第8話 マニュアル通りの恋と、設計図にない感情
木曜日の放課後。
沈みかけた夕日が、誰もいない教室をオレンジ色と、長く伸びた濃い影のコントラストで染めていた。
俺はホワイトボードに、一分の狂いもない「全タイムライン」を書き出していた。
14:00 入店(第一印象の確立)
14:05 着席・メニュー確認(共通の話題の抽出)
14:15〜14:45 メイン会話フェーズ(弱さの開示の継続)
14:50 退店誘導(「まだいたい」と思わせる引き際)
15:00 解散。
「……橘くん、本当にプロを通り越して、もう怖いよ」
神谷が、膝に置いたノートにペンを走らせながら呟いた。
彼女の視線はボードに向けられているが、その焦点はどこか遠くを彷徨っているように見える。
「あれ?何か問題があるかな。演算にミスはないはずだけど……」
「ううん、ない。ないんだけど……」
神谷が少しだけ顔を上げ、小さく笑った。
「ここまで決められちゃうと、私じゃなくて橘くんが行くほうが、よっぽど佐野くんと仲良くなれそうだな、って」
俺はマーカーのキャップを閉めた。乾いた音が、静かな教室に響く。
「俺が行っても意味がない。だってこれは、神谷さんの恋だよ?」
「……そ、そうだよね。わかってる」
神谷がペンを指先でくるりと回す。その無意識の癖を、俺はフォルダの奥に刻み込む。
「なんでかな。橘くんと一緒に考えてる時間は、こんなに楽しいのに。いざ当日、一人で行くってなると……急に世界がモノクロになる気がするんだ」
俺は答えなかった。代わりに椅子を引き、神谷と向かい合って座る。
「シミュレーションを始める。……メニューの選択からだ」
俺はノートを開いた。佐野蓮に関する47枚分の分析データ。
「佐野は甘すぎるものを好まない。ブラックコーヒーは飲めるが、その場の調和を重んじる。おそらくアールグレイか、ラテを選ぶ。君は、彼に同調する必要がある。……が、あえて少しだけ外すと良いかな」
「外す?」
「完璧な同調は不自然だ。……神谷さん、君は何が好きかな?」
神谷が、弾かれたように顔を上げた。
「え? ……私の、好み?」
「うん。佐野の理想に合わせすぎれば、君自身の輪郭が消える。神谷さんの嗜好を一つ混ぜることが、作戦における『人間味』の演出になるんだ。……言って欲しい」
「……ほうじ茶ラテ」
「ほうじ茶?」
「うん。本当は、それが一番好き。地味かなって思って、誰にも言ったことなかったけど」
「そっか。じゃあ、それを頼むと良い。それが君の『本当』なら、それが一番美しい選択だよ」
神谷の頬が、わずかに赤らんだ。西日のせいではない。俺はそれを「データ上のイレギュラー」として無視した。
「……自信、持てるな。橘くんにそう言われると」
「では、会話のロールプレイに入る。……俺を、佐野だと思って欲しい」
一拍、置く。脳内で佐野蓮の声、表情、呼吸をトレースする。
「……来てくれてよかった。こういう場所、神谷さんは好きかな?」
俺は、俺自身が軽蔑したくなるほど爽やかなトーンで言った。
「うん。落ち着いてて、素敵なお店だね」
「よかった。神谷さんが笑ってくれると、選んだ甲斐があったよ」
神谷の手が、ノートの上で止まった。
俺と、彼女の目が合う。
「……佐野くんって、一人でここに来ること多いの?」
「うん。でも、一人で来るよりもずっと――」
俺はそこで、セリフを噛み殺した。
佐野ならこう言う。
『誰かと来るほうが、楽しいと知ったよ』。
けれど、俺の口から出たのは、そんな甘ったるい言葉ではなかった。
「――神谷さんといるほうが、意味がある。……そう思った」
静寂が、世界から音を奪った。
神谷の瞳の中に、俺という醜い軍師の姿が映っている。
「……今の」
神谷が、ささやくような声で言った。
「橘くんとして、言った?」
俺は答えなかった。心臓のドラムがうるさくて、思考が白濁する。
「佐野のセリフだよ。あいつなら、絶対もっと上手く言うよ」
「……そっか」
神谷が視線を落とす。彼女の耳たぶが、夕焼けよりも深く紅潮していた。
俺は自分の右手を、机の下で強く握りしめた。
土曜日。
俺は自室で、開いてもいない参考書を見つめていた。
スマホは机の端、視界に入らない場所に置いている。
鳴るはずがない。今、彼女は俺の作った世界で、別の男と「本物の恋」を演じているのだ。
部屋には時計の針の音だけが、等間隔に死を告げるように響いている。
夜、六時十四分。
震えるバイブレーション。
『神谷:終わった!! 大成功だったよ!! 報告したい。会える?』
俺は三秒見つめて、『明日でいい』と五文字だけ送った。
画面が消える。俺の部屋は、一瞬で深い水底のような静寂に戻った。
胸の中に、黒いインクを一滴落とされたような、鈍い痛みが広がっていた。
月曜日、昼休みの廊下。
神谷が、全速力で俺の前に立った。
「橘くん。あの、報告」
「……聞いた。大成功だったらしいな」
「うん! ほうじ茶ラテ、佐野くんにも『それっぽいね』って言われて、そこから趣味の話で盛り上がって……また行こうって、言ってもらえたの」
彼女の笑顔は、今までで一番輝いていた。
けれど、その輝きは俺が教えた「三秒」よりも長く、そしてどこか悲痛な影を孕んでいた。
「橘くん。何をお返しすればいいかな。私、こんなに良くしてもらったのに……」
「お返し?」
俺はパンの袋を握り潰しそうになった。
「必要ないよ。……君の恋が成功したデータ。それが俺の報酬だよ」
神谷が、俺の目をじっと見た。
「橘くんは、それでいいの? 本当に……それだけで、幸せなの?」
幸せなわけがないだろう。
心拍数のアラートが、頭の中で狂ったように鳴り響いている。
「そう。俺は軍師だ。戦果以上の喜びはない」
「……橘くんって、本当に……」
神谷が窓の外を見た。高すぎる秋の空。
「佐野くんと話してるとき、一回だけ、橘くんの声が聞こえた気がしたの。……錯覚だよね」
「ああ。ひどい錯覚だ」
俺は言い捨てて、歩き出した。
彼女の体温が伝わってくるような距離で、俺たちは並んで歩く。
二人の影が床に落ち、重なり合い、けれど決して一つに溶け合うことはない。
君の恋が完璧に近づくほど、俺というシステムは、君を拒絶しなければならない。
さもなければ、俺が君という「最高傑作」を、壊してしまいそうになるから。
鳴り止まない心拍のアラートを。
俺は無機質な呼吸の海へ、沈めた。
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