第6話 作戦は順調、心は故障中
月曜日の休み時間。
俺は窓際の席で、ただ無心にシャーペンを動かしていた。
ノートには、一行も意味のある言葉は並んでいない。幾何学的な図形か、塗り潰された黒い四角形。視線は教科書に向いているが、文字はただの黒い虫のように網膜の上を這い回るだけで、一文字として脳には入ってこなかった。
「ねえ聞いた? 神谷さんと佐野くん、最近いい感じだよね」
隣の席の女子たちが、秘密を分け合うように囁く声が聞こえた。
「わかる。図書室でも二人で勉強してたんでしょ? お似合いだよね」
「佐野くん、あんなに格好いいのに全然気取らないし。神谷さんも最近、どんどん可愛くなってる気がする。恋の力かな」
俺は教科書のページを、乾いた音を立ててめくった。
耳の奥で、金属を削るような低い音が鳴り響く。耳鳴りか、それとも急激に跳ね上がった心拍数が聴覚を侵食し始めているのか。もはや、それを判断するための演算機能すら怪しかった。
……正解だ。
それが、この世界にとっての正解なんだ。
俺の構築した論理が、現実を望ましい形へ塗り替えている。
窓の外の空は、暴力的なまでに青い。俺はその色を、汚いものを見るような目つきで一度だけ見つめ、すぐにまた意味のないノートの余白に視線を落とした。
教室の前方。佐野が神谷の机に手をついて、親しげに笑いかけている。
神谷が小首を傾げ、少しだけはにかむように応じる。
周囲の空気が、二人を中心に穏やかな温度を纏い始める。佐野蓮という人間は、存在するだけで冬を溶かす太陽になれる。
俺はその温度の外縁——極寒の観測席で、手に残る「神谷が掴んだ腕の痕」を上履きの先で見つめ続けた。
放課後、ホームルームが終わった直後。
俺は誰よりも早く席を立ち、バッグを肩にかけた。今日は作戦会議の予定はない。
教室を出れば、それでいい。それで、今日は終わるはずだった。
「あ——橘くん」
神谷の声が、静まりかけた教室に響いた。
俺は振り返る前に、二秒の猶予を作った。肺に残ったわずかな酸素を全部吐き出し、代わりに無機質な「軍師」の空気を吸い込むための二秒。
振り返ると、佐野が彼女のすぐ後ろで、優しく微笑んでいるのが見えた。
神谷と俺の目が合う。その瞳が、助けを求めるように揺れているのを、俺の網膜は逃さなかった。
——後で、話したい。
無言のメッセージ。
俺は一秒だけその信号を受信し、次の瞬間には何もなかったかのように目を逸らして、廊下へと踏み出した。
三十分後。
夕闇の足音が忍び寄る、誰もいない教室。
神谷が入ってきたとき、俺はいつもの窓際の席で、既に電源の切れたスマホを見つめていた。
「ごめん、待った?」
「三分、いや五分か」
「あはは、また怒られちゃった。……あのね、佐野くんに誘われたの」
神谷がバッグを机に置き、椅子に深く腰を下ろした。
西日が長く伸び、床には俺たちの影が不自然なほど細長く並んでいる。
「今週末の図書委員、手伝ってほしいって。……私、図書委員じゃないのに。これって、その、橘くんの言う『口実』だよね?」
「ああ。ターゲットが主体性を持ち始めた。想定より早いが、好ましいデータだ」
「……うん。嬉しいはずなんだ。ずっと、あんな風に誘われたかったから」
神谷が、机の冷たい表面を白い指先でなぞった。
「でも、なんでかな。……橘くんに悪い気がして。私一人だけ先に進んで、橘くんを置いていくみたいな……そんな感覚がして。橘くんがいなかったら、私はまだあそこに立ち尽くしたままだったのに」
教室の空気が、一気に重さを増した。
俺は、自分が思ったよりもずっと低く、鋭い声を出した。
「神谷さん。……俺に悪い、という感情は論理的に破綻しているよ」
「橘くん……?」
「君は成功報酬を払う依頼者であり、俺はそれを受けて最適解を出力するだけの『装置』だ。電卓に数字を叩くとき、君はいちいち電卓に遠慮するのか?」
神谷の目が、傷ついたように揺れた。
「……そんな言い方、しないで。装置だなんて、そんなこと——」
「事実だ。感情を持ち込むのは演算の邪魔になる。そういう感傷は、成功したあとに一人でやればいい」
「……冷たいよ。君は本当に、血が通ってるの?」
血。そんなもの、とうの昔に氷点下まで冷え切っている。
そうでなければ、好きな人を別の男にプロデュースするなんて真似、正気でできるはずがない。
「次のフェーズの話をする。……『弱さの開示』だ」
俺は無理やり話を逸らした。震えそうになる声を、肺に力を込めることで押さえつける。
「人間は完璧な存在を敬遠する。だが、愛するのは——欠けた部分だ。今、佐野は君に『綺麗な自分』しか見ていない。次のステップは、その認識を壊すことだ。意図的に、綻びを見せる必要がある」
「……本当に苦手なこと、言えばいいの?」
「そうだ。数学ができないでも、高いところが怖いでもいい。ただし、嘘はついてはいけない。佐野には見破られる」
神谷は黙ってメモを取り、不意に俺の顔を覗き込んだ。
「……橘くんは? 橘くんの弱いところって、どこ?」
喉の奥が、焼けるように熱くなった。
「俺の話は今関係ない」
「関係あるよ。私がさらけ出すなら、君のことだって知りたい。……練習として、一個だけ教えて」
「……練習にはならない。俺は佐野じゃないからだ」
「そうじゃないの。私は、君のことを——」
神谷の声が、震えていた。
「さっきあんなに冷たいこと言ったけど、橘くん、本当はすごく無理してる気がする。私と話してるときの橘くんの方が……自分らしくいられるって言ったら、君はまた『計算ミス』だって言うかな」
心拍数:——測定不能。
脳内の演算回路が、火花を散らして沈黙した。
彼女が俺を求めているわけではない。これは、ただの信頼だ。軍師に向けられた、残酷なまでの信頼に過ぎない。
「……君らしくいられるのは、俺がただの装置だからだ。壁に向かって独り言を言っているのと変わらない。……今日はここまでだ」
俺は逃げるように立ち上がった。バッグを掴み、資料を乱雑に詰め込む。
早く、この温度から逃げなければならない。
「あ、待って橘くん。最後に……笑顔の練習は? 今日の分、まだしてないよ」
神谷の言葉に、俺はドアへ向かおうとした足を止めた。
振り返らず、背中を向けたまま、喉の奥から絞り出す。
「……笑顔は、もう練習しなくていい。今の君の笑顔は、既に十分、素敵だ。……計算する必要はない」
言ってから、取り返しのつかないミスをしたことに気づいた。
完全に、余計なノイズだ。軍師が口にしていい評価ではない。
「えっ……?」
背後で神谷が息を呑む気配がした。
俺は神谷の顔を見ないように、早足でドアへ向かった。ドアノブを掴む指が、情けないほどに冷たくなっている。
ドアを開けようとした瞬間、背後から弾んだ声が追いかけてきた。
「橘くん! ……褒めてくれたよね、今。今の私の笑顔、素敵だって」
「……データの、客観的評価を述べただけだ」
「ふふっ。相変わらず、素直じゃないんだから」
俺は答えず、ドアを開けた。
一歩踏み出した廊下の空気は、ナイフのように冷たかった。
「……橘くん、頑張るね。今週末。私——君の言った通りにやってみるから」
俺は振り返らずに、ただ背中でその言葉を受け止めた。
「……ああ。計画通りに進めればいい。……それだけだ」
廊下へ出た瞬間、背中の筋肉ががたがたと震え出した。
十歩ほど歩いてから、俺は誰の目にも入らない壁に激しく肩をぶつけた。
右手が、止まらない。
制御を失ったかのように震える指を、左手で力一杯握りしめ、ポケットの奥に隠した。
情なんて、一ミリもあってはならない。
感情を殺さなければ、俺というシステムの存在意義が消えてしまう。
窓の外、空は濃紺に塗り潰されていた。
どこからか漂う金木犀の匂いが、肺の奥まで沁み込んで、抉るような痛みを残していく。
「……あいつに弱さを見せるとき、僕の役目は終わる」
誰にも聞こえない、消え入りそうな独白。
もし彼女に「本当の弱さ」を一つだけ教えることが許されるなら。
——今すぐ君を連れ去って、この作戦を全て台無しにしたい。
そんな最低な願望を、俺は演算式の奥底に叩き込み、再び一歩を踏み出した。
震える足取りで。けれど、もう止まらなかった。
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