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その婚約破棄、慰謝料が発生します。 ――王立調停官は、公開断罪の嘘を記録板に刻む  作者: 平八


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第4話 どちらで記録しましょうか

若い侍女は、扉のところで立ち尽くしていた。


深く頭を下げようとして、途中で止まる。


膝が震えている。


それでも、礼の形だけは崩さなかった。


よく躾けられた侍女だった。


ただ、その白い手袋の指先だけが、ひどく場違いだった。


深い赤。


王宮儀礼局の封蝋よりも濃く、甘い香りを含んだ赤。


蝋燭の灯を受けて、乾ききらなかった跡が鈍く光っている。


広間の視線が、そこへ集まった。


侍女は自分の手を隠そうとした。


だが、遅い。


隠そうとした動きそのものが、証拠になった。


エレナ・ヴァイスは、記録板を閉じなかった。


「お名前を」


侍女は唇を震わせる。


「……クララ・ノートン。メイベル男爵家に仕えております」


ガチリ。


『メイベル男爵家侍女、クララ・ノートン出頭』


記録板が鳴る。


クララの肩が跳ねた。


その音だけで、彼女はもう泣きそうになっていた。


セリーナ・メイベルは、王子の半歩後ろに立っている。


涙の跡は残している。


だが、指先はもう震えていない。


彼女はクララを見た。


一瞬だけ。


ほんの一瞬だけ、目が細くなる。


その目を、ミリア・ベルナが見逃さなかった。


「主従の目ではありませんね」


ミリアが、エレナにだけ聞こえる声で呟く。


「荷物の重さを量る目です」


エレナは答えない。


クララの指先を見る。


赤い封蝋。

乾き方。

爪の際に入り込んだ色。

慌てて拭ったのか、手袋の親指の腹に細い擦れがある。


「クララ・ノートン」


「は、はい」


「その手袋を、記録板の上へ」


クララの顔が白くなった。


「これは……」


「手袋を」


エレナの声は変わらない。


柔らかくもない。


強くもない。


ただ、退路がなかった。


クララは、ゆっくりと右手の手袋を外した。


指先が震えて、なかなか抜けない。


そのたびに、赤い蝋の跡が広間の光を拾う。


ようやく外された手袋が、記録板の上に置かれた。


白銀の文字が浮かぶ。


『証拠物件三号:クララ・ノートンの手袋。指先に深赤色封蝋の付着あり』


ガチリ。


クララが小さく呻いた。


エレナは、その音も表情も追わなかった。


「ハンナ係」


蝋台管理係の老女が、一歩進み出る。


「確認を」


ハンナは手袋を覗き込んだ。


席札の裏と、手袋の指先。


二つを見比べる。


「似ています」


それだけ言った。


「同じものと断定できますか」


「この場では、断定までは」


ハンナは首を横に振る。


その正直さに、ミリアの目が少しだけ緩んだ。


「ただ、香りも色も近い。同じ私物封蝋、あるいは同じ持ち主の品と見てよいかと」


「記録します」


ガチリ。


『手袋付着封蝋と席札三度目封蝋、色調・香気が近似。同一または同系統の私物封蝋の可能性』


クララの膝が揺れた。


「わ、私は……」


「発言を」


エレナが言う。


「はい?」


「あなたが何をしたのか。誰の指示か。あるいは、独断か。発言してください」


クララの視線が動いた。


王子へ。


セリーナへ。


そして足元へ。


セリーナは、何も言わなかった。


ただ、見ている。


泣き顔を保ったまま。


けれど、その目だけが泣いていない。


「……私は」


クララの声は、かすれていた。


「席札を、動かしました」


広間がざわつく。


ガチリ。


『クララ・ノートン、ロッセ令嬢の席札移動を認める』


アルフォンス王子が声を荒げた。


「なぜだ!」


クララは縮こまる。


「殿下のご意向だと、聞いて……」


「私は命じていない!」


ガチリ。


王子が、はっと記録板を見る。


『第二王子アルフォンス・レグラント、席札移動指示を否定』


今の言葉も刻まれた。


彼は唇を引き結ぶ。


怒りが、記録される恐怖とぶつかっている顔だった。


エレナは言った。


「クララ。誰から、殿下のご意向だと聞きましたか」


クララは口を閉じた。


頬が震えている。


セリーナの手が、胸元のリボンに触れた。


白い指が、布を軽く押さえる。


それだけだった。


だがクララの目が、そこへ吸い寄せられた。


ミリアが小さく息を吐く。


「合図ですね」


エレナは、まだセリーナを見ない。


「答えてください」


「……存じません」


クララは言った。


「知らない方です。お顔も、よく見ていなくて」


ガチリ。


『クララ・ノートン、指示者不明と証言』


ミリアが記録板を見て、少しだけ首を傾けた。


「顔も見ていない相手から、王子殿下の意向だと言われ、儀礼局の手順を通さず、席札を移動した」


声は静かだった。


「ずいぶん勇敢な侍女ですね」


クララの目に涙が溜まる。


「私は……急ぎだと、言われて」


「誰に」


クララは答えない。


セリーナは俯いている。


涙の跡を残したまま、静かに呼吸していた。


エレナは、記録板の上の手袋を見た。


「独断ですか」


クララの肩が震えた。


「……はい」


セリーナの瞳が、わずかに動いた。


王子が息を呑む。


「クララ、お前が独断で?」


クララは床を見たまま頷く。


「ロッセ様が、メイベルお嬢様を苦しめていると……私、許せなくて」


声は涙に濡れている。


だが、泣き方が遅い。


先に言葉が来て、あとから涙が追いついている。


ミリアが、紙の端を指で撫でた。


「台詞を覚えるなら、順番も覚えた方がよかったですね」


小さな声だった。


エレナは一歩だけ前へ出た。


「分かりました」


クララが、ほっとしたように肩を落としかける。


その前に、エレナは記録板に指を添えた。


「では、クララ・ノートンの独断として記録します」


クララの顔が凍った。


「え……」


「主人の許可なく、王宮夜会の席次を不正に変更し、王子殿下の婚約破棄に関わる配置を操作した」


エレナの声は淡々としている。


「さらに、王子殿下の意向を騙り、王宮儀礼局の手順を迂回した」


ガチリ、とはまだ鳴らない。


記録板は、エレナの指先で待っている。


「王宮儀礼妨害。婚約調停妨害。王族名義の詐称。ロッセ令嬢への名誉毀損への関与」


クララの唇が開いた。


声は出ない。


「かなり重い記録になります」


エレナは、何の感情も乗せずに言った。


「独断でよろしいですね」


沈黙。


クララの頬から、涙が一筋落ちた。


セリーナは動かなかった。


王子は、クララとセリーナを交互に見る。


「待て」


王子が言った。


「侍女一人の独断で、そんな大事になるのか」


「なります」


エレナは答える。


「王宮夜会の席次は、社交上の飾りではありません。誰が誰の隣に立つか、誰がどこから見られるか。それ自体が意味を持ちます」


エレナは、席札へ視線を落とした。


「ロッセ令嬢は、意味のある位置へ動かされました」


エレオノーラの指が、白い手袋の上で止まる。


彼女は息を吸った。


自分がどこに立たされていたのか。


それを、今ようやく理解し始めた顔だった。


「独断なら、クララ・ノートン個人の重い瑕疵として記録します」


エレナは続ける。


「主人の指示であれば、命令系統を記録します」


そこで初めて、エレナはセリーナを見た。


「どちらで進めましょうか」


広間が凍った。


セリーナの涙は、まだ頬に残っている。


だが、もう誰もその涙を見ていない。


彼女の目を見ていた。


セリーナは、ゆっくりと唇を開く。


「……クララ」


名を呼ばれた侍女が、顔を上げる。


「あなたが、私を思ってしてくれたのなら」


セリーナはそう言いながら、クララを見ていなかった。


彼女の指は、アルフォンス王子の袖をより深く掴み直している。


侍女ではなく、王子を見ていた。


守るべき人間ではなく、まだ使える盾を選んだ手だった。


その目に、一瞬だけ冷たい光が差した。


失ったものを惜しむ目ではない。


切り離すべきものを、切り離し終えた者の目だった。


「私は、悲しいわ」


クララの顔が、崩れかける。


セリーナは続けた。


「でも、私は命じていない」


その言葉は、柔らかかった。


だからこそ、刃に見えた。


クララの涙が止まる。


エレオノーラは目を伏せた。


王子は一瞬だけ安堵したように見えた。


だが、エレナは記録板に指を置いたまま動かない。


「メイベル嬢」


「はい」


セリーナは、まだ被害者の顔をしている。


「あなたは、クララ・ノートンの行為について、一切の指示を否定されますか」


「……はい。私は何も命じておりません」


ガチリ。


『セリーナ・メイベル、クララ・ノートンへの席札移動指示を否定』


セリーナの喉が、わずかに動いた。


今の音が、彼女にも意味を持ったのだろう。


エレナは続けた。


「では、クララ・ノートンの行為は、あなたの意向とは無関係の独断として扱います」


「……はい」


「クララ・ノートン」


侍女の顔は、血の気を失っていた。


「主人はあなたへの指示を否定しました。あなたは独断で、王子殿下の名を騙り、ロッセ令嬢を断罪の位置へ移動させたことになります」


クララの唇が震える。


「ちが……」


声が漏れた。


セリーナの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。


エレナは、その一音を拾う。


「違う?」


クララは両手を握った。


赤い封蝋の残った手袋は、もう記録板の上にある。


彼女の手は裸だった。


指の爪の際に、赤い色がまだ残っている。


「違うのですね」


エレナは言った。


「では、訂正を」


クララはセリーナを見た。


セリーナは見返さなかった。


少しだけ、視線を外した。


それだけで、クララの何かが切れた。


「……お嬢様に」


広間が静まる。


セリーナの瞳が細くなる。


クララは震えながら続けた。


「お嬢様に、言われました」


ガチリ。


『クララ・ノートン、セリーナ・メイベルからの指示を証言』


セリーナが一歩、後ろへ下がる。


「嘘よ」


声は低かった。


柔らかさが消えていた。


「クララ、あなた、何を言っているの」


クララは泣いていた。


だが、先ほどよりずっと汚い泣き方だった。


顔が歪み、息が崩れ、言葉が引っかかる。


「席札を、中央へ。殿下が、ロッセ様を見える場所でお話しされるからって……。封蝋は、お嬢様の文箱から……」


「黙りなさい」


セリーナの声が落ちた。


今度は、誰も聞き逃さなかった。


ガチリ。


『セリーナ・メイベル、クララ・ノートンの証言中に制止発言』


セリーナの顔色が変わる。


「今のは……」


「記録対象です」


エレナは言った。


セリーナは口を閉じた。


初めて、彼女が自分の言葉を恐れた。


ミリアが、静かに呟く。


「ようやく、泣くのを忘れましたね」


エレナは記録板を見る。


「クララ。封蝋は、メイベル嬢の文箱から持ち出したのですね」


「はい……」


「その文箱は、今この場にありますか」


クララは頷く。


「お嬢様の侍女控え室に。夜会用の文箱を……」


「ミリア」


「確認に行かせます」


ミリアはすでに従僕へ目配せしていた。


動きが早い。


セリーナは、それを見ていた。


記録板ではない。


ミリアでもない。


従僕の背中を見ていた。


そこに文箱がある。


それが運ばれてくる。


その先を計算している顔だった。


エレナは言う。


「メイベル嬢」


「……はい」


「今の時点で、あなたの侍女から、あなたの指示による席札移動が証言されました」


セリーナは唇を噛む。


「侍女が、私を陥れようとしている可能性もあります」


「あります」


エレナは認めた。


「その可能性も記録します」


セリーナの目に、ほんのわずかな希望が戻る。


だが、エレナは続けた。


「ただし、あなたは先ほどクララの行為を独断として扱うことに同意しました」


セリーナの希望が止まる。


「その後、クララがあなたの指示を証言した」


記録板の白銀の文字が淡く揺れる。


「発言が矛盾しています」


セリーナは沈黙した。


「なお、この矛盾により、ロッセ令嬢への名誉毀損はさらに拡大したものとして扱います」


王子が言いかける。


「また――」


エレナは、王子を見なかった。


記録板の端に浮かぶ算定欄へ、淡々と指を滑らせる。


カチ。


硬い音がした。


怒声ではない。


加算の音だった。


「発言を続けられるのは自由です」


エレナは記録板から目を上げない。


「ただし、一言ごとに名誉回復費用は動きます」


白銀の数字が、わずかに増えた。


カチ。


もう一度、冷たい音がする。


そこで初めて、エレナは顔を上げた。


「計算が狂いますので、根拠のない発言はお控えください」


王子の口が閉じた。


エレナは記録板へ指を滑らせる。


「加算処理を行います」


ガチリ。


『名誉毀損補償、算定対象追加。虚偽または矛盾証言による社交信用毀損の拡大』


その音を聞いた時、エレオノーラは小さく息を吸った。


金の話。


そう思えば、醜いかもしれない。


けれど彼女は、初めて分かった。


これは自分の値段ではない。


傷つけた側に残る、傷の形なのだ。


遠くで、従僕の足音が戻ってくる。


木箱を抱えている。


小さな、白い花模様の入った文箱だった。


セリーナの目が、それを見た。


ほんの一瞬。


本当に一瞬だけ、被害者の顔が消えた。


ミリアが、エレナに囁く。


「答え合わせの箱ですね」


エレナは記録板を閉じなかった。


「開けてください」


従僕が文箱を開ける。


中には、便箋。


小さな封蝋棒。


そして、深い赤の封蝋。


甘い香りが、ふわりと広間に流れた。


ハンナが席札の裏を見る。


手袋を見る。


文箱の封蝋を見る。


そして、静かに頷いた。


「同じ香りです」


広間の誰かが息を呑んだ。


エレナは記録板に手を置く。


「証拠物件四号」


白銀の文字が浮かぶ。


『セリーナ・メイベル所有の文箱より、席札および手袋付着封蝋と同系統の深赤色香料入り封蝋を確認』


ガチリ。


セリーナは、もう泣いていなかった。


クララは、その場に崩れるように膝をついた。


「お嬢様……」


泣きながら、セリーナへ手を伸ばす。


赤い封蝋の残った指が、淡いドレスの裾を掴んだ。


小さな赤い指跡が、布に移る。


血ではない。


けれど、広間の誰もが一瞬、傷のように見た。


セリーナは反射的に、その指跡を払おうとした。


汚らわしいものを見る目だった。


自分の文箱から出た赤だということを、まるで忘れたように。


その動きを見て、クララの顔がさらに歪んだ。


王子は、何も言えなかった。


エレオノーラは立っていた。


まだ震えている。


それでも、最初に立たされた時とは違う。


今、彼女は断罪される場所にいるのではない。


証言が戻ってくる場所に立っていた。


エレナは、静かに言った。


「メイベル嬢」


セリーナの瞳が、エレナを射る。


「あなたの恐怖は、あなたのものです」


一拍。


「ですが、彼女の罪にはなりません」


記録板の白銀が、広間に冷たく光っていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第4話では、侍女クララの証言と赤い封蝋から、公開断罪の舞台裏が明らかになりました。


独断なら侍女の責任。

主人の指示なら、命令系統の責任。


エレナは感情ではなく記録で、主従の逃げ道を一つずつ塞いでいきます。


そして今回の締めは、


あなたの恐怖は、あなたのものです。

ですが、彼女の罪にはなりません。


次回は、王子の責任と、慰謝料・名誉回復の具体的な宣告へ進みます。

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