第9話 世界で一番綺麗な恋の、ゴーストライター
佐野蓮に呼び出されたのは、昼休みの屋上だった。
吹き抜ける風は既に秋の冷たさを孕んでいて、シャツ越しに体温を奪っていく。
「橘」
振り返ると、佐野がそこにいた。
普段は完璧に整えられている制服のネクタイが、今日に限って少しだけ緩んでいる。そのわずかな乱れが、彼という完璧な存在に宿った、本物の「焦燥」を物語っていた。
「話がある」
俺は警戒を解かず、無意識に左手の拳を握った。
脳内の演算回路は、数秒後の会話を予測するために、膨大な可能性を列挙し始める。進路の話か、あるいは――。
「神谷さんのこと、本気で好きになった」
回路が、激しい火花を散らして沈黙した。
予想していた言葉のはずだった。俺がその方向に誘導してきたはずだった。それなのに、いざその熱量を伴った響きを耳にすると、目の前の景色が白く爆ぜたような錯覚に陥る。
「橘に協力してほしいんだ。……お前なら、彼女のことを一番分かってる気がするから」
佐野の瞳には、一切の打算も、邪気もなかった。
そこにあるのは、澄み渡った冬の空のような、残酷なまでの「純粋」だ。
殴りたかった。
ふざけるな、と突き放したかった。
だが、俺の喉は固く閉ざされたままで、代わりに冷徹なロジックだけが、自分の首を絞めるように囁いた。
――佐野蓮なら、神谷陽向を幸せにできる。
その確率は、俺がこれまで計算してきたどのデータよりも、圧倒的な数値で「真」を示していた。
「……話を聞こう」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、砂を噛むような味がした。
放課後。
夕闇の迫る教室に一人残り、俺は一冊のノートを開いた。
真っ白なページが、俺を嘲笑っている。ここに書くのは、俺が世界で一番、あいつには言ってほしくない言葉たちだ。
告白の設計。
場所は、校舎裏の中庭。時刻は17時15分。沈みゆく西日が建物の影と混ざり合い、視界がオレンジ色のフィルターに包まれる、最も輪郭が美しく見える時間帯。
言葉の導入。沈黙の秒数。視線の動かし方。
そして――告白の台詞。
ペンを持った指先が、わずかに震える。
俺が彼女に伝えたかったこと。俺が彼女に届けてほしかったこと。
ずっと胸の奥の、開かずのフォルダに鍵をかけて仕舞い込んでいた「遺言」のような想い。
それを一つずつ取り出して、佐野蓮という男のフィルターを通して、「翻訳」していく。
『神谷さんと話してると、自分が少し変わった気がする』
(――俺は、君と出会って初めて、自分の空っぽさに気づいたんだ)
『ずっと、その笑顔を近くで見ていたい』
(――君の笑顔を、誰にも渡したくないと、あの日から願っていたんだ)
ペンがノートを削るたびに、俺自身の魂が削られていく感覚があった。
自分の心拍音をBGMに、俺は俺自身の葬美曲を書き上げていく。
一文字書くごとに、内側にある何かがポタポタと溢れ、ノートに吸い込まれていく。
書き終えてペンを置いたとき、右手は感覚を失っていた。
ノートの上には、この世で最も完璧で、この世で最も残酷な「幸福の脚本」が完成していた。
それは紛れもなく佐野蓮のための言葉であり、同時に、一文字たりとも俺の名前が含まれない、俺の最初で最後の恋文だった。
翌日の放課後。
オレンジ色の静寂に満ちた教室。神谷と俺、二つの影だけが床に長く伸びている。
「明日、佐野くんに気持ちを伝えようと思う」
神谷の声は、どこか霧の向こうから聞こえるように静かだった。
「そうか。……成功確率は極めて高い。安心しろ」
「橘くんと相談して決めたことだもんね。報告……しなきゃ、いけない気がして」
神谷が、視線を窓の外に逃がした。
沈みかけの太陽が、彼女の横顔を燃えるように照らし出す。その輪郭が、明日、俺のものではなくなる。
「……橘くんに会えなくなるのは、やっぱり、寂しいな」
ぽつりと、掠れた声が空気に溶けた。
「……コンサル期間が終わる。それだけの話だよ」
「そういうことじゃなくて。……橘君はいつも、そうやって言葉で全部片付けちゃうんだね」
神谷が振り返り、俺を射抜くような目で見た。その瞳が、微かに潤んでいることに気づき、俺は息が止まった。
「……神谷さん?」
「なんでかな。嬉しいはずなのに。うまくいきそうなのに……どうして、こんなに苦しいんだろう」
神谷は自分の目元を指の背で強く押さえた。
止められない涙が、一粒、机の角に落ちて弾けた。
「……橘くん、私、本当に……幸せになれるかな」
震える問い。俺は、自分の心拍数をカウントすることを諦めた。
心臓を素手で握りつぶされながら、俺はあらかじめ用意されていた「軍師」の言葉を吐き出す。
「……大丈夫。俺が保証する」
俺の声ではないような、低く掠れた音が教室に響いた。
「君の恋が成就することを、俺という全システムが保証する。だから、前だけを見て進んで欲しい」
神谷は涙を拭い、小さく頷いた。
「……うん。ありがとう、橘くん」
その「ありがとう」という言葉が、世界で一番鋭い刃となって、俺の胸を貫いた。
夜。
誰もいない校舎裏の中庭に、俺は一人で立っていた。
街灯の明かりも届かない、暗闇の淵。
明日、この場所で「最高傑作」が完成する。
佐野が立ち、神谷が立ち、俺の書いた言葉が空気に放たれる。
俺の見続けてきた神谷の笑顔は、佐野という所有者を見つける。
夜風が吹き、金木犀の濃厚な香りが鼻腔を突いた。
その甘い匂いに、眩暈がする。
俺はスマホを取り出し、メモアプリを呼び出した。
Case_48:
打ち込もうとして、指が硬直する。
液晶の冷たい光が、暗闇を暴力的に切り裂いている。
俺は、これまで自分を守り続けてきた「無機質な記号」に頼ろうとした。
そうしなければ、今この場で泣き叫んでしまいそうだったから。
――演算、終了。
震える指でそう打ち込んだとき、俺という機械のネジが、すべて弾け飛ぶ音が聞こえた気がした。
「……演算終了。明日、世界で一番綺麗な恋が、僕の手によって完成する」
音にならない声が、夜気に吸い込まれて消えた。
保存されたログは、どこにも届くことのない墓碑銘だ。
スマホをポケットに放り込み、俺は歩き出した。
振り返らない。
振り返れば、明日あいつたちが立つであろう場所を、永遠に呪い続けてしまいそうだったから。
暗闇の中、俺は一歩一歩、自分の存在を削り取りながら、一人きりの家路を急いだ。
金木犀の匂いだけが、いつまでも俺を追いかけてきた。
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