第39話 選び直し、あるいは最高傑作の拒絶
放課後の廊下には、冬の夕暮れ特有の、閉鎖的でどこか感傷的な匂いが沈殿していた。
古い暖房の焦げたような熱、長年染み付いた上靴の埃、そして誰かが教室で剥いたのだろう、わずかに残ったみかんの皮の甘酸っぱい香り。
神谷陽向は、その空気を胸いっぱいに吸い込みながら、佐野蓮の隣を歩いていた。
佐野が他愛のない冗談を言い、陽向がそれに合わせるように笑う。
その笑い方は、もう練習する必要などなかった。佐野と過ごした数ヶ月という時間の中で、彼女が自然に獲得した、本物の幸福の形。それは決して、橘晴人に教わった「三秒の笑顔」などではなかった。
それなのに。
左手の薬指に伝わる感触が、鉛のように重かった。
正確には、重いのではない。その銀色の細い輪が放つ輝きが、今の彼女には息が詰まるほど眩しすぎたのだ。
クリスマスの夜、佐野が跪くようにして渡してくれた指輪。あの日、彼女は本当に泣いた。嬉しかった。ずっと欲しかった「誰かの一番になるという証」を、自分を大切にしてくれる王子様から手渡されたのだ。
けれど。
あの日以来、彼女は一度も、心の底から深く眠りにつくことができていなかった。
陽向が佐野の隣で笑うたびに。佐野が橘の書いた「台本」通りの言葉で彼女を愛そうとするたびに。彼女の心の輪郭の内側には、いつも一人の少年の影が落ちていた。
耳元の蒼いピアスも、指先の指輪も。彼女を取り巻くこの完璧な幸福のすべてが、橘晴人の『遺言』によって組み上げられていることを、彼女は骨の髄まで理解してしまっていたから。
「陽向」
佐野が、不意に足を止めた。
陽向もまた、思考の霧を振り払うように立ち止まる。振り返ると、佐野は夕方の蛍光灯に照らされた陽向の左手を、じっと見つめていた。
「……これ。無理して、つけてないか」
心臓を、鋭い針で突かれたような感覚。陽向は指先を震わせ、咄嗟に笑顔を作ろうとした。
「そ、そんなこと、ないよ。私、これ、すごく気に入って――」
「『ない』とは言わせないよ」
佐野の声は、どこまでも穏やかで、慈悲深かった。
「陽向が俺を見て笑ってくれる時。一瞬だけ、俺の向こう側を……誰かの『不在』を確認するように遠くを見てる時がある。……橘のことを考えてる時の、泣きそうな顔。俺、何度も見てきたから」
陽向は、言葉を失った。佐野がそこまで気づいていたことも。自分がそれほどまでに橘という『不純物』を捨てきれずにいたことも。
佐野は、指輪に添えていた手をゆっくりと離し、窓の外に広がる藍色の空へと目を向けた。
「昨日、屋上で橘と二人で話したんだ」
「……え?」
「あいつ、おめでとうって言ってた。俺たちのことを『最高傑作』だって。……でも、あいつの顔、お前には見せてやりたかったよ。あいつが俺にすべてを明け渡したのは、あいつ自身の人生そのものだったんだ。……お前を、俺の知らない場所で、狂おしいほど愛していた男の……最期の顔だった」
佐野の瞳に、かすかな寂しさが宿る。
「俺さ、ずっと橘に感謝してた。お前と出会わせてくれて、向き合う勇気をくれて。でもな……お前が幸せであればあるほど、その幸せの『根拠』が橘の犠牲の上に立っていることが、俺にはたまらなく苦しかった」
陽向の視界が、急速に歪んでいく。
「ごめん、陽向。俺には、お前を世界一幸せにする自信がある。でもな……お前が本当に魂から笑えるのは、俺の隣じゃないんだと思う」
「そんな……! 私、佐野くんのこと、本気で……」
「わかってる。だからお前は優しいんだよ。……でも、ずるいのは俺だ」
佐野は、眩しいほどに潔く、自分に引導を渡すような笑顔を浮かべた。
「橘を一人にしたままにしたら、あいつ、本当に自分の色を全部消して、どこか遠くへ消えちまいそうなんだ。……お前が行かないと、俺、アイツへの恩が返せなくて一生後悔するよ」
陽向の頬を、熱い雫が次々と伝っていく。
「佐野くん。……君は、本当に……最後まで『完璧な彼氏』なんだね」
「ああ。橘にそう育てられたからな。……行け」
佐野が、親友としての力強さを持って、彼女の背中を廊下の先へと押し出した。
「あいつを、ただの『背景』にするな。お前の主役を、あいつに返してこい」
陽向は一度だけ深く頷き、冬の廊下を走り始めた。左手の銀色が、彼女の瞳から溢れる涙を、無惨なほど鮮やかに反射しながら。
橘晴人は、校舎の最上階にある音楽室にいた。
目的があったわけではない。放課後の冷え切った空気に紛れ、ただの「物質」としてそこにいたかっただけだ。放課後のピアノの旋律も、部活動の声も届かない、空白のような空間。
窓際に立ち、暮れなずむ世界を眺める。
雪解けのアスファルトは、残された西日を受けて、ドロドロとした黄金色に焼けていた。
右ポケットの中で、指先があの石に触れる。
――決着は、つけたはずだった。
昨日、佐野に自分の魂のすべてを譲り渡した瞬間に。俺というシステムは役割を終え、完結した物語の一部になったのだと。
なのに、足が動かなかった。この「温まったままの石」をどこに捨てればいいのか、演算回路は答えを返さなかった。
背後で、重い扉が勢いよく開く音がした。
振り返る必要はなかった。その不揃いな、切迫した足音と、空気を震わせる金木犀の残像。
「……橘くん!!」
振り返ると、そこには息を切らした神谷陽向が立っていた。
冬の風に打たれた頬は赤く、瞳には、佐野の隣にいた時のような穏やかな幸福など微塵も残っていなかった。剥き出しの、生の感情を爆発させたような少女が、そこにいた。
「神谷さん、どうしてここに」
「橘くん……。昨日、君に『おめでとう』なんて言わせちゃいけなかった」
陽向は、一歩ずつ、俺との距離を詰めてくる。ピアノの黒い影が、俺たちの間を不気味に切り取っていた。
「橘くん、昨日……。俺が欲しかったのは、君の中に痕跡を刻むことだけだったって……そういう顔をして私を見てたよね? 笑ってたよね?」
「……そんな話は、した覚えがない」
「言ってなくてもわかるよ!! 君が何でもかんでも数値化して、自分で自分を納得させようとしてることくらい、私には痛いほどわかるの!」
彼女は、俺の正面まで来ると、その華奢な手で俺の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで迫った。
「それって、全部嘘だよ。橘くん。君が一人で満足して、一丁上がりの顔で背景に隠れるなんて。……そんなの、私は認めない」
「……何が言いたいんだ」
「完璧だったよ! 君の書いた台本も、選んだピアスも。佐野くんは優しくて、君の教えた通りに私を幸せにしてくれた。……でもね、橘くん。私は――機械じゃない。生きてる人間なの!」
陽向の声が、音楽室の壁に反響し、俺の思考を掻き乱す。
「君が勝手に一人で満足して、私のために自分を殺して……、それでハッピーエンドだなんて、思わないでよ! それは私に対する、一生消えない呪いだよ。君のいない世界で綺麗に咲けなんて……そんなの、最高に身勝手な無責任なのよ!」
心拍が、制御不能なリズムを刻み始めた。
それはかつてのアラートとは違う。体中が熱く、肺の奥が裂けるような、苦しくも愛おしい「生」の震え。
「私は、最高傑作になんてなりたくなかった。……君の設計図の中で完璧に微笑む人形になんて、なりたくなかったんだよ! そんな美しさよりも、私は――。不格好で、頼りなくて、バカ正直に私を思って壊れてしまった……『君』が、隣にいるほうがよかったんだ……!」
陽向の指先が、俺の腕に食い込む。
震える手のひらから、俺がずっと拒絶してきた「体温」が暴力的に流れ込んできた。
「……橘くん。ポケットの中に……、まだ、ある?」
俺は、息を吸うことも忘れて彼女を見つめた。
「……ある」
「見せて。……私だけの本物を、見せてよ」
俺は、震える手でポケットを探った。
そこから取り出した、一粒のターコイズ。
夕焼けの残光を吸い込んだその蒼い石は、二人の間で、かつての記憶のすべてを繋ぎ直すように怪しく、強く輝いた。
陽向の唇が震え、彼女はあえて自分の左手の薬指から、あの銀色の指輪を外した。そして、それをピアノの上に、カラン、という無慈悲な音と共に置き去りにした。
「……返してきたよ。さっき、佐野くんに」
「あいつが……それを……」
「行っていいって言ってくれた。……君の隣に。あいつの中にいる『軍師』じゃなくて、ここにいる橘晴人の隣に、戻っていいって」
神谷陽向が、俺の掌に残っていたピアスを、自分の手で覆う。
二人の皮膚が重なり、蒼い石を挟んで、一つの熱い塊となった。
「橘くん。私はもう、最高傑作なんてやめる。君の作った物語の一部になんて、もうならない。……ただ、君を愛する一人の神谷陽向になりたいの。君の主役は、君以外に渡さない」
俺の中で、長い間固く、硬く結ばれていた鉄の鎖が。
音を立てて、粉々に砕け散った。
昨日までの俺は、自分の過去を肯定できたことで満足していた。
けれど、今日。今、この瞬間。
俺が投げ出した『愛』という名の供物を、彼女がその血の通った手で受け取ってくれた。
その事実が。俺という抜け殻の心臓に、初めて本物の血を流し込んだ。
――ド、クン、ド、クン。
心臓が痛い。五月蝿い。壊れそうなくらい、叫びたがっている。
それは演算回路の結果でも、ピアノの旋律でも、他人の温もりでもない。
橘晴人という一人の男が、生まれて初めて抱きしめた「真実の恋」の響きだった。
俺は、眼前の彼女の潤んだ瞳から、もう目を逸らさなかった。
「……神谷さん」
「うん」
「俺は……。お前を設計図に閉じ込めたまま、終わらせるつもりだった」
「知ってるよ、バカだもん」
「ただ、俺はお前が笑っていれば、それでいいと思ってたんだ。それだけが、俺の報酬だと思ってたんだ……」
「違うよ、橘くん。……君が一緒に笑わなきゃ、私の笑顔に価値なんてないんだよ」
陽向が、俺の腕を強く引き寄せた。
夕焼けに染まる音楽室で、二人の影が重なり、一つの長い黒い筋となって床に伸びる。
俺を縛り、守り続けてきたすべての「設計図」が、その瞬間に。
彼女の吐息と、俺の涙によって、跡形もなく破り捨てられた。
窓の外、空が赤から深い紫へと変わる境界線で。
俺は、彼女を一生離さないと誓った。
軍師が死んだ後に残された、この剥き出しの熱量だけを、永遠の指針にして。
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