第38話 核心、あるいは僕が欲しかった色彩
ノートを開いた。
つい一ヶ月前までの俺なら、迷わずペンを走らせていただろう。次の授業の予習、完了した案件の残数、あるいは「Case_48」の精緻な補足データ。自分という存在を、誰にも侵されない数字の城壁で囲い、機械として呼吸を整えるために。
けれど、ペン先が白い紙の上で迷子になっている。
机の隣、椅子の背にかけられた鞄が、ずっしりと腕に響くような質量で俺の存在を肯定していた。もう、中身がぶつかり合うカチャリという音はしない。ただ、そこにある。他人の熱と、俺が手渡してきた「感謝」の形。
ペンが、震えるように動いた。
『一月二十五日。鞄の中に、他人の色彩が満ちている。それがもはや邪魔だと思えなくなった自分を、ここに記録する。』
俺は、書いた文字を見つめた。「記録」という言葉を使ったが、これがもはや冷徹なデータではないことを、俺自身の胸の鼓動が証明していた。かつての砂嵐はもう聞こえない。
『俺は背景でいいと思っていた。灰色の絵の具として、誰かの物語を塗りつぶせればいいと。けれど、神谷さんに言われた。君の鞄は素敵なものでいっぱいだね、と。……俺は、それを、嬉しいと感じた。』
――嬉しい。
その三文字を綴るのに、どれほどの月日を要したのだろう。
意味を理解し、その熱を受容する。自分に「幸福」を感じる許可を出す。
俺はチャイムが鳴る直前、震える指で静かにノートを閉じた。
昼休み。
屋上へと続く重い鉄の扉を押し開けると、刺すような一月の空気が肺の奥まで流れ込んできた。
フェンスの向こう側。冬の白い空を背負って、佐野蓮が立っていた。あいつがネクタイを緩め、こちらを振り返る。
「来たな、橘。……悪い、寒いのに」
「用件を言ってくれ。悪いが今の俺は忙しいんだ」
「ははっ、相変わらずだな」
佐野が笑い、俺はあいつの隣に並んだ。眼下には、体育の授業を終えて校舎へ戻る生徒たちの、不揃いな影が流れていく。
「……指輪を渡した夜のこと、話してもいいか」
俺は黙って、冷たいフェンスを掴んだ。
「陽向が、泣いたんだ。……最初は俺も、嬉し泣きだと思ってた」
「……知っている。想定の範囲内だよ」
「違うんだよ。もっと、別の泣き方だったんだ」
佐野が、空を見上げるように目を細めた。
「俺がさ、『今日、橘のおかげで最高の夜になったよ』って言ったんだ。そうしたら陽向、急に黙り込んで……。しばらくしてから、掠れた声で言ったんだよ。『橘くんは、凄く優しいんだよ』って。それきり、あいつはずっと震えていた」
肺の奥が、冷たい水に浸されたように重くなった。
「俺さ、鈍いって自覚はあるけど、あの時だけは突きつけられた気がしたんだ。……陽向の心の中に、俺には触れられない、聖域のような場所があって。そこには俺じゃない、お前が……、橘晴人っていう一人の男が、名前を消して座っているんだって」
風が吹き、俺の髪を激しく揺らした。
「橘。お前が陽向に教えたこと――笑い方や、傷ついた時の顔の上げ方、誰かに自分の全部をさらけ出す勇気。……それは、俺が一生かかっても、彼女に教えられることじゃなかった」
「……それは……軍師としての、コンサルティングにすぎないよ」
「いいや。お前が彼女に贈った『自分の一部』だよ。……俺は陽向を愛している。それだけは譲れないし、放したくない。でも……お前も別の形で、あいつのことを、狂おしいほどに愛していたんだろ?」
俺は、答えなかった。否定するための言葉が、もはや俺の語彙集のどこを探しても見当たらなかった。
「責めてるんじゃない。むしろ、嫉妬してたのは俺の方だ。……でもな、橘。お前のその愛も全部一緒に、俺が陽向を幸せにするから。……お前が自分を殺してまで作り上げた幸せを、俺が責任を持って守る。それだけは、今日伝えておきたかったんだ」
屋上の静寂が、雪解けの水のように俺の中に染み渡っていく。
――ド、クン。
澄み切った和音が、胸の奥から高らかに鳴り響いた。
痛くない。焼けるような罪悪感も、身を削るような嫉妬もない。
ただ、自分を認められたことの、柔らかな安堵。
「……佐野」
「ん?」
「お前は、本当に……手の付けられない、いい奴だな」
佐野が不意を突かれたように目を見開き、やがて腹を抱えて声を上げた。
「ははっ、お前に褒められるのが一番緊張するよ。……ありがとな、親友」
俺は、凍りついていた掌を、フェンスからゆっくりと離した。
渡り廊下を歩いていたとき、不意に中庭が目に入った。
佐野が足を止め、俺もまた、誘われるように視線を下ろした。
枯れた冬の花壇。そのベンチに、神谷さんがいた。
白い吐息を空へ逃がしながら、彼女は友人と談笑している。冬の弱い陽射しが、彼女の横顔を柔らかい輪郭で切り取っていた。
耳元で揺れる、あの蒼い石。佐野が買い直したピアス。
左手の薬指で、細く冷たく光る、誓いのリング。
彼女は、笑っていた。
かつて俺がこの屋上から、冷徹な『軍師』として誰かの恋を操り、「成功率百パーセント」という数字の城壁の中にいた頃に見た、どの笑顔よりも。
作為がなく、嘘がなく、計算がなく。
一人の自由な少女として、今、この世界を享受している最高の美しさ。
俺は、その姿を瞳の奥へ焼き付けた。
――ああ。
そうか。
何かが。俺の喉元でずっと固結びになっていた糸が。
プツリ、とではなく、するりと。
魔法が解けるように、音もなくほどけていった。
俺は彼女を奪われたんじゃなかった。
俺が彼女の隣に立てなかった、のでもなかった。
俺が全霊を尽くし、自分自身を燃料にして焼き上げた「最高傑作の幸福」が。
今、あそこで、世界一まばゆい光を放っている。
俺の言葉が。俺の計算が。俺が寝る間も惜しんで構築したロジックのすべてが、彼女の「自信」へと昇華された。俺が書いたあの言葉が、彼女が愛する男を「最高の恋人」に育て上げた。
あそこで笑っている神谷陽向という奇跡の半分は、俺の想いでできている。
俺の恋は、失われてなんかいなかった。
誰の目に触れることもなく、永遠にあの中庭の風景の中に、幸せという名の彫刻となって、俺の生きた証を残していたのだ。
成功報酬は君の笑顔じゃない、とあの日俺は断言した。
馬鹿な計算違い(エラー)だ。
成功報酬は。君の笑顔そのものだった。
俺が君を、世界で一番美しく輝かせられたという。
世界で唯一、俺にしか成し遂げられなかった、その事実だった。
――俺は、君という鮮やかな季節の中に。
――確かに、実在していたんだ。
――ド、クン。
今日この瞬間の鼓動は、もはや調律された楽器のようだった。
自分の不器用な身体が、自分自身の過去を抱きしめるような、深く、震えるほどの肯定。
「……ああ、眩しいな。鞄の中の熱も。あいつの誠実さも」
佐野が隣で「だろ?」と笑う。
「お前が、陽向をあんなふうに笑わせたんだからな」
「……俺じゃない。お前の愛だ」
「半分ずつだよ。……だから橘、お前も。少しは自分を誇れよ」
俺は神谷さんを見た。
再び溢れ出した涙は、もう灰色のノイズではない。
俺の世界にようやく戻ってきた、生命の色。
放課後。一人、雪の解けかかった路地を歩く。
道端にはまだ、昨夜の雪が黒ずんで踏み荒らされていたが、そこに落ちる街灯の光さえ、今は宝石のように輝いて見えた。
俺は右ポケットに手を入れた。
一粒のターコイズ。
それはもう俺を焼く毒ではない。温かく、熱を保ち続ける「俺だけの宝石」。
石を取り出し、手のひらに乗せてみる。
冬の藍色に染まる夕闇の中で、その蒼色は誇らしげに光を反射した。
組成も、成分も、重量も。
そんなものはもう、どうでもいい。
この石は、俺が確かにこの世界で誰かを愛し、誰かに自分を捧げ抜いたという、魂の卒業証書。
俺は「背景」だったかもしれない。けれど。
俺の言葉が、二人を繋いだ。俺の呼吸が、あの笑顔を作った。俺という存在がいなければ、この幸せの絵画は、決して完成することはなかった。
――ああ。
俺が欲しかったのは。
君の隣の席を、誰かから奪い取ることなんかじゃなく。
ただ。
君という輝かしい一瞬の季節の中に。
俺という名前の痕跡を、たった一つ。
永遠に刻みつけることだけだったんだ。
俺は、蒼い石をもう一度、大切にポケットへと戻した。
鞄の重みが。みんなからもらった色彩の重さが。
地に足をつけ、主役としての明日を生きろと、俺の背中を力強く押していた。
冬の空。
そこには、俺自身の未来を指し示すような、美しい一番星が灯っていた。
ご覧いただきありがとうございます。
もし「この主人公、切なすぎる……」「続きが気になる」と思っていただけたら、作品フォローや★、評価をいただけると執筆の大きな励みになります!
毎日19時に更新予定です。




