第7話 僕が作った笑顔で、君は別の誰かに落ちていく
土曜日の図書室は、密閉された古い紙と、微かな埃の匂いが充満していた。
迷宮のように入り組んだ書架の隙間を、秋の陽光が筋となって斜めに差し込んでいる。その光の帯の中で、無数の塵がまるで星屑のようにゆっくりと舞い踊っていた。
俺は入口から最も遠い、薄暗い地図資料のコーナーに陣取った。
大きな地図広げれば、それがそのまま俺という存在を隠す壁になる。ここからなら、神谷たちが作業をする中央エリアのすべてを、劇場の特等席から眺めるように見渡せた。
俺がここにいる理由は、ない。本来なら家で次のフェーズの演算でもしているのが正解だ。
それなのに、足がここへ向いた。開いた参考書の文字は、一時間前からただの記号の羅列としてそこにあるだけで、何一つ脳には届いていなかった。
「橘くん」
不意に、すぐ近くでささやき声がした。
振り返ると、棚の影から神谷陽向が顔を出していた。
今日は私服だ。袖の長い白いシャツ。俺が「君の腕の細さを強調し、清潔感の中に脆さを同居させる」と断言した、あの武装。
「本当に、苦手なこと言っていいんだよね」
神谷の声が、秋の空気に震えていた。
指先がシャツの裾を、執拗に握りしめている。
「大丈夫。それが唯一の正解だよ」
「なんか、作戦っぽくない? あざといって思われないかな?」
「君が本当に苦手なことなら、あざとさというノイズは入り込まない。……神谷さん」
俺は本から目を上げた。神谷の瞳を、真正面から見据える。
「完璧を演じ続ける神谷さんより、少しドジをしてしまう君のほうが――」
言葉が、喉の奥でつかえた。
『魅力の変数として優れている』。そう続くはずだった論理を、胸の奥の何かが握りつぶした。
「――ずっと、可愛い。行こう」
神谷は大きく目を見開いた。驚いたような、それからひどく困ったような表情を浮かべ、最後には小さく、けれど柔らかく笑った。
「……橘くんって、たまにずるいよね」
「客観的な評価だよ」
「うん。知ってる」
彼女は翻り、作業エリアへと戻っていく。
金木犀の香りが、一瞬だけ鼻腔をかすめ、すぐに図書室の古い紙の匂いに飲み込まれた。
俺は彼女の背中を見送りながら、参考書を強く握りしめた。文字が、滲んで見えた。
作業が始まって三十分が経過した。
神谷と佐野は、返却された本を棚に戻す作業を担当していた。
俺には二人の会話は届かない。ただ、パントマイムを見ているかのような無音の映像だけが流れてくる。
神谷が台車から分厚い美術全集を三冊、両手で抱え上げた。
その重さに肩をすくめながら、彼女は背伸びして高い棚へ手を伸ばす。
指先が震え、重心が不安定に揺れた。
その瞬間だった。
隣にいた佐野が、滑らかな動作で彼女の横に立ち、大きな手で本を支えた。
神谷の驚いた顔。佐野はそれを爽やかな笑みで受け流し、軽々と本を最上段へ収めてみせる。
一切の気負いも、打算もない。
神谷の口が「ありがとう」と動く。佐野が短く何かを答え、二人が並んで笑い合う。
作戦通りだ。
助けてもらうスキを作る。その余白に、佐野の『善意』という光が入り込む。
すべてが俺の描いた筋書き通りに進んでいるというのに、手のひらには爪が深く食い込んでいた。
さらに十五分後。
今度は蔵書管理のパソコンの前で、神谷が静止した。
図書委員が説明する操作に、彼女の顔がみるみるうちに曇っていく。
「えっと……どのボタンだっけ。……あ、やばい、変な画面が出た」
「大丈夫?」
佐野がひょいと首を傾けて画面を覗き込む。
神谷が耳まで赤くして、「私、本当にこういうのダメで……」と俯いた。
そこだ。
俺の脳が、極めて冷静に事実を記録する。
『弱さの開示』。それは完璧なタイミングだった。
佐野は「いいよ、貸して」と言ってキーボードに手を伸ばした。
「俺も去年、これと格闘して一時間溶かしたから。ほら、ここを叩けば戻るんだ」
「佐野くんでも、できないことあるんだね」
「そんなの山ほどあるよ。得意なことと苦手なことは、セットだからな」
佐野が屈託なく笑う。
その笑顔を見て、神谷もまた、心から安堵したように笑った。
それは俺の前で見せる緊張混じりの笑顔でも、練習した『三秒の笑顔』でもない。
佐野の「天然の太陽」に照らされて、自然に綻んだ、本物の感情の表出。
……本物か。
棚の陰で、俺は自分の冷たくなった左手を、右手でそっと包み込んだ。
俺が昨日まで必死に研磨してきた『神谷陽向』という原石は、今、佐野という最高のカット職人の手によって、磨き上げられた本物の宝石へと変わっていく。
ふと、神谷が視線を上げた。
書架のわずかな隙間を通じて、俺と目が合う。
――ちゃんとやれてるかな。
問いかけるような、すがるような目。
俺は表情を変えず、顎を数ミリだけ引いた。
(俺を見るな。あいつを見ろ)
神谷は小さく頷き、再び佐野の方へ向き直る。
誰も、本当の裏側など見ていない。
佐野は、神谷が誰の視線を気にしているのか気づかず、「顔、赤いけど。大丈夫?」と覗き込んでいる。
疑う余地さえない、幸福な世界。
俺は地図資料を閉じ、暗闇の中に自分を閉じ込めた。
午後三時。
西日がオレンジ色を通り越して、紫がかった赤に染まり始めた頃。
作業が終わった図書室で、全員が後片付けをしていた。
俺は足音を立てずに立ち上がり、出口へと向かった。
「神谷さん」
背後で佐野の声がした。
立ち止まってはいけない。俺は心拍数を一定に保つことに全神経を注ぎ、歩みを緩めなかった。
「今日、本当に助かった。もしよかったら――」
佐野が珍しく言葉を濁す。完璧なあいつが、一瞬だけ見せた人間らしい戸惑い。
「近くに新しくできたカフェがあるんだけど、お礼にどうかな。今度」
図書室が、息を呑むような静寂に包まれた。
「……うん。行きたい」
神谷の声が、静かに響いた。
一秒、そして一歩。
俺は扉を押し、廊下へ出た。扉が閉まる「カチリ」という音が、世界の断絶を告げる宣告のように聞こえた。
放課後の長い廊下。
床に伸びた自分の影は、不格好なまでに細長く、孤独を際立たせていた。
スマホを取り出し、メモアプリを呼び出す。指が、秋の空気に冷え切っていた。
『Case_48:第三フェーズ完了。自発的次会約定を確認。二人の距離――』
数値を打ち込もうとして、手が止まった。
数値を。
論理を。
成功確率を。
……書き込めなかった。
今の俺に打てる文字は、データとして価値のない、ゴミのような感情だけだった。
これであいつは、もう君を放っておけなくなる。
脳内で繰り返される呪文は、誰にも届くことなく消えていく。
窓の外には金木犀の木。風が吹き、微かな芳香と共に橙色の小さな花が数枚、道の上に散っていった。
依頼者は今頃、佐野と何を話しているだろう。
そんな客観的な疑問を打ち消し、俺は心の中で言い直した。
――陽向は今頃、笑っているだろうか。
名前を呼んだ。
声に出さず、ただ胸の空洞の中で響かせた。
それが俺に許された、軍師の皮を脱いだ一瞬だけの、愚かで最後のわがままだった。
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