第40話 【最終回】君の恋を叶え続けた僕は、最後に自分の恋を知った
橘晴人は、自分が泣いていることに、心臓が数回波打った後でようやく気づいた。
陽向に引き寄せられた腕は、もう俺の支配下になかった。音楽室の窓からは、血のような夕焼けが差し込み、二人の足元を濃いオレンジ色に染め上げていた。
陽向の震える指先が、俺の腕を強く掴んでいる。俺の掌の中には、あの蒼い石。
涙が、次々と頬を伝っていく。
俺はそれを止めようとしなかった。いや、止めなかったのではなく、止めるという「選択肢」が脳内に浮かんでこなかった。これは「バグ」や「演算エラー」ではない。俺という空っぽだった器が、彼女の熱によって限界まで満たされ、溢れ出しただけの――自然現象だった。
「……陽向」
俺の声は、雨に濡れたような深い湿り気を含んでいた。
「うん」
「俺は、ずっと。……お前のことが」
言葉が、詰まる。
生まれてから今日まで、何万という言葉の組み合わせを処理し、他人の心を操るための「正解」を編み出してきた。軍師としての俺の全ては、言語によって構築されていた。
なのに、今。
自分自身の本音を語ろうとした瞬間、俺の手元に残っていたのは、ひどくありふれた三文字だけだった。
「好きだった」
その言葉が口から零れ落ちた瞬間、陽向の腕にかかる力が強くなった。
「知ってる」
「最初から。……誰よりも、ずっと」
「知ってるよ」
「それでも……俺は、それを殺すことしかできなかった」
「それも、知ってる」
陽向の声が、すぐ近くでした。
「橘くん」
「ああ」
「お願い。もう一度だけ、言って」
俺は深く、深く息を吸った。
冬の音楽室の冷え切った空気。その中に、彼女の吐息の甘さと、俺の涙の塩分が混ざり合う。
「……好きだ、陽向」
今度は、迷わずに、現在形で。
陽向が、安堵したように俺の胸に額を押し当てた。
――ドクン。ドクン。ドクン。
俺の心臓は、激しく、しかし驚くほど穏やかなリズムを刻んでいた。
それはかつてのアラートや砂嵐ではない。俺という一人の男が、愛する人と重なり合った時にだけ奏でられる、不格好で美しい生命の賛歌。
ピアノの上に置き去りにされた銀色の指輪が、最後の光を反射していた。
陽向は俺の胸から顔を上げると、指輪を振り返り、鍵盤をそっと一つだけ押した。
ポーン、という一音の寂しげな音が、空気に溶けていく。
「……行こう」
彼女が、俺の手を取った。
俺は、彼女の手を握り返した。二度と、この熱を離さないために。
廊下に出ると、そこに佐野蓮がいた。
壁にもたれ、腕を組み、最初からそこにいることを知っていたかのような、静かな瞳で俺たちを見ていた。
三人の間に、言葉はなかった。
ただ、佐野が俺を見て、俺が佐野を見つめる。
「……悔しいよ、橘」
佐野が、先に笑った。
その笑顔には、嫉妬も、恨みもなかった。ただ、一人の友としての、敗北宣言だけが清々しく横たわっていた。
「俺、お前には勝てないわ。ずっと前から」
俺は、佐野の目を見た。
この男は、どこまでも善意の人だった。
だからこそ俺は、この男に陽向を託すために、自分を殺し続けることができた。
けれど、今はもう――ただ、感謝しかなかった。
「佐野。俺、お前がいてくれてよかった」
「……」
「お前が、陽向を照らしてくれたから、俺は最高の笑顔を作れた。……俺は、誰かを幸せにすることの意味を、お前と陽向から教えてもらったんだ」
佐野の瞳が、わずかに潤んだ。
「橘……。お前がそれを言ってくれるだけで、俺は……」
「ありがとう」
佐野が一瞬だけ唇を噛みしめ、右手を差し出してきた。
俺は陽向の手を一度離し、その掌を強く、強く握り返した。
「お前に勝つために、俺は今日から、自分を愛してみる。自分の恋を、生きてみる」
佐野が、今日一番の笑顔を見せた。
「……言いやがったな、この天才軍師が。じゃあ俺も、お前に負けないくらい、デカい幸せ掴んでくるからな」
握りしめた手を離す。
佐野は陽向の瞳を見つめ、一度だけ、寂しそうに微笑んだ。
言葉なき和解と、祝福。
彼は踵を返し、夕暮れの廊下の向こうへと去っていった。
その背中が、世界で一番誠実で、一番いい男のものだったことを、俺はずっと忘れないだろう。
「佐野の隣にいた陽向も、本物だったよな」
隣に立つ陽向に、俺は言った。
「うん。あの時間があったから、私はここにいられる」
「……でも、これからは」
俺は、もう一度彼女の手を取った。
「俺の隣で笑う君を、俺が誰よりも幸せにする。……演算なしの、剥き出しの熱だけで、守り抜いてみせる」
冬が終わり、雪が解けた。
アスファルトが乾き、校庭の桜の枝に、固い緑の芽吹きが見え始めた。
俺は、鞄の重さを確かめながら校門をくぐった。
中身は、あの冬よりもずっと軽くなっていた。
ラベンダーのハーブティーは夜に飲んだ。悪くない、安らかな眠りが訪れた。みかんジュースは、陽向と半分ずつ飲んだ。ぬるくなった温度を笑い合いながら。
栞は、新しい日記帳に挟まれている。あの方眼紙の切れ端は、財布の中で俺の新しい「御守り」になった。
鞄の中から、「他人の色彩」は消えた。
それはいつの間にか、俺という人間の、かけがえのない血肉になっていたのだ。
廊下を歩けば、田中が気さくに手を挙げる。佐藤さんが「最近、いい顔してるね」と声をかけてくれる。
俺は、灰色の背景なんかじゃなかった。
この学園という一枚の大きな絵の中に、他の誰にも代われない、俺だけの色彩として存在していた。
春の予感がする日の放課後。
俺は、すべての始まりの場所である「屋上」に立っていた。
扉が開く。白いマフラーを解きながら、陽向が少しだけ駆け寄ってきた。
「待った?」
「少しな」
「ごめんごめん」
「謝るな。……お前が来るまでの時間も、悪くない」
夕焼けの光の中で、俺は右ポケットからあのピアスを取り出した。
「陽向。これを……」
夕日を吸い込んだターコイズが、俺の掌の上で、静かな熱を放っている。
「返す、んじゃない。……俺から、お前に贈らせてくれ」
陽向の瞳が、潤んだ。
「……うん」
「俺が生まれて初めて、誰かを自分のものにしたくて選んだ、最古の遺物だ。佐野が買い直した新品じゃない。俺がお前の横顔を見て、瞳の色を盗み見て、お前に一番似合うと信じた、ただ一つの本物だ」
「晴人くん……」
「これがないと。……俺という男の、これまでとこれからの記憶が、完成しないんだ」
陽向の頬を、一筋の雫が伝った。
俺はそっと手を伸ばし、彼女の黒髪に指を絡める。
そして、冷えた耳たぶに、温かい蒼色の石をそっと滑り込ませた。
陽向の耳元で、ターコイズが揺れる。
夕焼けの黄金色と混じり合い、それはこの世のどんな色彩よりも深く、美しく見えた。
――演算、終了。
かつての俺なら、ここで最後のログを更新していただろう。
Case_48。神谷陽向への恋愛感情。依頼者:橘晴人。成功率――。
けれど、もう数値など必要なかった。
今、俺の脳内コンソールが表示しているのは、たった一つの、軍師として最後の、自分自身への指令。
『――必要なのは演算ではない。ただ、彼女の手を握り、心の叫ぶままに走り出せ』
俺は、陽向の手を取った。彼女は、強く握り返した。
「晴人くん。これから私たち、どうなるのかな」
かつての俺なら、確率を弾き出しただろう。
成功率。継続率。破綻のリスク。
「分からない」
俺は言った。
「分からないが――お前の隣で、その全部を味わい尽くしたい。……これから先の季節を、全部お前と一緒に見ていきたい」
陽向は、泣きながら笑った。
俺が設計したどんな笑顔よりも、ずっと自由で、不格好で、そして……圧倒的に愛おしかった。
――そうか。
俺はずっと、お前を「最高傑作」にしようと足掻いてきた。
でも、違った。
お前は最初から、俺が言葉を渡すよりも、色を足すよりもずっと前から、そこに存在しているだけで、唯一無二の最高傑作だったんだ。
俺が欲しかったのは、お前を作り変えることなんかじゃない。
ただ、その笑顔の隣で、俺という人間が、俺のままでいることを許されたかった。
それが、橘晴人が生まれて初めて、自分のために欲しいと願った、たった一つのものだった。
屋上に、春の予感を孕んだ風が吹いた。
二人の影が一つに溶け合う。
――俺は人生で一番素敵なものを、とうとうこの手に掴んだ。
振り返れば、俺が手渡してきた幸福のかけらで、たくさんの人が笑っていた。
その光景を見届けることが、俺の探し求めていた答えだったと知った。
そして今、最後に手に入れたのは。
彼女の笑顔という、何にも代えがたい「俺だけの宝物」だった。
――完――
エピローグ
橘晴人、十八歳。
かつての「縁切り師」は、もういない。
成功率、100パーセント。
――ただし、最後の一件だけは、集計から外すことにしている。
あれは、誰の依頼でもない。
俺が、俺自身の恋を叶えるための、たった一度の革命だったから。
最後までお読みいただき、本当に、本当にありがとうございました。
「君の恋を最高傑作にするために、僕は自分の恋を殺すことにした」
自分の価値を認められず、灰色の背景として生きようとした橘が、最後に見つけた
「俺だけの幸せ」。彼が流した最後の涙が、読者の皆様の心にも温かく届いていれば、作者としてこれ以上の喜びはありません。
もし、この物語の結末に何かを感じていただけましたら、完結の記念に「★評価」や「❤️」、フォローで橘の門出を祝っていただけると幸いです。
皆様からの応援のひとつひとつが、彼が世界から受け取った「色彩」そのものになります。
【お知らせ】
本編はここで幕を閉じますが、番外編として「神谷陽向視点の物語」を数話にわたってお届けする予定です。
なぜ彼女は橘を選んだのか。彼女があの日、屋上で何を思っていたのか。
答え合わせのような、彼女からのラブレター。
時期は未定ですが、いずれ19時にお会いできれば嬉しいです。
――物語を最後まで見届けてくださり、感謝を込めて。




