第13話 医師免許は、家門の印ではありません
革鞄の留め具が閉じた音は、まだ白い部屋に残っていた。
けれどミリア・ベルナは、もう振り返らなかった。
一部、監査院。
一部、王宮婚姻記録院。
一部、王都医師会。
三部の複写は、彼女の革鞄の中で、ただの書類として収まっている。
怒りの重みではない。
正義の重みでもない。
次の工程へ運ぶべき、紙の重みだった。
ミリアが廊下へ出ると、静養館の職員たちが左右に避けた。
誰も声をかけない。
白衣の裾。
鍵束。
患者名簿。
香油の匂い。
この館では、それらがずっと「清潔さ」の顔をしていたのだろう。
ミリアは歩きながら、革鞄の持ち手を握り直した。
後ろから、エレナ・ヴァイスの足音が続く。
その歩幅は乱れていない。
指先の火傷など、最初から項目に入っていないかのようだった。
「ミリア」
「はい」
「王都医師会への照会を、先行してください」
「監査院より先に、ですか」
「はい」
エレナは短く答えた。
「この案件では、診断書の信用性が先に崩れます」
「承知しました」
ミリアは立ち止まらず、鞄から一部を取り出した。
王都医師会宛ての複写。
角はきれいに揃っている。
そこに書かれているのは、怒りではなかった。
外側施錠。
本人意思確認書の有効性への重大疑義。
面会制限の根拠不備。
発作兆候の具体的所見提示不能。
医師による意思能力喪失の断定不能。
それだけだった。
それだけで、医師一人の足場は十分に削れた。
「調停官殿」
後ろから、かすれた声がした。
オスカー・レナート医師だった。
白衣の袖口を握ったまま、廊下に立っている。
顔色は悪い。
けれど、まだ崩れてはいない。
専門職の顔。
貴族に呼ばれる医師としての顔。
そして、今まさにその顔を守ろうとしている男の顔だった。
「私の診療録を、先に確認していただけませんか」
エレナは振り返る。
「なぜですか」
「誤解があります」
オスカーは言った。
「イレーネ様の精神状態が不安定であったことは事実です。私は、それを踏まえて――」
「診断書の原本は」
オスカーの喉が動いた。
「準備中です」
「先ほども聞きました」
「ですから、今、事務室で」
「診断書の原本が存在しない状態で、面会制限と意思確認制限を運用していたのですね」
オスカーの唇が開いた。
閉じた。
ミリアのペン先が動く。
ガリッ。
「診断書原本、現時点で未提示」
オスカーがミリアを見る。
その目に、初めて明確な焦りが浮かんだ。
「待ってください。未提示というだけで、虚偽とは」
「虚偽とは言っていません」
エレナは淡々と答えた。
「未提示として記録しています」
「それは同じことです」
「違います」
エレナは一歩も動かない。
「未提示は、未提示です。虚偽かどうかは、照会後に分類されます」
その言い方が、オスカーの顔からさらに色を奪った。
まだ虚偽ではない。
だが、虚偽になる可能性が、公的な工程に乗った。
それが一番恐ろしい。
「医師免許番号を提示してください」
エレナが言った。
オスカーの指が、白衣の胸元に触れる。
そこには、小さな銀の認定章が留められていた。
王都医師会認定医。
その文字が、廊下の白い光を受けて冷たく光っている。
「……なぜ、今」
「医師会照会状に記載します」
「私が逃げるとでも?」
「逃走の有無は確認していません」
エレナは言った。
「必要な項目です」
ミリアが手を差し出す。
「認定章を」
オスカーは動かない。
「これは、患者の前で扱うものでは」
「患者の前ではありません」
ミリアは淡々と言った。
「照会対象者の前です」
その一言に、オスカーの眉がわずかに動く。
患者の主治医。
侯爵家に呼ばれた医師。
静養館で判断を下す専門家。
そのどれでもない。
照会対象者。
ミリアは、もう彼をそう処理していた。
オスカーは、ゆっくりと認定章を外した。
指先が震えている。
金具が小さく鳴った。
ミリアはそれを受け取り、裏面を読む。
「王都医師会認定番号、七三一四。オスカー・レナート」
ガリッ。
公定記録用紙に刻まれる。
「番号確認」
エレナが頷いた。
「診断書の作成経緯を確認します」
「侯爵家から、強い要請がありました」
オスカーは、早口になった。
「イレーネ様は婚約破棄を望んでいない。けれど周囲に影響されやすく、過剰な刺激を受けると不安定になる。だから静養が必要だと」
「その判断を、誰がしましたか」
「侯爵家が」
ミリアのペン先が止まった。
止まっただけだった。
だが、その沈黙は怒鳴り声より冷たかった。
オスカーは言い直そうとした。
「いえ、私が、医師として」
「今、侯爵家と発言しました」
エレナは記録板を見る。
「訂正しますか」
オスカーの額に汗が浮かぶ。
「私は、侯爵家の説明を踏まえて、医師として」
「侯爵家の説明を、診断材料として採用した」
エレナが言う。
「はい」
「本人の診察記録は」
「あります」
「提示してください」
「……現在、整理中です」
ガリッ。
ミリアが書く。
「本人診察記録、現時点で未提示」
「待ってください」
オスカーの声が少し大きくなった。
「未提示、未提示と、そう書かれると、まるで私が何もしていないように」
「何をしたかは、提示された記録で確認します」
エレナは答えた。
「提示されていないものは、現時点では確認不能です」
オスカーの呼吸が浅くなる。
医師は、診断する側だった。
記録する側だった。
患者の沈黙や震えに、名前を与える側だった。
だが今は、自分の言葉が記録の上で細かく分解されている。
そのことに、彼はまだ慣れていなかった。
「私は、侯爵家に逆らえなかった」
オスカーは言った。
その声には、わずかな惨めさが混じっていた。
「相手はエインズワース侯爵家です。こちらにも立場がある。私にも家族がいる。静養館との契約もある。あの家を敵に回せば、私だけでは済まない」
ミリアは、紙から目を上げた。
怒ってはいなかった。
むしろ、怒る価値もないものを見る目だった。
「侯爵家に頼まれた?」
声は静かだった。
「指示されたとしても、診断名を書いたのはあなたです」
オスカーは黙る。
「医師免許を持った人間が書けば、虚偽でも診断書になる。だから問題なんです」
廊下の空気が冷えた。
マルタ管理責任者が、少し離れた場所で息を呑む。
オスカーの唇が震える。
「虚偽とは、まだ」
「では原本を提示してください」
ミリアは即座に返す。
「診察日時、所見、症状経過、面会制限の医学的根拠、意思能力を疑う具体的所見。それらが揃っていれば、虚偽疑いは下げられます」
「今は」
「今は提示できない」
ミリアのペン先が紙を削る。
「記録しました」
オスカーの顔が歪んだ。
「あなたは、私を潰したいのですか」
「いいえ」
ミリアは首を傾けた。
「私は書いているだけです」
「その書き方が、私の信用を」
「信用は、私が削っているのではありません」
ミリアの声が、さらに冷える。
「あなたの診断書が、自分で崩れています」
エレナは、そこで口を開いた。
「あなたが捨てたのは、良心だけではありません」
オスカーの目が、エレナに向く。
「医師という国家資格に付与された信頼性そのものです」
声は平らだった。
裁いているのではない。
分類している。
「侯爵家の命令で医学的判断が変わるなら、それは医師ではありません」
ミリアが言った。
ペン先が紙に触れる。
「家門付きの筆記具です」
ガリッ。
オスカーの顔が、白い壁と同じ色になった。
「それは、あまりにも」
「失礼ですか」
ミリアは紙から目を上げない。
「では、医師としての判断を提示してください」
オスカーは答えない。
「提示できないなら、家門の指示を書き写した筆記具として処理します」
沈黙。
その沈黙の中で、ミリアは王都医師会宛ての照会状を取り出した。
公定書式。
上部に医師会の紋章。
下部には、照会者、記録番号、対象者、認定番号を書く欄がある。
ミリアは、淡々と記入していく。
照会対象者。
オスカー・レナート。
認定番号、七三一四。
照会理由。
本人意思確認制限に伴う診断根拠不備。
面会制限の医学的根拠未提示。
意思能力喪失の断定不能発言。
外部指示による医療判断歪曲疑い。
ガリッ。
ガリッ。
ペン先が走るたび、オスカーの肩が下がっていく。
「待ってください」
彼は、ついに一歩踏み出した。
「それが医師会に届けば、私は」
「照会されます」
エレナが言った。
「処分を決めるのは医師会です」
「新しい患者が来なくなる」
「その判断をするのは患者と紹介者です」
「契約も切られる」
「契約者が判断します」
「収入が」
「その収入は、医師免許に対する信頼によって得ていたものですね」
エレナの声は、変わらなかった。
「その信頼を診断書に使った以上、照会対象になります」
「私にも家族が」
「家族の有無は、診断書の真偽に関係しません」
短い。
冷たい。
それで、終わりだった。
オスカーの顔に、怒りが浮かんだ。
ほんの一瞬。
「あなた方は、机の上で人を殺す」
その言葉に、ミリアのペン先が止まった。
エレナは目を伏せない。
「医師は、紙で人を閉じ込めました」
廊下の白い壁が、やけに近く見えた。
「私たちは、その紙を照会します」
それだけだった。
それだけで、オスカーの怒りは置き場所を失った。
彼は、自分の白衣を見る。
白い布。
清潔な袖口。
その薄い染みが、急に目立った。
「私は……患者のために」
「患者本人の意思を確認せずに、ですか」
エレナが問う。
オスカーは黙る。
「患者本人に面会制限の理由を説明しましたか」
「それは、刺激になると」
「説明不能」
ガリッ。
ミリアが書く。
「患者本人へ面会制限理由の説明なし」
オスカーは、もう止めなかった。
「患者本人に、婚約継続意思確認書の内容を読み上げましたか」
「家令が」
「医師として同席しましたか」
「……しました」
「その際、本人が理解していると判断しましたか」
「弱っていたので」
「理解確認不能」
ガリッ。
「では、なぜ本人意思確認書を有効と扱ったのですか」
オスカーの喉が動く。
言葉は出ない。
ガリッ。
「回答不能」
その音で、オスカーの肩が落ちた。
エレナは記録板を抱え直す。
「照会状を送付してください」
「はい」
ミリアは照会状を三つ折りにした。
王都医師会宛て。
封蝋を用意する。
静養館の廊下で、彼女は迷いなく封をした。
蝋が落ちる。
赤い丸が広がる。
そこへ、公定照会印を押す。
じゅ、と短い音がした。
封蝋の赤に、調停局の細い紋が刻まれる。
オスカーは、それを見ていた。
診断書に自分の署名をした時も、彼はこうして印を見ていたのだろう。
だが、その時とは違う。
今回、封じられているのは患者の言葉ではない。
自分の専門職としての逃げ道だった。
「ミリア」
「はい」
「照会文の写しを、静養館控えにも一部」
「承知しました」
マルタ管理責任者がわずかに顔を上げる。
「当館にも、ですか」
「はい」
エレナは言った。
「この館は、医師の診断を根拠に面会制限と外側施錠を運用しました」
マルタは唇を結ぶ。
「医師会照会の結果は、当館の管理責任にも影響します」
「……承知しました」
その声は、もう館を守る管理責任者のものではなかった。
記録の端に名前を置かれた者の声だった。
ミリアが照会状を革鞄に収める。
その時、オスカーが小さく言った。
「私は、医師です」
誰に向けた言葉か分からなかった。
エレナにも。
ミリアにも。
自分自身にも。
「なら」
ミリアが、ようやく彼を見る。
その目に、怒りはない。
哀れみもない。
ただ、専門職の骸を確認するような冷たさがあった。
「医師として、診断書を出してください」
オスカーは答えられない。
「家門の意向ではなく」
ミリアは続けた。
「患者の状態を」
沈黙。
「それができないなら」
ペン先が、最後の一行を書く。
「医師免許は、家門の印ではありません」
ガリッ。
その一文が、廊下に落ちた。
オスカーは、膝から崩れはしなかった。
泣きもしなかった。
ただ、白衣の胸元に手をやった。
さきほどまでそこにあった認定章は、ミリアの手元にある。
胸元には、小さな穴だけが残っていた。
医師であることを示す銀の印が外れた場所。
そこに残った、頼りない布の歪み。
オスカーはそれを指先で押さえた。
まるで、そこにまだ何かがあると確認するように。
けれど、何もなかった。
ミリアは認定章を封筒とともに記録袋へ入れる。
「照会添付物として一時保全します」
「返して……」
「照会完了後、手続きに従います」
ミリアは革鞄を閉じた。
ぱちん。
その音に、オスカーの肩が震えた。
エレナは廊下の先を見る。
白い窓から、午後の光が差し込んでいた。
清潔な静養館。
静かな廊下。
磨かれた床。
そのすべてが、まだ何も起きていない顔をしている。
だが、記録はもう外へ出ていた。
ミリアが歩き出す。
一度も振り返らない。
オスカーの白衣にも。
マルタの青ざめた顔にも。
壁際で震える職員たちにも。
もう用はない。
彼女が見ているのは、王都医師会の受付印だけだった。
廊下の角を曲がる直前、エレナが言った。
「ミリア」
「はい」
「照会状の到達時刻も記録してください」
「承知しました」
ミリアは少しだけ口元を動かした。
笑みではない。
ただ、次の項目を確認しただけだった。
「では、医師会へ」
その言葉に、オスカー医師はようやく壁に手をついた。
白衣が、壁に擦れる。
音はしなかった。
診断書を書く手は、もう震えていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第13話では、オスカー医師の責任を描きました。
今回の中心は、
「医師免許を持った人間が書けば、虚偽でも診断書になる。だから問題なんです」
というミリアの言葉です。
オスカーは「侯爵家に頼まれた」と言おうとしました。
けれど、診断名を書いたのは医師です。
その診断書によって、本人の意思確認が制限された以上、責任は記録されます。
今回は、怒鳴る断罪ではなく、医師免許番号、診断書、照会状という実務で追い詰める回でした。
次回は、ラウルとイレーネの関係へ再び踏み込みます。
ラウルの「愛」が、本人の言葉をどう奪っていたのか。
続きを見守っていただけると嬉しいです。




