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【完結】君の恋を最高傑作にするために、僕は自分の恋を殺すことにした〜成功率100%の恋愛軍師、最後に自分の恋を忘れる〜  作者: リディア


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番外編1:はじまりの嘘、あるいは軍師を呼び止めた理由

 橘晴人という少年の存在が、私の世界に静かな波紋を広げ始めたのは、十月の終わりの、ひどく穏やかな日の図書室だった。


 放課後の図書室は、密閉された古い紙の匂いと、低い唸りを上げる暖房の音に包まれている。私はその日、読み終えた短編集を返却し、代わりに新しい物語を探すためにそこを訪れた。

 棚の間をすり抜け、窓際の席に目を向けたとき、不自然なほど静止した一人の少年を見つけた。

 彼は本を開いていた。けれど、その指先がページをめくることは一度もなかった。ただ、頬杖をつき、窓の外のどこでもない空の境界線を、吸い込まれるような瞳で見つめていた。

 

 ――灰色。


 それが、私の脳裏に真っ先に浮かんだ、彼という人間のための第一印象だった。


 誰とも関わらず、誰にも言葉をかけさせない。周囲の喧騒から自分だけを巧みに切り離し、風景の一部になりすまそうとしているその後ろ姿。

 制服の着こなしも、髪型も、何一つ特別なものなんてない。なのに、彼だけがまるで色の抜けた古い写真のように、そこだけ切り取られて見える。


 私は棚の陰で、三秒だけ足を止めた。

 彼が吐き出した、音にならない重い溜息。その微かな震えすら、見逃したくないと思った。その三秒が、全ての始まりだった。



 橘晴人の噂は、学校中のどこにいても聞こえてきた。

 「恋愛軍師」。あるいは「縁切り師」。

 どんな難しい恋も、彼に相談すれば、計算ずくで成功させてくれる――。

 友だちが楽しそうにそんな話をしているのを聞くたびに、私の心に小さな違和感が積もっていった。


 機械みたいで感情がない、なんて、みんな勝手なことを言っている。

 本当にそうなら、なぜ、わざわざ他人の幸せのためにあそこまで考え込んでいるんだろう。なぜ、あんなに疲れ切った顔で、それでも誰かの答えを探し続けているんだろう。

 

 私には分かったわけじゃない。でも、そう「見えた」のだ。

 彼は、感情がない人ではない。

 何か大切なものを守るために、壊してしまわないように、精一杯の力で心の扉を塞いでいるだけなんじゃないか、と。

 

 図書室の窓際で、自分自身を背景の一部として塗り潰そうとしている彼を見た瞬間に。私は、どうしようもなく彼が気になってしまった。彼が何を隠して、何を思ってあそこに座っているのか。その「秘密」のすぐ隣に、行ってみたいと思ってしまったのだ。


 十一月の初め。

 お昼休みの喧騒の中で、親友の瞳が何気なく私に尋ねた。

「ねえ陽向、佐野くんってどう思う? 隣のクラスの副部長。かっこいいし、優しいって評判だよ」

 

 佐野蓮。その名前は、この学校の中で最も眩しく、誰もが羨む「正解」の象徴だった。

 私はお弁当の卵焼きを割りながら、自分の内側にある「不器用な策」を自覚していた。

 

 ――軍師さんに話しかけるための、一番の嘘を探さなきゃ。

 

 ただ「君のことが気になります」なんて言ったところで、あんなに自分を隠している彼が、私を受け入れてくれるはずがない。

 「依頼者」という、仕事上の関係であれば。彼が義務として私をその視線のなかに居座らせてくれるなら。

 私は、佐野くんという完璧な口実を手に、彼の門を叩こうと決めた。

 

「……佐野くん、か。いい人だよね」

 

 ごめんね、佐野くん。あなたのことを「道具」にする私の不誠実は、いつかきっと報いを受けるでしょう。


 それでも。


 あの音のない世界にいる橘くんの瞳に、私の姿を映してもらうためには、私にはこれしか思いつけなかった。



 相談を持ち込む前日の夜。私はベッドの上で、自分が吐こうとしている「恋の悩み」を何度も反芻していた。

 

 「佐野くんのことが好きだ」と、私は彼に言う。

 自分でも笑ってしまうほど、浅はかで真っ赤な嘘だ。

 夜、瞼を閉じても、佐野くんの眩しい笑顔が私の心を揺らすことは一度もなかった。

 

 私の心を支配しているのは。

 図書室の窓際、舞うほこりに光が差し込む中で、ひとり静かに息を潜めていた、あの横顔だ。

 誰も見ていないところで、誰かのためにボロボロになるまで思考を巡らせ、重い溜息をついていた、あの細い指先だ。

 

 どうして、あんな顔をして誰かを助けるの?

 君が頑なに閉ざしているその扉の奥には、一体どんな熱が隠されているの?

 

 救いたいなんて、そんな立派な理由じゃない。

 ただ、知りたい。触れてみたい。

 嘘を積み重ねてでも君の特別席(相談相手)を奪おうとした、私の自分勝手な宣戦布告だった。


 翌日の放課後。

 屋上への階段を一歩ずつ登りながら、私の脚は情けないほど震えていた。

 扉の向こう側に、彼がいる。

 ノブを回す直前、一回だけ、深呼吸をした。冷たい空気が肺を焼き、現実へと引き戻される。

 

 扉を開けた瞬間。

 風が吹き抜け、金木犀の濃厚な香りが鼻腔を突いた。

 

 橘くんは、フェンスにもたれてスマートフォンを操作していた。夕闇の赤が逆光となり、彼の細い肩と、その鋭い輪郭を、まるで静かな炎のように縁取っている。

 

 ――きれいだ。

 

 あの日、図書室の片隅で、ため息の中に埋もれていた姿とは、まるで別人に見えた。

 

 この人は、夕陽の中に立てば、こんなにも鮮やかに、目を奪うような輝きを放つのに。

 どうして自分から物陰に隠れて、いないふりをして生きているんだろう。

 理由も理屈もわからなかったけれど、ただ、「勿体ない(もったいない)」という、突き動かされるような衝動に駆られた。

 

 私は一歩、前へ踏み出した。


「あの」

 

 声を出した瞬間、彼がゆっくりと振り返った。

 目が、合った。

 

 その一瞬の衝撃を、私は生涯、忘れることはないだろう。

 

 機械みたいだと噂される彼の瞳。その奥で、積み上げられた無機質な仮面が一瞬で剥がれ、大きな音を立てて崩壊していくような――そんな、不器用で、激しい『震え』が宿ったのが見えたから。

 

 橘くんは、私を「Case(案件)」として処理するより先に、一人の男の子として、私の存在に魂を揺さぶられたんだ。

 

 ――あ。今、届いた。

 

 私の放った声が。これから吐こうとしている嘘という刃が。彼の硬く閉ざされた世界の、一番柔らかい場所を、確かに、音を立てて抉り取った。

 

 それだけで、足の力が抜けてしまいそうになる。

 私は破裂しそうな鼓動を必死に抑え込みながら、彼と繋がるための唯一の切符である、あの嘘の「台本」を読み始めた。

 

 佐野蓮。その名前を告げたとき、彼の表情がわずかに強張るのを見逃さなかった。

 「あいつか」と言った彼の声に、計算ではない一滴の「苦み」が混じっていたことを。

 

 ――よかった。

 

 あなたも、私と同じように揺れている。私を他人に渡すと決めることが、あなたの内側に「動揺」を生んでいる。

 それを確認できただけで、私は救われたような気がした。


「わかった。その依頼、引き受けよう」

 

 橘くんは、丁寧に作り上げられた「軍師の微笑み」を私に向けた。

 それは完璧な拒絶のポーズだった。けれど私は、その無機質な笑顔の奥で、彼の本当の心が微かに、けれど激しく悲鳴を上げているのを、確かめるように聞いていた。


 彼が屋上を去った後、私は一人、夕闇の静寂に取り残された。

 街路樹の金木犀が風に揺れ、甘くて重い匂いが私を包み込む。

 

 これから始まるのは、彼が設計する、不自然なまでに整えられた「恋人たちの幸福」への道。

 君は私の嘘を真実にするために。持てる全ての知性を使い、そしてその代償として、君自身の心を少しずつ磨り潰していくに違いない。

 あの一瞬、瞳の奥に見せたあの『震え』を、君は何度も、何度も、冷徹な数字で上書きして殺し続けるんだろう。

 

 なぜそんな悲しいことをするのか。どうしてそうしなければならないのか。

 今の私には、まだ、何一つ分からないけれど。

 

 でも、もう引き返さない。

 これは、私があの日図書室で見つけた、君という不思議な少年へと続く、あまりに長い遠回り。

 

「……ごめんなさい、佐野くん」

 

 完全に沈みきった太陽の名残りに向かって、私は小さく独りごちた。

 

「……ごめんなさい、橘くん」

 

 冷たくなった鉄のフェンスから手を離し、私は歩き出した。


「私はあの日――君の隣を奪うという特権の代わりに、地獄への特急券を、とびきりの笑顔で受け取ってしまったんだから」

 

 嘘を重ねた先に、もし本当の君の「熱」が待っているなら。

 私は何度だって、君の設計図の上で、完璧なヒロインを演じきってみせる。

 

 ポケットの中には、屋上の風が運んできた金木犀の花びらが一枚、ひっそりと隠れていた。

 いつか君が、その心の扉を、自分自身で開けられる日が来るまで。

 私は、君が吐き続ける全ての嘘の、世界でたった一人の共犯者(目撃者)として、君の隣に居続けると決めたのだ。


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