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その婚約破棄、慰謝料が発生します。 ――王立調停官は、公開断罪の嘘を記録板に刻む  作者: 平八


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第1話 この婚約破棄、手続きに重大な不備があります

新作です。


婚約破棄、公開断罪、慰謝料。

ただし、これは感情で殴るざまぁではなく、記録と手続きで嘘を暴く物語です。


「破棄は自由です。名誉を踏みにじる自由はありません。」


王立婚約調停官エレナの仕事、開幕です。

「エレオノーラ・ロッセ! 私はこの場で、君との婚約を破棄する!」


王宮夜会の中央で、第二王子アルフォンス・レグラントの声が響いた。


楽団の弓が止まる。


銀の杯を傾けていた老侯爵の手が止まり、笑っていた令嬢たちの唇が半端に開いたまま固まった。


大広間の中央。


王家の紋章が織り込まれた絨毯の上に、一人の令嬢が立っている。


淡い金髪。

青ざめた頬。

白い手袋をはめた指先。


エレオノーラ・ロッセ伯爵令嬢。


第二王子アルフォンスの婚約者。


いや。


いま、その肩書を奪われようとしている令嬢だった。


彼女は、あまりにもよく見える場所に立たされていた。


王子の正面。


貴族たち全員から見える位置。


一歩下がれば、逃げたように見える。

顔を上げれば、反抗したように見える。

泣けば、罪を認めたように見える。

黙れば、反論できないのだと思われる。


そういう場所だった。


誰かを断罪するには、よく考えられた位置だった。


「殿下……?」


エレオノーラの声は、グラスの縁に触れる爪のように細く震えた。


アルフォンス王子の隣には、一人の少女が寄り添っている。


柔らかな栗色の髪。

潤んだ瞳。

王子の袖を握る白い指。


男爵令嬢セリーナ・メイベル。


最近、第二王子のそばにいることが増えたと噂されていた少女だ。


セリーナは怯えているように見えた。


少なくとも、怯えているように見える角度を、必死に保っていた。


伏せた睫毛。

震える肩。

王子の袖を掴む指先。


その指先は、小刻みに震えている。


だが、恐怖に任せた震えではなかった。


見られるべき強さで、見られるべき場所だけが震えている。


エレナ・ヴァイスは、人垣の端からそれを見ていた。


セリーナの瞳が、一瞬だけこちらを向く。


潤んでいたはずの焦点が、細く、冷たく定まった。


次の瞬間には、また怯えた少女の目に戻っている。


「君は、セリーナを陰で傷つけた。彼女の招待状を隠し、茶会で孤立させ、さらに私の名を使って彼女を脅したそうだな」


ざわめきが広がった。


エレオノーラは唇を開いた。


「そのようなこと、私は……」


「言い訳は聞かない!」


王子の声が広間の天井へ跳ね返る。


それだけで、場の向きが決まった。


第二王子は断罪する側。


伯爵令嬢は断罪される側。


可憐な男爵令嬢は被害者。


物語は、すでに配置されていた。


その時だった。


「この婚約破棄、手続きに重大な不備があります」


冷たい声が、ざわめきを切った。


一瞬、誰も息をしなかった。


アルフォンス王子が眉をひそめる。


「何だと?」


人垣の端から、一人の女が進み出た。


黒に近い紺色の調停官服。

胸元には、王立婚約調停局の銀章。

手には、薄い黒板のような記録板。


エレナ・ヴァイス。


王立婚約調停官である。


「あれは……王立調停局の」


誰かが小さく呟いた。


「鉄面の事務官か」


「夜会だろうが王族の前だろうが、記録対象になったら止まらない女だ」


声は低かった。


だが、その低さの分だけ、恐れが滲んでいた。


エレナは深く礼をするでもなく、無礼にもならない角度で頭を下げる。


「王立婚約調停局所属、エレナ・ヴァイスです。殿下。先ほどのご発言は、正式な婚約破棄の意思表示として記録対象となります」


「私は王子だぞ」


「はい。ですので、より慎重な手続きが必要です」


王子の頬がわずかに引きつった。


エレナは記録板を開いた。


黒い板面に、白銀の文字が浮かび上がる。


『二十時十四分。第二王子アルフォンス・レグラント、エレオノーラ・ロッセ伯爵令嬢との婚約破棄を宣言』


文字が刻まれた瞬間、記録板の縁に彫られた古い王国文字が淡く光った。


大理石の床に、薄い術式の輪が一瞬だけ走る。


ガチリ。


錠前が閉じるような音が、広間の足元から響いた。


数人の貴族が息を呑む。


王子の顔色が変わった。


「待て。誰が記録しろと言った」


「国神契約に基づく王立婚約調停記録板は、公的空間における婚約破棄宣言を自動記録します」


「私はそんなことは命じていない!」


「命令は不要です」


エレナは記録板を指で示した。


「発言時刻、発言者、対象者、破棄意思。すでに記録済みです。削除はできません。訂正は、正式な撤回手続きによってのみ可能です」


再び、ガチリ、と小さく音がした。


王子の喉が上下する。


今までのざわめきは、噂を楽しむものだった。


今は違う。


誰もが床に浮かんだ術式の残光を見ていた。


社交上の見世物ではない。


王法と国神契約が、この場で動いている。


「記録板に刻まれたのなら……」


「王宮婚姻記録院に残る」


「王位継承審査にも、写しが回るはずだ」


声はすぐに消えた。


けれど、王子の耳には届いたらしい。


怒りの色が、焦りに変わる。


エレナはその変化を見届けてから、口を開いた。


「殿下。公的な夜会で、一人の令嬢の名誉を破棄理由ごと晒すのであれば、それを王国の記録に残される覚悟がおありということですね」


「……貴様」


「恋の終わりは自由です」


エレナの声は平らだった。


「ですが、婚約の破棄は手続きです」


広間の空気が重くなる。


エレナは記録板に指を添えた。


「まず確認いたします。殿下は、エレオノーラ・ロッセ伯爵令嬢との婚約を、本日この場で破棄する意思をお持ちですね」


「当然だ」


白銀の文字が淡く震えた。


ガチリ。


「破棄理由は、セリーナ・メイベル男爵令嬢への嫌がらせ、招待状の隠匿、茶会での孤立化、王子殿下の名を用いた脅迫。以上で相違ありませんか」


「その通りだ」


また、記録板に文字が刻まれる。


セリーナの肩が、ほんの少し揺れた。


王子の袖を掴む指が、わずかに強くなる。


布に、小さな皺が寄った。


「では次に、破棄理由を裏付ける証拠の提示をお願いいたします」


王子は鼻で笑った。


「証人ならいる。セリーナが被害を受けた」


「証言のみですか」


「被害者の証言だぞ」


「証言は重要です。しかし、婚約破棄の正式理由とするには、確認が必要です」


「貴様、セリーナが嘘をついていると言うのか!」


「いいえ」


エレナは記録板から目を上げた。


「私はまだ、誰の発言も嘘とは申し上げておりません。事実確認に移ると申し上げています」


セリーナの指が、さらに王子の袖を握った。


震えは、まだ続いている。


だが、長すぎた。


本当に怯えている者の指は、あそこまで綺麗に震え続けられない。


エレナは、視線だけでその事実を拾った。


エレオノーラは何も言えずにいた。


両手を胸の前で握っている。


白い手袋の指先が、何度もこすれ合っていた。


小さな布擦れの音。


その音だけが、彼女がまだそこに立っている証のようだった。


周囲から、低い囁きが流れる。


可哀想に。

でも、王子がここまで言うなら。

火のないところに煙は立たない。


エレナは、聞こえないふりをした。


煙は、誰かが焚くこともある。


火がないなら、火種を置けばいい。


そして、その火種の周りに人を集めればいい。


「ロッセ令嬢」


エレナは静かに呼んだ。


エレオノーラが顔を上げる。


「あなたは、殿下の破棄理由を認めますか」


「私は……」


彼女は王子を見た。


次に、セリーナを見た。


最後に、周囲を見た。


視線が彼女に刺さっている。


泣けば罪になる。

怒れば醜聞になる。

黙れば同意になる。


そのすべてを、彼女は理解している顔をしていた。


「……家に、ご迷惑がかかるのであれば」


エレオノーラの唇が震える。


「私は、何も」


「そこまでで結構です」


エレナは遮った。


広間がざわめく。


王子が一歩踏み出した。


「なぜ止める!」


「今の発言は、本人の自由意思による承認として扱うには不適切です」


「何?」


「衆人環視。王族からの糾弾。婚約破棄宣言直後。家名への影響を示唆する状況」


エレナは一つずつ置くように言った。


「その中での沈黙や曖昧な受諾を、正式な同意とは扱えません」


エレオノーラの睫毛が震えた。


エレナの声が、わずかに低くなる。


「沈黙は同意ではありません」


広間の空気が止まった。


「同意として扱いたい側にとって、都合がよいだけです」


エレオノーラが、はっとしたようにエレナを見た。


その瞳に、一瞬だけ光が戻る。


言えば、言質になる。

謝れば、認めたことになる。

黙れば、罪だと決めつけられる。


そのすべてを、彼女は今、理解した。


だからこそ、エレオノーラは唇を閉じた。


怯えて黙ったのではない。


これ以上、自分の言葉を奪われないために、黙ることを選んだ。


エレナは、その沈黙を記録しなかった。


記録すべきなのは沈黙ではない。


沈黙を罪に変えようとした、この場の構造だ。


王子は苛立ったように息を吐く。


「ではどうしろと言うのだ。私の婚約破棄は無効だとでも?」


「現時点では、無効です」


エレナは迷わず言った。


夜会場が凍った。


「この婚約破棄、手続きに重大な不備があります。破棄理由の証拠提示、当事者への異議申し立ての機会、証言の確認、いずれも不十分です。よって、現時点での宣言は無効です」


王子の顔が赤くなる。


「無礼者!」


「無礼かどうかは、後ほど王宮儀礼官に確認いたします。今は調停手続き中です」


エレナは淡々と言った。


「なお、このまま正式調停に移行した場合、争点は少なくとも四つです」


彼女は指を一本立てた。


「婚約不履行」


二本目。


「名誉毀損」


三本目。


「持参金および婚約準備費用の返還」


四本目。


「慰謝料」


セリーナが小さく息を呑んだ。


その音は、王子の腕の中でだけ聞こえるほど小さかった。


だが、エレナには見えていた。


彼女の喉が、ほんの一度だけ動いたことを。


王子の目が見開かれる。


「慰謝料だと? 被害者はセリーナだ!」


「その主張を採用するには、セリーナ・メイベル嬢が受けた被害と、ロッセ令嬢の行為との因果関係を示す必要があります」


「だから証言があると言っている!」


「では、証言を順に確認いたしましょう」


エレナは横へ視線を向けた。


「ミリア」


「はい」


人垣の後ろから、一人の若い書記官が進み出た。


薄灰色の髪をきちんと結い上げた、地味な装いの令嬢。


王立婚約調停局の臨時書記官、ミリア・ベルナである。


彼女は三枚の紙を抱えていた。


「夜会開始時の配置図です」


一枚目を示す。


「こちらが乾杯前に控えた修正版。そして、こちらが先ほど、殿下が宣言なさる直前の配置です」


三枚の配置図。


そこに記されたエレオノーラの席は、すべて違っていた。


ミリアは、紙の端を指で軽く叩いた。


「ロッセ令嬢の席だけが、三度動いています。他の席札は、一度も動いておりません」


会場の空気が、また変わる。


王子が眉を寄せた。


「席札がどうした」


ミリアは配置図を見下ろし、ほんの少しだけ笑った。


「この席順、性格が悪いですね」


「何?」


「一度目は殿下の隣。二度目は殿下の正面。そして最後は会場中央」


ミリアは淡々と紙を揃えた。


「泣けばよく見える。怒ればもっとよく見える。黙っても、周囲が勝手に意味をつけてくれる」


彼女の声には同情よりも、冷えた呆れがあった。


「悪趣味です。ただ、社交の悪意としては手慣れています。もう少し美しくやれば、見抜かれにくかったでしょうに」


数人の令嬢が、息を詰めた。


エレナは夜会中央に落ちていた席札を拾い上げる。


『エレオノーラ・ロッセ』


裏面を見る。


赤い蝋の跡。


一つではない。


三つ。


剥がされ、付け直され、また剥がされた痕跡。


蝋の縁はまだわずかに荒れていた。


急いで剥がした者の爪跡のように、赤い筋が紙の裏に残っている。


エレナは席札を記録板の上に置いた。


白銀の文字が浮かぶ。


『証拠物件一号:エレオノーラ・ロッセ令嬢の席札。複数回の移動痕あり』


床の術式が一瞬だけ灯る。


ガチリ。


ミリアが静かに言った。


「配置記録と物証が一致しました」


エレオノーラが息を止めた。


彼女自身も、気づいていなかったのだろう。


いや、気づく余裕などなかったのだ。


案内され、座り、呼ばれ、立った。


それだけで、断罪される場所へ運ばれていた。


エレナは席札を見下ろした。


婚約破棄とは、しばしば恋の終わりではない。


誰かを悪者にするための舞台である。


そして舞台には、必ず裏方がいる。


王子の顔から血の気が引いた。


セリーナは唇を噛んでいた。


その仕草も、怯えた少女としては自然だった。


けれど一瞬だけ、彼女の視線が席札ではなく、会場の奥へ逃げた。


誰かを探すように。


エレナは、それも見た。


「殿下」


「……何だ」


「誤解のないよう申し上げます」


エレナは記録板を指先で示した。


「この記録板は、真実を裁くものではありません。嘘を見抜くものでもありません。ただ、発言と証拠を、消せない形で並べるものです」


王子は黙った。


「殿下は、ロッセ令嬢がセリーナ嬢を傷つけたと発言されました」


記録板に、先ほどの発言が白銀の文字で浮かぶ。


「そして今、ロッセ令嬢の席札が意図的に動かされていた証拠が記録されました」


エレナは席札を持ち上げた。


「発言と証拠は、互いに矛盾し始めています」


夜会場の空気が、完全に変わった。


見世物を見る空気ではない。


調停を見る空気でもない。


事件を見る空気になった。


エレオノーラは、記録板を見つめていた。


そこには、自分の名前があった。


断罪される悪女としてではない。


調停の当事者として。


それだけで、彼女はようやく思い出した。


自分はまだ、発言してよい人間なのだと。


エレナは記録板を閉じずに、王子を見た。


「それでは改めて、確認いたしましょう」


彼女の声は、低く、冷たかった。


「その婚約破棄、本当に殿下ご自身の意思ですか?」


王子は、すぐには答えなかった。


答えられなかった。


エレナは一拍置き、さらに続ける。


「なお、正式調停に移行した場合、慰謝料は単なる金銭では終わりません」


アルフォンス王子の喉が動く。


「誰が、誰の尊厳を、どのような手続き違反で傷つけたのか。それを王国の正式記録に残すことになります」


白銀の文字が、記録板の上で淡く瞬いた。


「金貨は償いの形です。記録は尊厳の証明です。そして慰謝料は、傷つけた側に残る消えない瑕疵です」


誰も笑わなかった。


エレオノーラは、唇を噛んだ。


泣きそうな顔だった。


けれどそれは、先ほどまでの、追い詰められた者の涙ではなかった。


自分の沈黙が、ようやく罪ではないと認められた者の顔だった。


エレナは、静かに記録板へ視線を落とす。


その婚約破棄が恋の終わりなら、手続きに従って終わらせればいい。


だが、それが誰かの名誉を踏みにじるための舞台なら。


王国の記録は、舞台裏まで刻まなければならない。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第1話は、王宮夜会での公開婚約破棄と、王立婚約調停官エレナの介入回でした。


婚約破棄は自由。

けれど、相手の名誉を踏みにじる自由はない。


エレナの記録板は嘘を自動で見抜く道具ではありません。

発言と証拠を、消せない形で並べるためのものです。


次回は、席札を動かした者と、公開断罪の裏側に踏み込んでいきます。


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