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その婚約破棄、慰謝料が発生します。 ――王立調停官は、公開断罪の嘘を記録板に刻む  作者: 平八


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第15話 追加損害・費用を正式算定します

ミリア・ベルナのペン先が、算定用紙の一番上に触れた。


ガリッ。


その音を聞いた時、イレーネ・カーディルは初めて、ラウルの言葉が別の形に変わっていくのを見た。


守っていた。


不当隔離。


分かっていた。


本人意思代替。


幸せを願っていた。


自由の剥奪。


白い紙の上で、それらはもう愛の言葉ではなかった。


甘い響きもない。


温度もない。


ただ、損害項目として並んでいた。


「まず、責任主体を分けます」


エレナ・ヴァイスは、記録板を開いた。


白銀の文字が静かに浮かぶ。


「エインズワース侯爵家。静養館。オスカー・レナート医師。各主体の責任範囲を仮分類します」


イレーネの指が、膝の上で少し縮こまった。


責任。


その言葉は、重かった。


けれど、ラウルの「君のため」よりは、ずっと輪郭がはっきりしていた。


ミリアは紙面の左側に、縦に三つの欄を作った。


エインズワース侯爵家。


静養館。


オスカー・レナート医師。


その下に、まだ空欄のままの細い罫線が続く。


「カーディル家は?」


イレーネが小さく尋ねた。


声には怯えがあった。


自分の家の名が、ここに書かれるのではないか。


その恐怖は、彼女の喉に残っていた。


エレナは彼女を見た。


「現時点では、調査対象です」


「調査対象……」


「はい。加担の有無は、記録と証言により確認します」


「では、まだ」


「責任主体としては確定しません」


エレナの声は冷たい。


けれど、その冷たさは、彼女の家名を不用意に傷つけなかった。


イレーネは、ゆっくり頷いた。


誰かが感情で守ってくれるより、ずっとましだった。


「補足します」


エレナは記録板から目を離さずに言った。


「あなたの意思を誰が所有するか、という議論は事務的に無効です」


イレーネは瞬きをした。


「無効……」


「はい。意思は発生した時点で個人に専属する項目です。譲渡も、管理も、代替もできません」


それは人道の話ではなかった。


励ましでもなかった。


ただの仕様説明のように、エレナは言った。


けれどイレーネには、その無機質な言葉が妙に深く刺さった。


自分の意思は、家の所有物ではない。


ラウルの所有物でもない。


静養館の管理対象でもない。


そう慰められたわけではない。


そう処理された。


それが、彼女には大きかった。


「では、エインズワース侯爵家から」


ミリアが言った。


ペン先は、まだ紙に触れていない。


エレナは記録板を見た。


「ラウル・エインズワース侯爵令息の供述における『保護』は、不当隔離として分類します」


ミリアの手が動く。


「同じく、『理解していた』という主張は、本人意思代替」


白い紙に、冷たい文字が置かれていく。


「『幸せを願っていた』という主張は、本人の自己決定を制限した結果に照らし、自由の剥奪として分類します」


イレーネは、それを見つめていた。


ラウルの言葉は、エレナの口に入った瞬間、別のものになる。


保護。


不当隔離。


理解。


本人意思代替。


幸せ。


自由の剥奪。


それは、ラウルの心を否定しているのではなかった。


彼の使った言葉を、記録上の棚へ移しているだけだった。


だからこそ、逃げ場がなかった。


「次に、静養館」


エレナは続ける。


「外側施錠。本人の自由退出不可。面会制限根拠不備。本人意思確認制限への協力」


ミリアは淡々と書く。


マルタ管理責任者は、応接室の隅で立っていた。


呼ばれたわけではない。


だが、算定の場に立ち会うよう求められていた。


彼女の両手は、前で固く組まれている。


「当館としては、安全管理上の慣例であり」


「慣例は記録済みです」


エレナは視線を向けない。


「本件で確認しているのは、それが本人の自由退出を妨げた事実です」


マルタの口が閉じる。


ミリアの手がまた動く。


「静養館滞在費返還」


その文字が書かれた時、マルタの顔色がさらに薄くなった。


「返還……ですか」


「はい」


エレナは言った。


「本人保護を名目としながら、本人の意思確認を制限し、外側施錠を伴っていた場合、当該滞在費は正当な静養費として扱えません」


「ですが、部屋も食事も、看護も提供しております」


「自由退出できない状態での提供です」


エレナの声は変わらない。


「提供内容の一部は、拘束環境維持費として再分類されます」


マルタは、息を呑んだ。


静養費。


看護費。


安全管理費。


これまで館が使ってきた言葉が、別の棚へ移された。


拘束環境維持費。


それは、言葉の服を脱がされた金だった。


「オスカー医師については」


ミリアが言った。


「王都医師会照会中。現時点では仮分類に留めます」


「はい」


エレナは頷く。


「診断書原本未提示。面会制限の医学的根拠不備。意思能力評価の具体所見提示不能。外部指示による医療判断歪曲疑い」


ミリアは手早く書いた。


ただし、金額欄には細い線を引いた。


「医師会照会結果待ち」


その一文だけが入る。


イレーネは、そこで初めて息を吐いた。


全部が一度に決まるわけではない。


けれど、逃げられもしない。


一つずつ。


書類が進む。


「では、損害項目に入ります」


エレナは言った。


ミリアは新しい欄に線を引いた。


精神的損害。


名誉毀損。


本人意思確認妨害。


追加調査費用。


名誉回復公告費。


公告掲示管理費。


文面作成費。


送達費。


その文字が並ぶたびに、イレーネは喉の奥が乾いていくのを感じた。


あまりにも現実的だった。


あまりにも具体的だった。


ラウルの愛が、金貨や公告や送達費へ変わっていく。


それは残酷だった。


けれど、なぜか少しだけ息がしやすかった。


「慰謝料とは」


エレナが言った。


「感情の値段ではありません」


イレーネは顔を上げる。


「奪われた発言権と、歪められた記録を修復するための費用です」


その声は、慰めではなかった。


教えでもなかった。


ただ、定義だった。


「あなたの苦しみを金貨に置き換えるものではありません」


エレナは続ける。


「あなたの意思が軽く扱われた事実に対し、社会的な重みを与える処理です」


イレーネの手が膝の上で止まった。


社会的な重み。


それは、ラウルの「君は弱い」という言葉より、少しだけ彼女を真っ直ぐに座らせた。


ミリアが金額欄にペンを置く。


「精神的損害補償、仮算定」


エレナは記録板を確認する。


「金貨三百枚」


マルタが目を伏せる。


イレーネは思わず声を出しそうになった。


金貨三百枚。


それが大きいのか、小さいのか、今の彼女には分からない。


だが、その数字が、ラウルの愛の言葉より重く紙に沈んだことだけは分かった。


「本人意思確認妨害に伴う追加調査費用」


「金貨八十枚」


ミリアが記す。


「静養館滞在費の返還」


「全額返還。金貨四十二枚」


マルタの肩が震える。


「名誉回復公告費」


エレナの声が少しだけ低くなった。


「金貨百二十枚」


ミリアの手が止まらない。


「公告掲示管理費」


「金貨三十枚」


「文面作成費および送達費」


「金貨二十五枚」


数字が並ぶ。


金貨三百枚。


八十枚。


四十二枚。


百二十枚。


三十枚。


二十五枚。


ミリアは合計欄に細い線を引いた。


「現時点での仮算定額、金貨五百九十七枚」


その数字が告げられた瞬間、部屋の外から小さな物音がした。


誰かが扉の向こうで息を呑んだのかもしれない。


「金貨五百九十七枚……」


マルタが、かすれた声で繰り返した。


ミリアは顔を上げずに言った。


「エインズワース侯爵家王都邸の、約二か月分の維持費に相当します」


ダリオがまだいない部屋で、その比較だけが先に落ちた。


侯爵家の二か月。


それは平民にとっては想像もつかない額だった。


けれど、侯爵家にとっては支払えない額ではない。


だからこそ、痛い。


破滅ではなく、体面を削る額。


無視できないが、泣き叫ぶには貴族の顔が邪魔をする額。


イレーネは、数字を見つめた。


五百九十七枚。


それが自分の苦しみの値段だとは思わなかった。


けれど、自分の言葉を奪ったことが、これほど具体的な負担として返っていくのだと知った。


「これで、終わりですか」


イレーネが尋ねた。


エレナは首を振った。


「いいえ」


ミリアが、別の欄を指で押さえる。


公告要否。


そこには、まだ何も書かれていなかった。


「名誉回復公告に入ります」


エレナは言った。


その時、応接室の扉が叩かれた。


短く、硬い音。


マルタが動くより先に、エレナが言った。


「入室者を確認してください」


ミリアが扉へ向かう。


開いた先にいたのは、ダリオ家令だった。


顔色は悪い。


だが、姿勢は崩していない。


「失礼いたします」


彼は深く頭を下げた。


「エインズワース侯爵家として、算定手続きに立ち会わせていただきたく」


「当事者代理ですか」


エレナが問う。


「家令として、伝達と確認を」


「委任状は」


ダリオの喉が動いた。


「ただいま準備を」


「正式代理人としては扱えません」


「では、立会人として」


「発言権は制限されます」


ダリオは一瞬だけ目を閉じた。


「承知しました」


ミリアがそのやり取りを短く記録する。


ダリオは部屋に入った。


彼の視線はまずイレーネに向かった。


すぐに外れる。


次に、算定用紙へ。


金額欄。


責任主体。


公告要否。


その順に、彼の目が動いた。


「名誉回復公告、とは」


ダリオが静かに言った。


「内容を確認させていただけますか」


「読み上げます」


エレナは、算定用紙の次の欄を見た。


「イレーネ・カーディル伯爵令嬢に関し、婚約継続意思確認および静養措置に重大な手続き上の瑕疵があったこと」


ダリオの顔から血の気が引く。


「本人意思の代替、不当隔離、面会妨害、自由の剥奪に該当する記録が確認されたこと」


マルタが目を伏せる。


「当該令嬢の沈黙および滞在は、婚約継続意思の証明として扱わないこと」


イレーネの指が震えた。


それは怖さだけではなかった。


自分の沈黙が、勝手に意味を与えられない。


そのことが、公の文章になる。


「以上を、王都中央広場、王宮婚姻記録院前掲示板、およびエインズワース侯爵邸正門横に、三十日間掲示するものとします」


ダリオの顔が、完全に止まった。


「侯爵邸の、正門横……?」


「はい」


「それは、あまりに」


「名誉を傷つけた影響範囲に応じた掲示場所です」


エレナは紙から目を上げない。


「社交界に波及した誤認を回復するためには、社交界から見える位置での公告が必要です」


「これは家門の名誉を破壊する行為です」


ダリオの声は静かだった。


けれど、初めて侯爵家の看板を背負った硬さが混じっていた。


「ラウル様だけでなく、侯爵家全体が社交界の前に晒されることになります」


「名誉を破壊したのは私ではありません」


エレナはようやくダリオを見た。


「令息の、記録に残る行動そのものです」


ダリオの手袋の指が動く。


「私はそれを書き写しているに過ぎません」


「それでも、掲示場所は」


「影響範囲の算定に基づき、妥当な公告媒体を選定した結果です」


「媒体……」


ダリオの口元が、かすかに歪む。


「侯爵家の正門横を、広告媒体として扱うのですか」


「名誉回復公告の掲示場所です」


エレナの声は変わらない。


「侯爵家の門が社交的信用の入口として機能している以上、訂正も同じ場所で行うのが妥当です」


「処罰に近い」


「名誉回復公告です」


「社交界は、そう受け取りません」


「受け取り方は、公告文の削除理由にはなりません」


エレナは算定用紙へ視線を戻した。


「処罰に見える場合、原因は公告文ではなく、公告される事実にあります」


ダリオは何も言えなかった。


イレーネは、そのやり取りを聞いていた。


侯爵邸の正門横。


そこに、自分の名が掲示される。


不当隔離。


本人意思代替。


自由の剥奪。


恥ずかしい、と思った。


怖い、とも思った。


けれど、それ以上に、別の感覚があった。


自分の沈黙が、罪としてではなく、奪われたものとして掲げられる。


それがどんな意味を持つのか、彼女はまだ完全には分からない。


それでも、胸の奥に小さな空気が入った。


「公告文には」


イレーネが言った。


全員の視線が向く。


声は小さい。


だが、彼女は続けた。


「私が、婚約継続を望まないと発言したことも、載りますか」


エレナは頷く。


「載せます。ただし、あなたの安全を損なわない範囲で文面を調整します」


「私の言葉として?」


「はい」


イレーネは、膝の上で手を握った。


「なら、載せてください」


ダリオが顔を上げる。


「イレーネ様」


エレナの記録板が淡く光る。


ダリオは口を閉じた。


イレーネは震えていた。


けれど、言葉を止めなかった。


「私が黙っていたから、続けたいと思われました」


「だから」


喉が震える。


「私は、望まないと、書いてください」


ミリアのペン先が止まる。


ほんの一瞬だけ。


次に動いた時、その音は低かった。


『本人希望により、婚約継続拒否意思を公告文へ反映』


ダリオは、目を伏せた。


「……ラウル様は」


その名が出た瞬間、イレーネの肩が揺れる。


エレナが言った。


「ラウル・エインズワース侯爵令息の心情は、公告要否の判断項目ではありません」


「しかし、侯爵家として」


「侯爵家の体面は、名誉回復公告の削除理由にはなりません」


ダリオの喉が動く。


「掲示期間の短縮は」


「三十日間です」


「せめて侯爵邸正門横ではなく」


「三十日間です」


「……掲示文面の一部調整は」


「被害者本人の意思と記録の正確性を損なわない範囲で検討します」


ダリオは静かに息を吐いた。


「承知しました」


その承知は、降伏に近かった。


エレナは記録板を見る。


「名誉回復公告費、金貨百二十枚。掲示管理費、金貨三十枚。文面作成費および送達費、金貨二十五枚」


ミリアが合計欄を見直す。


「仮算定合計、金貨五百九十七枚。医師会照会結果および監査院調査結果により増減あり」


「増える可能性は」


ダリオが問う。


「あります」


エレナは即答した。


「医師会が虚偽診断を認定した場合、医療判断歪曲による加算。監査院が静養館の組織的運用を認定した場合、管理責任加算。侯爵家指示が確認された場合、主導責任加算」


ダリオは、ゆっくりと手袋の指を握った。


「減る可能性は」


「あります」


「どのような場合に」


「記録と矛盾しない反証が提出された場合です」


「……反証」


「はい」


エレナは淡々と告げる。


「愛情表明は、反証にはなりません」


部屋の空気が、凍った。


ダリオは何も言わない。


マルタも、イレーネも、ミリアも黙っている。


その沈黙の中で、ラウルの声が見えない形でそこに残っていた。


君を守っていた。


分かっていた。


幸せを願っていた。


だが、それらはもう反証ではない。


損害項目の背景事情でしかなかった。


「支払責任の一次負担は」


ミリアが確認する。


エレナは記録板を確認した。


「現時点では、エインズワース侯爵家を主責任主体とします。静養館は不当隔離および管理責任において連帯対象。オスカー医師については医師会照会後に別途」


「カーディル家は」


イレーネの声が、わずかに掠れた。


「調査対象です」


エレナは言った。


「ただし、あなた本人の婚約継続拒否意思と名誉回復公告は、カーディル家の調査結果を待たずに進めます」


「なぜですか」


「あなたの意思は、あなたの家の所有物ではないためです」


イレーネは、息を止めた。


その一文は、慰めではなかった。


ただの分類だった。


だが、彼女の中で、何かが静かにほどけた。


ミリアが算定用紙の末尾に日付を入れる。


エレナは、指先で記録板の端に触れた。


火傷した指は、まだ赤い。


けれど、動きは迷わない。


「本件、追加損害および名誉回復措置、仮算定完了」


記録板に白銀の文字が浮かぶ。


「関係者へ写しを交付。異議申し立て期限、三日」


ダリオが顔を上げる。


「三日、ですか」


「はい」


「短すぎる」


「本人意思確認書は、三日以内の処理を求められていました」


ダリオの口が閉じる。


エレナは続けた。


「同じ期間で十分です」


ミリアが、ほんの少しだけ目を伏せた。


笑ってはいない。


ただ、その一文を逃さず記録した。


ダリオは、静かに頭を下げた。


「……写しを、頂戴いたします」


ミリアが算定用紙を複写する。


一部、エインズワース侯爵家。


一部、静養館。


一部、カーディル家通知用。


一部、調停局控え。


紙が重なる。


音は軽い。


けれど、そこに乗っているものは、誰の愛より重かった。


イレーネは、その紙を見つめていた。


自分の痛みが金額になった。


自分の沈黙が公告になる。


自分の拒絶が、責任主体を動かす。


怖い。


恥ずかしい。


逃げたい。


けれど、そのどれもが、これまでのように彼女の言葉を消さなかった。


むしろ、彼女の言葉の周りに、細い柵を立てていく。


誰かの愛が勝手に踏み込めないように。


「イレーネ令嬢」


エレナが言った。


「はい」


「公告文案は、あなたにも確認していただきます」


「私が、ですか」


「はい」


「私が見て、いいのですか」


エレナは少しだけ首を傾けた。


「あなたの名誉回復公告です」


当然のことを言う声だった。


「あなたが確認しない理由がありません」


イレーネの視界が、少し滲んだ。


泣いてはいない。


泣くには、まだ怖すぎる。


それでも、彼女は頷いた。


「確認します」


ミリアが短く記す。


『公告文案、本人確認予定』


その時、廊下の向こうから足音が近づいた。


早い。


硬い。


静養館の職員ではない。


ダリオが振り返る。


その瞬間、彼の手袋の指がわずかに止まった。


驚きではない。


予想外の者を見た顔でもない。


むしろ、来るはずのものが来た、と確認するような静けさだった。


扉が叩かれる。


三度。


規則正しく。


ミリアが扉を開けると、そこに立っていたのは、王宮記録院の制服を着た使者だった。


黒に近い紺の外套。


胸元には、王宮記録院の銀章。


使者は、室内を見回し、エレナへ視線を止めた。


「エレナ・ヴァイス調停官」


「はい」


「ローレン・アシュフォード記録監査官より、至急の照会です」


ミリアの顔から、表情が消える。


エレナは、記録板を閉じなかった。


「読み上げてください」


使者は封書を開いた。


薄い紙。


王宮記録院の透かし入り。


そこには、美しい字で短く記されていた。


「本件算定につき、王宮記録院による確認完了まで、公告手続きの一時停止を求める」


マルタが息を呑む。


イレーネの指が、また震える。


ダリオだけが、目を伏せた。


ほんのわずかに。


それは安堵にも、諦めにも見えた。


エレナは表情を変えない。


「理由は」


使者は、次の行を読む。


「当該公告が、貴族間婚姻秩序および王宮記録制度全体に及ぼす影響を精査するため」


部屋が静かになる。


ラウルの愛。


侯爵家の体面。


静養館の責任。


医師会照会。


そのすべての上に、さらに大きな影が差した。


王宮。


ミリアが、ゆっくりとペンを持ち直す。


エレナは言った。


「承知しました」


使者の表情が、少し緩む。


だが、次の言葉で止まった。


「一時停止要求を、記録します」


記録板が淡く光る。


「ただし、公告準備手続きは継続します。停止命令ではなく、停止要求であるためです」


使者の喉が動いた。


「ローレン監査官は」


「命令権限の根拠条文を添付してください」


エレナは淡々と言った。


「添付がない場合、当方は本人名誉回復措置を継続します」


ミリアのペン先が、算定用紙の端に触れる。


今度の音は、とても小さかった。


だが、部屋の温度が一段下がった。


エレナは使者を見た。


「返信を作成します」


白銀の文字が、記録板に浮かぶ。


『王宮記録院より公告停止要求。権限根拠未提示。名誉回復手続きは継続』


イレーネは、その文字を見た。


また、大きなものが来た。


侯爵家よりも大きいもの。


静養館よりも白く、医師会よりも遠いもの。


それでも、エレナの声は変わらない。


「ミリア」


「はい」


「公告文案作成を進めます」


「承知しました」


ミリアは新しい紙を取り出した。


公告文案。


白い紙面の最上段に、そう書かれている。


その瞬間、イレーネは気づいた。


ラウルの愛は、金額になった。


侯爵家の体面は、公告になった。


そして今、王宮の都合もまた、記録対象になろうとしている。


エレナは、淡々と言った。


「次は、公告文です」

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第15話では、ラウルの「愛」が、ついに算定項目へ変わりました。


守っていた。

――不当隔離。


分かっていた。

――本人意思代替。


幸せを願っていた。

――自由の剥奪。


今回書きたかったのは、愛そのものの否定ではありません。

けれど、愛という言葉で本人の意思を奪ったなら、それは記録上、別の名前で扱われるということです。


慰謝料も、感情の値段ではありません。

奪われた発言権と、歪められた記録を、社会の側へ戻すための処理です。


そして今回は、名誉回復公告も入りました。

王都中央広場、王宮婚姻記録院前、そしてエインズワース侯爵邸正門横。


社交界に広がった誤認は、社交界から見える場所で訂正する。

それが今回の「事務屋の戦い」でした。


次回は、公告文案の作成と、王宮記録院の介入へ進みます。


続きを見守っていただけると嬉しいです。

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