゃあ何だ。」
宝は満面の笑みで答える。
「常世神!」
平は諦めた。
会話が成立しない。
だが。
奇妙だった。
普通なら。
悪石平の名前を知れば逃げる。
恐れる。
嫌う。
だがこの少女は違う。
むしろ会えて嬉しそうだった。
「なんで俺を探していた。」
宝は少し考えてから言う。
「会いたかったから。」
「理由になってない。」
「本当だもん。」
平はそれ以上聞かなかった。
どうせまともな答えは返ってこない。
その時だった。
路地裏から咆哮が響く。
「ガアアアアアアッ!!」
平が振り返る。
黒い影が飛び出した。
魔狼。
大型の魔物だった。
牙を剥き、
宝へ飛びかかる。
「危ない!」
周囲の人間が叫ぶ。
しかし宝は動かない。
いや。
動く気がない。
「わっ。」
平は舌打ちした。
「馬鹿が。」
短剣を抜く。
一歩。
踏み込む。
閃光。
魔狼の牙と刃がぶつかる。
火花が散った。
「ガアアッ!」
魔狼が後退する。
平は構えた。
「下がれ。」
宝は素直に後ろへ下がった。
魔狼が再び飛びかかる。
平は腰の小型装置を投げた。
爆音。
閃光。
魔狼が怯む。
その隙に喉元へ刃を突き立てる。
魔狼は悲鳴を上げ、
そのまま崩れ落ちた。
静寂。
周囲がざわめく。
「あれ……」
「悪石平じゃ……」
「本物か?」
平は聞こえないふりをした。
聞き飽きた声だった。
宝だけが笑っている。
「やっぱり。」
「何がだ。」
「優しい。」
「違う。」
即答だった。
「目の前にいたから助けただけだ。」
宝は嬉しそうに言った。
「そういうところ。」
平は答えなかった。




