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その婚約破棄、慰謝料が発生します。 ――王立調停官は、公開断罪の嘘を記録板に刻む  作者: 平八


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第14話 あなたの優しさは、私の言葉を必要としない

王都医師会の受付印は、思ったよりも軽い音を立てた。


ぽん、と乾いた音。


ただそれだけで、オスカー・レナート医師の名前は、照会対象として正式に受理された。


ミリア・ベルナは、受付台の上で控えを確認した。


日付。


時刻。


受付番号。


担当者名。


王都医師会の丸印。


どれも、感情の入り込む余地がないほど整っていた。


「受付完了です」


ミリアは控えを革鞄に収めた。


エレナ・ヴァイスは頷く。


「到達時刻を記録してください」


「はい」


ミリアの手が動く。


王都医師会への照会状、到達。


その一行が、オスカー医師の逃げ道をまたひとつ狭めた。


二人が静養館へ戻ったのは、午後の光が廊下に斜めに落ちる頃だった。


白い壁。


磨かれた床。


香油の匂い。


先ほどまで「清潔」に見えたものが、今は妙に白々しい。


廊下の端に、ダリオ家令が立っていた。


エインズワース侯爵家の紋章を付けた黒い外套。


姿勢は崩れていない。


けれど、手袋の指先は先ほどより強く握られていた。


「エレナ調停官」


ダリオは頭を下げた。


「ラウル様が、イレーネ様との対話を望んでおられます」


ミリアのペン先が、わずかに動く。


エレナは先に言った。


「対話の目的は」


「誤解を解くためです」


「誤解の内容は」


ダリオは一拍遅れた。


「ラウル様の真意について、です」


「真意」


エレナは繰り返した。


それだけで、ダリオの喉が動く。


「本人意思確認中の当事者に対する接触です。条件を提示します」


「条件、ですか」


「はい」


エレナは記録板を抱え直した。


「距離を保つこと。接触しないこと。発言の代替をしないこと。本人の回答前に結論を提示しないこと。イレーネ・カーディル令嬢が中止を望んだ時点で終了すること」


ダリオの眉がわずかに動いた。


「それでは、対話になりません」


「では、実施不可として記録します」


「お待ちください」


ダリオの声が少しだけ低くなった。


すぐに整える。


「ラウル様に確認いたします」


「不要です」


エレナは淡々と言った。


「条件を飲むか、対話を行わないか。二択です」


廊下の白さが、少し冷えた。


ダリオは頭を下げる。


「……承知しました」


その声には、侯爵家の家令としての矜持がまだ残っていた。


けれど、その矜持はもう、記録の前では足場にならない。


ミリアが短く記す。


『ラウル・エインズワース侯爵令息側、条件付き対話を受諾』


「イレーネ令嬢本人の意思確認をします」


エレナは言った。


「本人が拒否した場合、対話は行いません」


ダリオは一瞬だけ目を閉じた。


「……承知しました」


イレーネ・カーディルは、先ほどとは別の小さな応接室にいた。


白い部屋ではない。


薄い木目の壁。


低い机。


水差し。


窓辺には、枯れかけた白い花が飾られている。


誰かが慌てて「落ち着く部屋」を用意したのだろう。


だが、扉の外側に立つ職員の硬い肩が、この場所もまた完全には自由でないことを物語っていた。


イレーネは、椅子に座っていた。


膝の上には本がない。


両手を重ね、親指の爪を押さえている。


エレナを見ると、ゆっくり顔を上げた。


「イレーネ・カーディル令嬢」


「はい」


「ラウル・エインズワース侯爵令息が、あなたとの対話を希望しています」


イレーネの指が、小さく震えた。


ミリアのペン先が、紙の上で止まる。


「拒否できます」


エレナは続けた。


「中止もできます。途中で沈黙しても構いません」


イレーネは、窓辺の白い花を見た。


その花びらは少し乾いていた。


白いのに、もう瑞々しくはない。


「……会わないと、また」


言葉が止まる。


エレナは待った。


促さない。


慰めない。


代わりに言わない。


イレーネは、少し息を吸った。


「また、私が逃げていると言われる気がします」


「それは、対話を望む理由ですか」


エレナが問う。


イレーネは首を振った。


「いいえ」


指が、膝の上でゆっくりほどける。


「私が、言いたいことがあります」


ミリアの手が動く。


『イレーネ・カーディル伯爵令嬢、本人意思により対話を希望』


エレナは頷いた。


「条件を再確認します。接触なし。代弁なし。誘導発言があった場合は記録。あなたが中止を望んだ場合、その時点で終了します」


「はい」


イレーネは答えた。


声はまだ細い。


けれど、さきほどよりも自分の声だった。


ラウル・エインズワースは、応接室に入る時も優雅だった。


白い手袋。


整った襟元。


穏やかな微笑み。


誰が見ても、婚約者を案じる貴公子に見えただろう。


ただ、エレナの視線はそこでは止まらない。


彼の歩幅。


椅子との距離。


イレーネへ向かう視線の長さ。


手袋を直す指の癖。


すべてが、記録対象だった。


ラウルはイレーネの向かいに立った。


座ろうとはしない。


エレナが言う。


「着席してください」


ラウルは微笑む。


「立っていた方が、彼女に圧をかけると?」


「はい」


短い返答。


ラウルはほんの少しだけ笑った。


「本当に、容赦がない」


それでも彼は、椅子に座った。


イレーネとの距離は、机一つ分。


近すぎない。


けれど、完全に遠くもない。


ラウルはイレーネを見る。


「イレーネ」


その声は、相変わらず優しかった。


「怖い思いをさせたね」


イレーネの肩が、わずかに動く。


エレナの記録板が淡く光る。


「私は、君を責めに来たのではないよ」


ラウルは続けた。


「君が何を言っても、私は怒らない」


優しい言葉。


けれどその言葉の中には、最初から一つの位置関係が含まれていた。


君が言う。


私が許す。


イレーネはそれを聞いて、膝の上の指を見た。


「怒らない、ではなく」


小さな声だった。


「聞いてください」


ラウルの微笑みは崩れない。


ただ、彼の目が少しだけ細くなる。


「もちろん」


「許すかどうかではなく」


イレーネは顔を上げた。


「聞いてください」


ミリアの手が、静かに動いた。


『当事者、許可ではなく聴取を要求』


ラウルは、その文字が記される音を聞いた。


ほんの少し、目を伏せる。


それから、また優しく微笑んだ。


「分かった。聞くよ」


その言い方は、まだ優しかった。


そして、まだ少しだけ高かった。


「私は、君の幸せを願っていただけなんだ」


ラウルは静かに語り始めた。


「君は優しい。だから、自分で選ぶと、自分を傷つける。誰かを悲しませないために、自分だけを削る。私は、それをずっと見てきた」


イレーネの指が動く。


ラウルは続ける。


「私が選べば、君は傷つかなくて済むと思った。君が憎まれないように。君が責められないように。君が、自分の選択で苦しまなくて済むように」


声は澄んでいた。


静養館の廊下のように清潔で、白く、整っている。


「私は、君を閉じ込めたつもりはない」


彼は言った。


「君を守っていたんだ」


イレーネの唇が震えた。


その言葉は、ずっと彼女を包んでいた言葉だった。


守る。


助ける。


傷つけない。


優しさの形をした、柔らかい檻。


「私は」


イレーネは言いかける。


声が薄くなる。


ラウルはすぐに身を乗り出そうとした。


記録板に白銀の文字が浮かぶ。


『ラウル・エインズワース侯爵令息、当事者発言中に前傾動作』


ラウルの動きが止まる。


「……姿勢まで」


「はい」


エレナは答えた。


「当事者発言中の圧力になり得ます」


ラウルは目を伏せ、背もたれに戻った。


「失礼」


美しい謝罪だった。


だが、イレーネはそれを受け取らなかった。


彼女は、自分の喉を押さえた。


「私は、あなたに守られていました」


ラウルの顔が少しだけ和らぐ。


「でも」


その一語で、和らぎが止まった。


「その中に、私の言葉はありませんでした」


応接室の空気が、静かに変わった。


ミリアのペン先が止まる。


ラウルはイレーネを見ている。


初めて、完全に彼女だけを見ていた。


「そんなことはない」


声は穏やかだった。


けれど、その奥に細い硬さがある。


「君は、ずっと私に伝えてくれていたよ。言葉にできなくても、私は分かっていた」


イレーネは首を振った。


「分かっていた、ではありません」


「イレーネ」


「聞いてください」


ラウルの唇が閉じる。


イレーネは息を吸った。


「あなたの優しさは」


声が震える。


でも、消えなかった。


「私の言葉を必要としませんでした」


ミリアのペンが、強く紙を削った。


その一文が、応接室に残る。


ラウルの微笑みは消えない。


ただ、彼はゆっくりと瞬きをした。


「なるほど」


静かな声だった。


「君には、そう見えていたのですね」


イレーネの手が膝の上で震える。


ラウルは続けた。


「私の愛が、君には言葉を奪うものに見えていた。……それは、とても悲しいことだ」


彼はエレナを見た。


「あなたの記録も、そういう見方を補強するのでしょうね」


「記録は補強ではありません」


エレナは言った。


「本人発言の保存です」


「なるほど。あなたの目には、愛がそのように映るのですね」


ラウルは穏やかに微笑んだ。


エレナを責めているのではない。


怒ってもいない。


ただ、自分とは見えている世界が違う者を、少し気の毒に思うような目だった。


「それは、寂しい世界ですね」


「感想として記録できます」


エレナの声は変わらない。


「現在確認しているのは、本人意思です」


ラウルは小さく笑った。


「どこまでも、仕事なのですね」


「はい」


エレナは記録板を見たまま答えた。


「救済は、私の管轄ではありません」


応接室が静まる。


「私は調停官です。事実を、適切な項目へ移すだけです」


ミリアのペン先が、静かに止まった。


その言葉は、冷たかった。


だが、イレーネの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。


誰かの愛でも、誰かの救済でもない。


ただ、自分の言葉が自分のものとして置かれる場所。


それが、今の彼女には必要だった。


「私は」


イレーネは、もう一度言った。


喉が痛む。


息が浅い。


それでも、彼女は言った。


「婚約継続を望みません」


記録板が鳴った。


ガチリ。


『イレーネ・カーディル伯爵令嬢、婚約継続を望まない旨を本人発言』


言い終えた瞬間、イレーネの肩が大きく震えた。


吸った息が、うまく吐けない。


胸元を押さえる指が白くなる。


自分の人生というものは、こんなに重かったのかと、彼女は初めて知った。


ずっと誰かに預けていたもの。


家に。


婚約者に。


優しさに。


期待に。


それを、今、自分の細い腕で抱え直している。


重い。


痛い。


倒れそうなほど、苦しい。


それでも、イレーネは口元を押さえなかった。


今吐き出した言葉を、自分の手で塞がないために。


ラウルは、彼女を見つめていた。


「それは、本心?」


優しい問いだった。


そして、優しいからこそ危うかった。


「誘導性あり」


エレナが言う。


ラウルは微笑んだまま、視線だけをエレナへ動かした。


「本心かどうかを尋ねることも、誘導ですか」


「今の文脈では、当事者発言の確定直後に疑義を差し挟む行為です」


エレナは淡々と言った。


「本人発言の有効性を弱める可能性があります」


「そうですか」


ラウルは柔らかく頷いた。


「あなたの世界では、愛する者の本心を問うことも、項目になる」


「はい」


「面白い」


ミリアのペン先が止まる。


ラウルは本当に面白がっているように見えた。


怒りではない。


反発でもない。


自分とは異なる規則で動く箱庭を、外側から眺めているような目だった。


「なら、私自身の発言をします」


彼はイレーネを見た。


「私は、今も君を愛しています」


イレーネの肩が震える。


「君が私を拒んでも。君が私を怖いと言っても。君が今、冷たい記録の言葉に支えられていても」


彼の声は、祈りのようだった。


「私は、君の幸せを願っています」


応接室の空気が、その言葉にまた傾きかける。


イレーネの目が揺れる。


ラウルは謝らない。


弁解もしない。


彼はただ、最後まで「愛」を語る。


だから、たちが悪い。


エレナは記録板を見たまま言った。


「あなたの定義する幸せは、本人意思確認の項目に含まれていません」


ラウルの視線が、エレナに向く。


「記録上、それは自由の剥奪に分類されます」


静かだった。


切り捨てるというより、棚に移すような声だった。


ラウルの愛。


献身。


保護。


その全部が、事務規定の中で「自由の剥奪」という項目へ落ちた。


ミリアの手が動く。


『ラウル・エインズワース侯爵令息、自身の幸せ定義を根拠に当事者意思を代替。自由の剥奪として分類』


ラウルは、その文字が記される様子を眺めていた。


紙を削る音。


自分の愛が、別の名前で置かれていく音。


「なるほど」


彼は微笑んだ。


「あなたの目には、私の愛は剥奪に見える」


「記録上の分類です」


「ええ。そうなのでしょう」


ラウルは頷いた。


「けれど私は、やはり彼女の幸せを願っています」


彼は、エレナの分類を否定しなかった。


乗らなかった。


その土俵に降りなかった。


ただ、もっと高い場所から見ているように、自分の愛だけを置いた。


イレーネの指が震える。


ラウルは彼女を見る。


「イレーネ」


エレナの記録板が淡く光る。


ラウルは一瞬だけ止まり、言い直した。


「……私は、君がそう思い込まなくて済む日を待っています」


イレーネは、目を伏せなかった。


「私は」


声はまだ震えている。


「あなたに、待っていてほしいわけではありません」


ラウルの手袋の指先が、膝の上でわずかに動いた。


「忘れてほしい、と?」


「いいえ」


イレーネはゆっくり首を振る。


「私の言葉を、私の言葉として扱ってほしいです」


沈黙。


今度の沈黙は、ラウルのものだった。


だがそれは絶句ではない。


言葉を探しているのでもない。


彼はただ、イレーネの言葉を、自分の世界のどこに置くべきか測っているようだった。


「難しいことを言うね」


彼は微笑んだ。


美しい微笑みだった。


「君は、そんなに強い人ではなかったはずだ」


イレーネの顔が、少しだけ白くなる。


その一言は、刃物のように見えない。


けれど、確実に肌を切った。


記録板に白銀の文字が浮かぶ。


『ラウル・エインズワース侯爵令息、当事者の自己決定能力に対する否定的評価』


ラウルは、今度は止めなかった。


イレーネは、小さく息を吸う。


「強くなったのではありません」


声が震える。


「私が弱いことを理由に、私の言葉を奪わないでください」


ミリアのペン先が、紙に沈んだ。


ラウルの微笑みは、やはり崩れない。


それでも、その目の奥に、ほんのわずかに距離が生まれた。


イレーネを責める距離ではない。


理解できないものを、壊さず遠ざける距離だった。


「そう」


彼は静かに言った。


「君は、今はそう思うんだね」


「今だけではありません」


「エレナ調停官の影響ですか」


記録板が鳴る。


『第三者影響への転嫁発言』


エレナは言った。


「イレーネ令嬢。回答義務はありません」


イレーネはエレナを見た。


それから、ラウルを見た。


「答えます」


エレナは頷く。


イレーネは、両手を膝の上で重ねた。


「エレナ調停官は、私の代わりに答えませんでした」


ラウルの目が動く。


「私が黙っても、待ちました」


イレーネは続ける。


「私が震えても、決めつけませんでした」


声はまだ細い。


けれど、先ほどよりも深いところから出ていた。


「だから私は、自分で言えました」


ラウルは、長く沈黙した。


ミリアのペン先が紙の上で止まっている。


今度は、あえて書かない沈黙だった。


その沈黙に、ラウルの敗北が見えたわけではない。


むしろ、彼がまだ敗北を敗北として受け取っていないことが、そこにあった。


「君がそう思うなら」


ラウルはゆっくり立ち上がった。


エレナの目が動く。


「対話を終了しますか」


「はい」


イレーネが答えた。


ラウルより先に。


ラウルの手が、椅子の背に触れたまま止まる。


「……そう」


彼は柔らかく言った。


「では、今日はここまでにしよう」


今日は。


その言葉に、ミリアのペンが動きかけた。


エレナが先に記録する。


『ラウル・エインズワース侯爵令息、将来的再接触を示唆』


ラウルは小さく笑った。


「本当に、どこまでも」


「はい」


エレナは答えた。


「どこまでも記録します」


その返答に、ラウルは少しだけ目を細めた。


怒りではない。


憐れみでもない。


ほんの一瞬、もっと冷たいものが覗いた。


だが、それもすぐに消えた。


「イレーネ」


彼は最後に言った。


「私は、君の幸せを願っています」


イレーネは、すぐには答えなかった。


今までなら、その沈黙をラウルが意味づけていただろう。


迷っている。


怖がっている。


本当は分かっている。


けれど今回は、誰も彼女の沈黙を奪わなかった。


イレーネは、自分の沈黙を自分で持った。


そして、言った。


「私の幸せは、私が考えます」


言い終えた瞬間、身体がぐらりと揺れた。


椅子の肘掛けを掴む指が、白くなる。


呼吸が浅くなり、視界の端が白く滲む。


それでも、イレーネは言葉を取り戻さなかった。


自分の人生を自分で抱えた重さに、身体が耐えきれなくなりかけている。


けれど、ここで一歩でも引いたら、また誰かが代わりに持っていく。


その恐怖の方が、倒れることより怖かった。


ラウルは、それを見ていた。


優しい目で。


けれど、その優しさはもう、彼女を支える場所には届かなかった。


彼は深く礼をした。


美しい礼だった。


「分かりました」


だが、その声には、分かっていない者の静けさがあった。


彼は部屋を出る。


扉の前で、一度だけ振り返ろうとした。


エレナが一歩、視線の間に入る。


「現在、当事者は本人意思確認後の保護対象です」


エレナは淡々と言った。


「視認による圧力を継続する場合、接触制限申立の対象として記録します」


ラウルは、エレナを見た。


また、あの鏡面のような空白が一瞬だけ浮かぶ。


定義不能。


処理不能。


愛も家格も届かない事務の壁。


次の瞬間、彼は微笑んだ。


「あなたの名前は、やはり覚えておくべきですね」


「記録しますか」


エレナが言う。


ラウルは笑う。


「結構です」


扉が閉まった。


音は静かだった。


廊下を歩いていく彼の背筋は、少しも曲がっていなかった。


敗北した者の背中ではない。


反省した者の背中でもない。


自分が間違っていないと、まだ疑っていない者の背中だった。


エレナはそれを見送らない。


ただ、記録板の表示を確認した。


イレーネの肩から、目に見えない糸が一本切れたように見えた。


彼女は椅子の背にもたれた。


すぐに泣きはしなかった。


ただ、息をした。


深く。


自分の肺で。


エレナは記録板を閉じる。


「本人意思確認、終了」


ミリアが記す。


「イレーネ・カーディル伯爵令嬢、婚約継続を望まない旨を本人発言。ラウル・エインズワース侯爵令息による幸せ定義を、本人意思代替として分類」


ミリアはそこで一度、ペン先を止めた。


「自由の剥奪」


エレナが言う。


ミリアは頷く。


「はい」


白い紙に、その文字が沈んでいく。


イレーネは両手を握った。


救われた顔ではなかった。


勝った顔でもない。


ただ、自分の言葉が、他人の愛よりも先に記録されたことを、ようやく理解し始めた顔だった。


「エレナ調停官」


「はい」


「私は、まだ怖いです」


「はい」


「また、揺れると思います」


「はい」


「それでも」


イレーネは、自分の膝の上の手を見る。


「今日の言葉は、取り消さないでください」


エレナは、少しだけ記録板を抱え直した。


「本人による撤回がない限り、取り消されません」


「撤回しません」


記録板が、静かに鳴った。


ガチリ。


『イレーネ・カーディル伯爵令嬢、婚約継続拒否意思について撤回しない旨を発言』


ミリアが紙に写す。


イレーネは、その音を聞いた。


最初は怖かった音。


自分の人生が裁かれるように聞こえた音。


今は少し違って聞こえた。


誰かに奪われないように、床へ杭を打ち込む音に似ていた。


応接室の外で、廊下の空気が動く。


誰かが走る足音。


家令か。


職員か。


それとも侯爵家の使いか。


ミリアが扉の方へ視線を向ける。


「そろそろ、算定に移りますか」


イレーネが顔を上げる。


「算定……?」


エレナは頷いた。


「はい」


彼女は記録板を開く。


白銀の文字が、静かに浮かぶ。


「次に、それらが何を損なったのかを確認します」


ミリアが新しい用紙を取り出した。


今度の紙は、少し厚い。


算定用の公定書式。


白い紙面に、空欄が並ぶ。


損害項目。


責任主体。


回復措置。


補償額。


公告要否。


イレーネの喉が動く。


エレナは、項目を順に読み上げた。


「君を守っていた」


ラウルの声が、イレーネの記憶の中でよみがえる。


エレナの声が、その上に静かに重なった。


「不当隔離」


ミリアのペン先が動く。


「私は、君を分かっていた」


柔らかい声。


ずっと彼女を包んでいた声。


「本人意思代替」


白い紙に、冷たい文字が置かれていく。


「君の幸せを願っている」


祈りのような声。


美しい声。


逃げ道を塞ぐ声。


「自由の剥奪」


ミリアのペン先が、紙の一番下へ滑る。


イレーネは、白い算定用紙を見つめていた。


かつて愛だと思っていたものが、ひとつずつ別の名前に変わっていく。


守っていた。


不当隔離。


分かっていた。


本人意思代替。


幸せを願っていた。


自由の剥奪。


どの項目も、ラウルの声より冷たかった。


けれど、彼女の手元に近かった。


ミリアのペン先が、紙の一番上に触れた。


ガリッ。


その音を聞いた時。


イレーネは初めて、愛という言葉が、記録の上で解体されていくのを見た。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第14話では、ラウルとイレーネの対話を書きました。


ラウルは最後まで怒鳴らず、謝らず、自分の愛を疑いません。

だからこそ、彼は怖い人物です。


今回の中心は、


「あなたの優しさは、私の言葉を必要としませんでした」


というイレーネの言葉でした。


彼女は急に強くなったわけではありません。

自分の人生を自分で抱える重さに震えながら、それでも自分の言葉を取り消さないと決めました。


そしてエレナは、救済ではなく分類をします。

ラウルの「守っていた」「分かっていた」「幸せを願っていた」という言葉は、記録の上で「不当隔離」「本人意思代替」「自由の剥奪」へ変わっていきました。


次回は、いよいよ損害と名誉回復措置の算定に入ります。

続きを見守っていただけると嬉しいです。

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