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その婚約破棄、慰謝料が発生します。 ――王立調停官は、公開断罪の嘘を記録板に刻む  作者: 平八


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第2話 席札は、断罪の位置を知っていた

王子は、すぐには答えなかった。


答えられなかった、というより、答える必要があると思っていない顔だった。


アルフォンス王子は、記録板を見た。

床にかすかに残る術式の光を見た。

それから、エレナ・ヴァイスを見た。


不安ではない。


不快。


自分の言葉を、自分より下の立場に見える女が、勝手に扱っていることへの不快だった。


「……何を言っている」


王子は、吐き捨てるように言った。


「私の意思に決まっている。セリーナは傷つけられた。エレオノーラ、君のためでもあるんだ。これ以上、疑いを抱えたまま婚約者でいるより、ここで終わらせた方が互いのためだろう」


エレオノーラの肩が小さく揺れた。


王子は本気で言っていた。


自分が彼女を罰しているのではなく、正しい場所へ戻しているのだと信じている。


その本気が、一番厄介だった。


「では、ロッセ令嬢の席札を移動させたのも、殿下のご指示ですか」


エレナが尋ねる。


王子の口元が止まった。


ほんの一拍。


「……そんなものは知らない」


記録板が淡く光った。


ガチリ。


『第二王子アルフォンス・レグラント、席札移動への関与を否定』


王子の眉間に、深い皺が刻まれる。


「いちいち記録するな」


「調停中の主要発言です」


「私を罪人のように扱うつもりか」


「発言を記録しているだけです。訂正されますか」


王子は、奥歯を噛んだ。


「……しない」


ガチリ。


また、音がした。


彼の言葉が、彼自身の手を離れていく。


社交の場であれば、後からいくらでも言い換えられた。

誤解だと言えた。

感情的になっただけだと言えた。

周囲も、王子の言葉に合わせて空気を整えただろう。


だが、記録板は空気を読まない。


エレナは席札を記録板の上に置いたまま、ミリアへ視線を向けた。


「ミリア。席札の管理は」


「王宮儀礼局です」


ミリア・ベルナは、三枚の配置図を指で押さえた。


「正式な配置変更なら、儀礼局に控えが残ります。招待主側からの緊急要請でも、係員の署名が必要です」


「今回の控えは」


「二度目までです」


ミリアは、紙の端を爪で軽く叩いた。


「三度目はありません」


広間の空気が、少し冷えた。


エレオノーラは席札を見つめていた。


白い手袋の指先が震えている。


だが、その目は逸れていなかった。


エレナは、それを見てから言った。


「三度目の移動は非公式。つまり、誰かが儀礼局の手順を通さずに、ロッセ令嬢を会場中央へ移した」


「だから何だ」


王子が低く言う。


「席が動いたからといって、セリーナが傷つけられた事実は変わらない」


「事実かどうかを、これから確認します」


「まだ疑うのか」


「確認します」


エレナの声は平らだった。


王子は、露骨に顔をしかめた。


手続きごときで、真実を汚されている。


そう思っている顔だった。


セリーナが、王子の袖をぎゅっと掴む。


「やめてください……」


細い声だった。


「もう、やめてください。私はただ、怖かっただけなんです。ロッセ様に睨まれて、茶会でも誰も話しかけてくださらなくて……殿下に相談しただけで……」


涙が溜まっている。


完璧ではない。


少し声が詰まり、呼吸も乱れている。


その乱れが、かえって人の同情を誘う。


アルフォンス王子は、彼女の肩を抱き直した。


「セリーナを責めるな。彼女は被害者だ」


「責めてはおりません」


エレナは言った。


「確認しています」


「同じことだ!」


「違います」


短い返答だった。


王子の怒りは、そこで行き場を失った。


エレナは記録板へ視線を落とす。


「セリーナ・メイベル嬢」


セリーナの睫毛が震える。


「あなたは先ほど、ロッセ令嬢に睨まれた、とおっしゃいました」


「……はい」


「いつ、どこでですか」


「先週の、王宮東庭園の茶会で……」


ガチリ。


『セリーナ・メイベル、王宮東庭園の茶会における威圧被害を主張』


記録板の音に、セリーナの喉が一度だけ動いた。


「その茶会への招待状は、ロッセ令嬢が隠した。殿下は先ほど、そう述べられました」


「……はい。私は、招待状を受け取っていなくて」


「受け取っていない」


エレナは、同じ言葉を繰り返した。


それだけで、セリーナの指が止まる。


ほんの一瞬だった。


その一瞬で、ミリアが紙をめくった。


「東庭園茶会の招待者控えです」


差し出された紙には、王宮郵送局の小さな印が押されている。


「メイベル男爵家への招待状は、茶会の五日前に発送済み。受領印もあります」


セリーナの唇が、わずかに白くなった。


王子が紙を睨む。


「そんなもの、偽造かもしれないだろう」


「偽造を疑うなら、郵送局長を呼びますか」


ミリアが、広間の西側へ視線を向けた。


「彼、今夜は招待客として壁際にいます。たぶん、今とても帰りたい顔をしています」


何人かが、つられてそちらを見る。


壁際の小太りの男が、手にした招待状で顔を隠そうとして、かえって目立っていた。


王子の眉がさらに寄る。


エレナは、発送控えを記録板へ置いた。


白銀の文字が浮かぶ。


『証拠物件二号:王宮郵送局発送控え。メイベル男爵家宛招待状、茶会五日前に発送済み。受領印あり』


ガチリ。


「受け取った者が、セリーナに渡さなかったのかもしれない」


王子は言った。


苛立ちの奥に、まだ確信があった。


自分は彼女を守っている。

だから、自分の推測もまた正しいはずだ。

そういう確信だった。


「その可能性はあります」


エレナは否定しなかった。


王子の表情が、わずかに戻る。


だが、次の言葉で止まった。


「その場合、招待状を隠したのはロッセ令嬢ではなく、メイベル男爵家内の誰か、または別の人物ということになります」


ミリアが、淡々と付け加える。


「少なくとも、発送記録上はロッセ令嬢の手元に招待状はありません」


エレナは記録板へ視線を落とした。


『破棄理由一:招待状隠匿。現時点でロッセ令嬢の関与を示す証拠なし』


ガチリ。


セリーナは、唇を噛んだ。


目尻に涙を溜めたまま、エレナを見ている。


潤んだ瞳。


けれど、その奥で焦点が揺れた。


「……私は、本当に怖かったんです」


セリーナは言った。


「ロッセ様は何もおっしゃらないんです。いつも、ただ静かに私をご覧になって……それが、私にはとても怖くて」


エレオノーラの肩が、かすかに動いた。


痛みが顔に出る。


彼女は何か言いかけた。


エレナは手を上げなかった。


止めもしなかった。


ただ、視線を向けた。


今、言うのか。

言わないのか。

選ぶのは彼女だ。


エレオノーラは、白い手袋の指を重ねた。


震えている。


それでも、口を開いた。


「……メイベル様が怖いと感じたことを、私は否定できません」


声は細かった。


だが、言葉は逃げなかった。


「それは、メイベル様の感じたことです」


広間の誰かが息を止める。


エレオノーラは続けた。


「ですが、私が招待状を隠したこと、茶会で孤立させたこと、殿下のお名前で脅したこと。その事実は、否定いたします」


エレナは、何も言わなかった。


その沈黙は、許可ではない。


誘導でもない。


ただ、彼女の言葉を横取りしないための沈黙だった。


セリーナの涙が、一粒落ちた。


「では、私の怖さは嘘だと言うのですか」


「いいえ」


エレナが答えた。


「恐怖は、本人のものです」


彼女は記録板に触れる。


「ただし、その恐怖を理由に誰かの名誉を毀損するなら、恐怖と事実は分ける必要があります」


セリーナの涙が止まった。


ほんの一瞬。


ミリアが、それを見た。


「……上手ですね」


誰にも聞かせないほどの声だった。


エレナだけが視線を向ける。


ミリアは、配置図を閉じながら小さく言った。


「泣くタイミングが」


「ミリア」


「失礼しました」


まったく悪びれていない。


エレナは記録板へ視線を戻した。


「なお、確認不十分な証言によってロッセ令嬢の名誉毀損が拡大した場合、慰謝料算定に加算されます」


広間に、かすかなざわめきが走った。


王子の目が細くなる。


「脅すつもりか」


「いいえ」


エレナは記録板の端へ指を滑らせた。


「算定基準に基づき、加算処理を行いました」


王子の口が閉じた。


脅しではない。


怒りでもない。


処理だった。


それが、余計に場を冷やした。


王子が一歩、前へ出ようとする。


その靴先で、床の術式が淡く光った。


彼は足を止めた。


記録板は武器ではない。


誰かを斬るものではない。


それでも、言葉を記録された者には、刃より重い。


「殿下」


エレナは言った。


「今のところ、破棄理由として提示された招待状隠匿について、ロッセ令嬢の関与は確認できていません」


「まだ他がある。茶会での孤立、私の名を使った脅迫も……」


「順に確認します」


エレナは淡々と答えた。


「そのために、調停官がいます」


王子は、不快そうに口を引き結んだ。


ミリアは席札を手に取り、裏面の蝋跡を鼻先から少し離した。


「三つ目の封蝋は、儀礼局の備品ではありません」


エレナが見る。


「違いますか」


「はい。香料が混じっています。高価な私物ですね」


ミリアは赤い蝋の縁を爪先で示した。


「夜会中にこれを持ち歩くなんて、ずいぶん計画的な事故です」


「誰のものか分かりますか」


「今はまだ」


ミリアは広間を見渡した。


ゆっくりと。


焦らすように。


「ただ、この香り。どこかで嗅いだことがあります」


一拍置いて、彼女は続けた。


「この広間の、わりと近いところから」


誰かが、手袋を握りしめた。


誰かが、扇子を閉じた。


誰かが、ほんの少しだけ後ずさった。


セリーナは王子の腕に縋ったままだった。


ただ、その視線が一瞬だけ、会場の奥へ流れる。


エレナは追わなかった。


まだ早い。


追うべきは、視線ではない。


記録に残るものだ。


「ミリア」


「はい」


「席札を最後に動かした者を確認します。王宮儀礼局の係員を」


「すでに呼びに行かせました」


即答だった。


「ついでに、蝋台の管理係も。儀礼局の備品と私物の封蝋では、香りも色も違いますから」


ミリアは、セリーナを見なかった。


見なかったからこそ、広間の何人かが彼女の視線の先を勝手に探した。


それが社交場だった。


誰もが沈黙に意味をつける。


その性質を、ミリアはよく知っている。


「殿下」


エレナはもう一度、王子を見た。


「改めて確認します」


記録板の白銀の文字が淡く揺れる。


「ロッセ令嬢の席札移動について、殿下は関与を否定されました」


王子は黙っている。


「では、次に確認するべきは一つです」


ミリアが静かに言った。


「誰が、ロッセ令嬢をこの位置へ運んだのか」


広間の視線が、足元へ落ちた。


王家の紋章が織り込まれた絨毯。


その中央に、エレオノーラが立っている。


先ほどまで、そこは断罪の場所だった。


今は違う。


証拠の中心だった。


遠くで扉が開く音がした。


王宮儀礼局の係員が呼ばれたのだろう。


エレナは記録板を閉じなかった。


閉じれば、この場はただの夜会に戻ろうとする。


戻してはいけない。


少なくとも、エレオノーラの沈黙が罪ではないと記録されるまでは。


「では」


エレナは言った。


「席札を動かした方に、発言していただきましょう」


その瞬間。


セリーナの指先から、震えが消えた。


泣き止んだのではない。


怖くなくなったのでもない。


ただ、震える必要がなくなったのだ。


彼女は王子の袖を掴んだまま、ほんの一瞬だけエレナを見た。


潤んでいた瞳の奥で、焦点が細く定まる。


被害者の顔ではなかった。


次に何を失い、何を守るべきかを数える者の目だった。


「……あ、切り替えましたね」


ミリアが、エレナにだけ聞こえる声で呟いた。


「ここからは、泣くより計算する顔です」


エレナは答えなかった。


ただ、記録板の上に置かれた席札を、静かに指で押さえた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第2話では、王子の婚約破棄が「感情の爆発」ではなく、誰かが整えた舞台だった可能性が見えてきました。


席札は、ただの紙ではありません。

誰が、誰を、どこに立たせたのか。

それだけで、断罪の意味は変わります。


そして最後、セリーナの震えが止まりました。


被害者役が通じないと悟った彼女は、次に何を選ぶのか。

エレナとミリアは、その演出の裏側をどう記録していくのか。


次回もお付き合いいただけると嬉しいです。

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