第3話 その封蝋、どなたの私物ですか
扉の開く音が、広間に細く響いた。
王宮儀礼局の係員が、二人の従僕に案内されて入ってくる。
若い男だった。
髪はきちんと撫でつけられている。
儀礼局の制服にも乱れはない。
ただ、襟元だけが、ほんの少し浮いていた。
呼び出されるとは思っていなかった者の首元だった。
彼は広間の中央に立つと、王子を見た。
次に、エレナを見た。
最後に、開かれた記録板を見た。
喉が、一度だけ動く。
「王宮儀礼局、席次係補佐、レオン・マルセルです」
声は、わずかに掠れていた。
エレナは記録板に指を添える。
白銀の文字が浮かぶ。
『王宮儀礼局席次係補佐、レオン・マルセル出頭』
ガチリ。
レオンの肩が、目に見えて跳ねた。
「マルセル係員」
「は、はい」
「本夜会におけるロッセ令嬢の席札移動について確認します」
「承知しました」
返事は早かった。
早すぎた。
ミリア・ベルナが、三枚の配置図を指先で整える。
紙の角が、ぴたりと揃った。
「夜会開始時。ロッセ令嬢の席は、第二王子殿下の左隣でしたね」
エレナが尋ねる。
「はい。婚約者として、正式な配置でございます」
「乾杯前に、王子殿下の正面へ移動しています」
「はい。殿下より、会話しやすい位置にとのご希望がありました」
アルフォンス王子が眉を動かした。
「その程度の変更なら認めた。婚約者と話すためだ。何も不自然ではない」
エレナは王子を見なかった。
「その記録は儀礼局に残っていますね」
「はい。控えがございます」
「では、三度目。会場中央への移動は」
レオンの唇が止まった。
視線が下がる。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬を、記録板より先にミリアが拾った。
「……存じません」
ガチリ。
『レオン・マルセル、三度目の席札移動への関与を否定』
音がした瞬間、レオンの耳が赤くなった。
エレナは淡々と続ける。
「訂正されますか」
「い、いえ。ございません」
「では、三度目の移動は儀礼局の正式作業ではない、と記録します」
「はい」
レオンは答えた。
けれど左手が、制服の袖を握っている。
ミリアはその手を見た。
見ただけだった。
今、摘むには早い。
「蝋台の管理係は」
エレナが尋ねる。
「外で待機しております」
従僕が答えた。
「入れてください」
ほどなく、年配の女官が入ってきた。
腰の曲がった、小柄な女性だった。
両手で、小さな木箱を抱えている。
「王宮儀礼局、蝋台管理係のハンナでございます」
彼女は深く頭を下げた。
場違いなほど丁寧な礼だった。
「ハンナ係。今夜使用された席札固定用の封蝋について確認します」
「はい」
ハンナは木箱を開けた。
赤い封蝋の棒が、整然と並んでいる。
色は鮮やかだが、匂いはほとんどなかった。
ミリアは、席札の裏面をハンナへ見せた。
「この三つ目の封蝋は、儀礼局の備品ですか」
ハンナは目を細める。
皺のある指が、席札に触れないぎりぎりで止まった。
「違います」
答えは早かった。
王子が顔を上げる。
「分かるのか」
「分かります」
ハンナは静かに言った。
「王宮の席札用封蝋に、香料は入れません。料理や花の香りを邪魔しますので」
ミリアの目が、ほんの少し細くなる。
「三つ目には?」
「香りがあります」
ハンナは小さく頷いた。
「蜂蜜と柑橘を混ぜたような。色も深すぎます。見栄えのために染料を足した、私物の封蝋でしょう」
広間の空気が、目に見えない糸で張られたようになった。
誰もが、誰かの手元を見た。
封蝋。
私物。
香料。
夜会でそれを持ち歩く者は限られる。
ミリアは席札を鼻先から少し離した。
「……どこかで嗅いだことがありますね」
一拍置く。
「この広間の、わりと近いところから」
誰かが扇を閉じた。
誰かが、手袋の指を丸めた。
セリーナ・メイベルは、王子の袖を掴んだまま俯いていた。
震えは戻っていない。
その代わり、指が布を浅く掴んでいる。
離す準備をしている手だった。
アルフォンス王子は、不快そうに息を吐いた。
「それが何だ。私物の封蝋を誰かが使ったとして、それがセリーナの被害と何の関係がある」
「今は、関係を断定しておりません」
エレナは言った。
「ただし、ロッセ令嬢を会場中央へ移した者が、儀礼局の正式手順を用いず、私物の封蝋を使った可能性は記録できます」
ガチリ。
『三度目の席札移動に、儀礼局備品ではない香料入り私物封蝋が使用された可能性』
音が響く。
セリーナの喉が、一度だけ動いた。
エレナは見た。
ミリアも見た。
「マルセル係員」
エレナが声を向ける。
レオンは背筋を伸ばした。
「三度目の席札移動は知らない、と先ほど発言されました」
「はい」
「では、あなたはロッセ令嬢が会場中央へ立つまで、その席札がそこに置かれていたことを知らなかったのですね」
「……はい」
「確認します。ロッセ令嬢を中央席へ案内したのは誰ですか」
レオンの呼吸が止まった。
今度は、一拍では済まなかった。
広間に沈黙が落ちる。
エレナは待った。
ミリアも待った。
エレオノーラは、白い手袋の指先を握りしめている。
セリーナは、王子の袖から指を少しだけ離した。
「……私です」
レオンが答えた。
ガチリ。
『レオン・マルセル、ロッセ令嬢を会場中央へ案内したことを認める』
アルフォンス王子が一歩踏み出す。
「待て。先ほど知らないと言ったではないか」
レオンの顔が青ざめる。
「私は……席札を移動した覚えはありません。ただ、ロッセ令嬢に、中央の席へとお伝えしました」
「誰の指示で」
エレナの問いは短かった。
レオンの視線が揺れる。
王子を見る。
セリーナを見る。
そして、広間の奥へ向かう。
「誰の指示で」
エレナがもう一度言う。
記録板は黙っていた。
言葉が出るまで、記録は待つ。
だからこそ、怖い。
「……匿名の伝言で」
レオンは絞り出すように言った。
広間がざわついた。
「伝言?」
エレナは表情を変えない。
「はい。王子殿下より、配置を変更するように、と」
「誰が持ってきましたか」
レオンは唇を噛んだ。
「メイベル男爵令嬢の侍女を名乗る女性です」
セリーナの肩が動いた。
ほんのわずかに。
王子が彼女を見る。
「セリーナ?」
セリーナは顔を上げた。
瞳は潤んでいる。
だが、先ほどまでの震えはなかった。
「私の侍女が……?」
彼女は呟いた。
「そんな。私は、何も……」
声は細い。
けれど今度の細さは違った。
怯えではない。
選んでいる。
どこまで否定し、どこから切り捨てるかを。
ミリアがエレナの横で、低く呟いた。
「切り離しに入りましたね」
エレナは答えない。
レオンは続けた。
「その女性は、封蝋された小さな紙片を持っていました。殿下のご意向だと。急ぎだと」
「その紙片は」
「……受け取っていません。読んだ後、その場で持ち帰られました」
「封蝋の色は」
レオンは目を閉じた。
「深い赤でした」
「香りは」
「……甘い香りがしました。蜂蜜のような」
ガチリ。
記録板が、言葉を刻む。
セリーナの指先が、王子の袖から完全に離れた。
王子はそれに気づいていない。
「そんなもの、いくらでも偽装できる」
王子が言った。
「セリーナの侍女を名乗っただけだろう。彼女が関わった証拠にはならない」
「はい」
エレナは頷いた。
素直な肯定に、王子は一瞬だけ言葉を失う。
「現時点では、メイベル嬢本人の関与を示す直接証拠ではありません」
セリーナの表情に、わずかな緩みが戻りかけた。
だが、エレナは続ける。
「ただし、殿下の破棄理由の前提は崩れています」
記録板に文字が浮かぶ。
『破棄理由一:招待状隠匿。ロッセ令嬢の関与証拠なし』
『破棄理由二:茶会における威圧。主観的恐怖の申告あり。ただし、具体的行為の証明なし』
『追加記録:ロッセ令嬢の席札、非公式に会場中央へ移動。私物封蝋使用。メイベル嬢側関係者を名乗る人物による伝言あり』
ガチリ。
ひとつずつ、閉じていく。
王子の怒りが、形を失い始めた。
「エレオノーラ」
王子は、ふいに彼女の名を呼んだ。
声の調子が変わる。
責める声ではない。
諭す声だった。
「君も分かるだろう。私は、君を辱めたいわけではない。君のためにも、この婚約を終わらせた方がいいと言っているんだ」
エレオノーラの顔が白くなる。
優しい声は、怒鳴り声より逃げ場がない。
「このままでは、君も苦しいはずだ。セリーナも苦しんでいる。私は、二人をこれ以上傷つけたくない」
王子の視線は、エレオノーラを見ていなかった。
少し遠くを見ていた。
目の前の令嬢の震えではない。
自分が背負っているつもりの、苦渋の決断を見ている目だった。
誰かを切り捨てる痛みを引き受ける自分。
醜聞を終わらせるために、あえて厳しい裁きを下す自分。
その悲劇性まで含めて、彼は自分の正しさだと信じていた。
広間の空気が揺れる。
王子は本気だった。
だからこそ、たちが悪い。
エレナは、何も言わなかった。
これは彼女が答える場面ではない。
エレオノーラは、両手を胸の前で握った。
白い手袋が、かすかに擦れる。
彼女は息を吸う。
震えている。
それでも、逃げてはいなかった。
「殿下」
声は小さい。
それでも、広間は聞いていた。
「私が苦しいことと、私が罪を認めることは、同じではありません」
王子の目が見開かれた。
エレオノーラは続けた。
「メイベル様が怖かったとおっしゃることを、私は否定いたしません。怖さは、その方のものです」
指先が震える。
でも、言葉は折れなかった。
「ですが、私が招待状を隠したこと、茶会で孤立させたこと、殿下のお名前で脅したこと。その事実は否定いたします」
王子は黙った。
セリーナも黙った。
エレナは、記録板に手を添えた。
「ロッセ令嬢の異議申し立てを記録します」
ガチリ。
『エレオノーラ・ロッセ、破棄理由に対し異議を申し立て。主観的恐怖は否定せず、具体的行為について否認』
その音を聞いた瞬間、エレオノーラの瞳が揺れた。
自分の言葉が、罪ではなく、異議として残った。
それだけで、彼女は少しだけ息を吸えた。
「なお、現時点での未確認発言および公開の場における名誉毀損拡大について、慰謝料算定に加算処理を行います」
エレナの声は変わらない。
王子がエレナを睨む。
「また金の話か」
「名誉を傷つけた場合、その回復には費用が発生します」
エレナは記録板から目を上げなかった。
「社交信用の回復、縁談機会の毀損、婚約準備費用、持参金交渉への影響。金額は後ほど正式に算定されます」
「脅しだ」
「処理です」
エレナの返答は短かった。
王子がさらに何か言いかける。
その前に、エレナが静かに続けた。
「言葉を重ねるたびに、名誉回復費用の算定が変わります」
淡々としていた。
あくびでもしそうなほど、平らな声だった。
「計算が狂いますので、根拠のない発言はお控えください」
広間に沈黙が落ちた。
王子は言い返さなかった。
怒鳴れば、また記録される。
黙れば、場が進む。
どちらを選んでも、彼の言葉はもう自由ではない。
セリーナが、ゆっくりと顔を上げた。
涙はまだ頬に残っている。
けれど、指先の震えは完全に消えていた。
彼女の視線が、エレナの顔ではなく記録板へ落ちる。
怯えた少女の視線ではなかった。
値踏みする目だった。
何が刻まれるのか。
何が刻まれなければ逃げられるのか。
誰の言葉なら、自分から切り離せるのか。
泣く場所ではなく、残す言葉を選ぶ場所。
彼女は、この場のルールを理解し始めていた。
「……あ」
ミリアが、エレナにだけ聞こえる声で呟いた。
「泣き顔は残しています。ですが、目だけが算盤を弾いていますね」
エレナは答えなかった。
ただ、記録板の端へ指を置く。
セリーナは王子の腕から、ほんの少しだけ身を離した。
半歩にも満たない距離。
けれど、それだけで、彼女が被害者役の位置から少し降りたことが分かった。
「あの」
セリーナは言った。
声はまだ柔らかい。
だが、柔らかすぎた。
「私の侍女を名乗った方がいたとしても、それが私の指示だとは限りません。私も、誰かに利用されたのかもしれません」
王子が彼女を見る。
「セリーナ……」
「私は怖かったのです。ロッセ様が何も言わないことも、この場に立つことも、全部」
セリーナはエレナを見た。
潤んだ瞳の奥で、焦点が細く定まる。
「それでも、私の恐怖は、記録していただけるのですよね?」
「記録します」
エレナは言った。
セリーナの表情が少し緩む。
「恐怖の申告として」
その緩みが止まった。
エレナは続ける。
「ただし、それはロッセ令嬢の加害を証明するものではありません」
セリーナの瞳が、ほんの一瞬だけ冷えた。
ミリアが小さく息を吐く。
「顔が変わりました」
今度は、エレナにも聞こえる声だった。
「ここからは、泣くより計算する顔です」
扉の向こうで、誰かが近づいてくる足音がした。
軽い足音。
女のものだ。
レオン・マルセルが振り返る。
「……あの侍女です」
その一言で、広間の視線が扉へ集まった。
エレナは記録板を閉じなかった。
セリーナの頬に残った涙が、蝋燭の灯を受けて光っている。
けれど、もう誰もその涙だけを見てはいなかった。
扉が開く。
若い侍女が、真っ青な顔で立っていた。
その手袋の指先に、深い赤が残っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第3話では、席札を動かした「手」と、封蝋に残された香りから、公開断罪の裏側にさらに踏み込んでいきました。
エレオノーラは今回、自分の言葉で異議を申し立てました。
私が苦しいことと、私が罪を認めることは、同じではありません。
この一言は、彼女がただ守られるだけの令嬢ではなく、自分の尊厳を守る当事者として立ち上がった瞬間でもあります。
一方で、セリーナもまた、ただ泣いているだけでは終わらない人物です。
被害者役が通じないと分かった時、彼女は次の言葉を選び始めました。
そして最後に現れた、指先に赤い封蝋を残した侍女。
次回、誰が席札を動かし、誰の意思で断罪の舞台が作られたのか。
エレナの記録板は、さらに踏み込んでいきます。
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