第37話 彩られた重力、あるいは君がくれた最後の一色
送信ボタンを、一時間、押せなかった。
夜の十一時。冷え切った自室の机に向かい、俺はスマートフォンのバックライトが照らす無機質な光を凝視していた。
陽向からのメッセージは、わずか一行。
『橘くん、図書室にいた? 私も今日、そこにいたよ。』
返信の文字を、七回書いては、七回消した。
「そうです」と打ってみる。……あまりに他人行儀だ。「ああ」とだけ打つ。……突き放しすぎている。「偶然だな」。……嘘だ。俺はあの日、明確な意志を持ってあの扉を開けた。
――俺が本当に言いたいことは、何だ。
演算は、機能しなかった。
最適解が抽出できない。そんな事態は、人生で初めてだった。これまでの俺なら、依頼者の心情を分析し、相手が望む「最も心地よい言葉」を一秒で編み出せただろう。だが今は、彼女の望みを探ることさえしたくなかった。
彼女が何を求めているかではなく、俺という個体が、一人の男として何を伝えたいのか。
それを特定するだけに、一時間が溶けた。
結局、指先が震えながら送り出したのは、あまりに不格好な一行だった。
『図書室。……俺も、君がいるような気がした。』
送信した瞬間、心臓が大きく波打った。
なんだ、これは。稚拙で、未熟で、何の戦略性も美学もない、ただの人間味に満ちた文章だ。軍師としての俺なら、間違いなくボツにするような駄文。
けれど。
その言葉だけは、どうしても消せなかった。俺の喉元に残っていた最後の「本音」だったから。
三秒で既読がつき、返信が届いた。
『よかった。……明日、少し早く教室に行くね。いい?』
――ド、クン。
胸の中で、澄み切った音が響いた。
それは不快な砂嵐でも、警告の耳鳴りでもなかった。
しんとした冬の夜の静寂の中に、一点の光が灯り、一音だけピアノの鍵盤を叩いたような、凛とした響き。
『ああ。』
今度は、迷わずに返せた。
一月の朝は、残酷なほど暗い。
登校時間を過ぎても空は白みかける程度で、廊下の蛍光灯が放つ青白い光の方が、外界よりもずっと冷酷に世界を照らしていた。
午前七時四十分。
俺が教室のドアを開けた瞬間、その気配が網膜に飛び込んできた。
神谷陽向は、そこにいた。
窓際の席でコートを羽織ったまま、朝の冷気に耐えるように肩をすくめていた。鞄を膝の上で抱え、どこか心許なさげに俺の方を見つめていた。
どちらからも声が出なかった。
俺はいつもの自分の席へ歩き、椅子に鞄を置いた。
カチャリ、と音が鳴った。
その瞬間、彼女の視線が、俺の鞄へと向けられた。
不自然に膨らんだ俺の鞄。そこには、俺という空洞を無理やり埋めに来た「お節介」たちの残骸が詰まっている。
みかんジュースのオレンジ。エメラルドの栞。ラベンダーのハーブティー。緑の飴玉。黄色いポストイット。
そして、かつて俺が計算用紙として破り捨てた、あの方眼紙の切れ端までもが。
「……みんなから、だよね」
陽向の声は、朝の空気に溶けてしまいそうなほど、静かだった。
「ああ。……不法投棄のようなものだよ。返しに行くのも面倒だから、入れているだけなんだ」
「橘くんの『面倒』って、本当は違う意味でしょ」
陽向が小さく、笑った。
泣きながら無理をして笑っているような、痛々しくも慈愛に満ちた声。
「……捨てられないから、そこに置いているんでしょ」
俺は答えなかった。否定するための言葉が、どうしても見当たらなかった。
陽向が席を立ち、俺の隣まで歩み寄ってきた。
彼女の指先が、鞄の表面に、熱を確かめるようにそっと触れた。
「見せてもらっても……いい?」
俺は小さく頷き、鞄の口を広げた。
橙、緑、紫、黒。
朝の光を受けて、俺の中に蓄積された他人の人生の一部が、鮮やかに主張を始める。
それを見た陽向の瞳が、ゆっくりと、潤みを帯びていく。
それは絶望ではなかった。けれど、歓喜というほど明るいものでもなかった。
自分たちが作り上げたハッピーエンドの外側で、死にかけていたはずの少年が、自分以外の誰かの色で救われ始めている。その厳然たる事実に対する、安堵と、一抹の寂しさが入り混じった目。
「……橘くんの鞄。私がこれまであげたどんなアドバイスよりも、ずっと素敵なものでいっぱいだね」
「……」
「私ね、ずっと思ってたの。君を壊して、空っぽにしてしまったのは私だって。……だから私が埋めなきゃって、私じゃなきゃダメなんだって。でも、それは私の……、傲慢だったね」
陽向の手が、俺の鞄からゆっくりと離れた。
「橘くん。君は、こんなに多くの人に愛されていたんだね。私の知らないところで、私の手の届かない場所で。……君の世界には、もう、こんなに鮮やかな熱があったんだ」
「よかった」と。彼女は震える声で何度も繰り返した。
俺は、机の上の重たい鞄を抱え直した。
物理的な質量以上の何かが、俺の腕にズシリと響く。
けれど、その重みは不思議と心地よかった。地に足がつかず、幽霊のように漂っていた俺の身体を、現実という名の場所に繋ぎ止めてくれる「重力」のような重み。
「……俺はずっと、間違っていたらしい」
陽向の目から溢れた涙が、床に落ちて小さな染みを作る。
「誰かに自分の言葉を捧げるたび、自分の一部が削れて消えていくのだと思い込んでいた。そうすることでしか、誰かを救えないのだと、自分を罰し続けていたんだ」
「……橘くん」
「でも違ったんだ。俺が手渡したものは、失われてなんかいなかった。……みんなが。俺が名前も知らないような誰かまでもが、俺の代わりの保管場所になって。……こうして今、俺の元へ、利子をつけて返しに来てくれているんだ」
俺は、鞄を胸のあたりで強く抱きしめた。
「橘くん、ありがとう。……生きていてくれて、本当にありがとう」
陽向のその言葉が。
かつての俺を窒息させたあの「感謝」ではなく。
今の俺の空洞に染み込む、決定的な「最後の一色」になった。
――ド、クン。
澄み切った和音が、胸の奥で高らかに鳴り響く。
調律は完了した。
俺という壊れたシステムは、今、一人の不格好な人間として、再起動を完了させた。
昇降口が開き、廊下に足音が増え始める。
冬の朝の静寂が終わり、日常という名の騒がしい世界が教室へと流れ込んでくる。
陽向は涙を拭い、自分の席へと戻っていった。
二人の間に流れていた「共犯者の時間」が終わり、俺は椅子に深く腰を下ろした。
右手の指先を、コートのポケットに滑り込ませる。
蒼い石。
一粒のターコイズ。
それは既に、俺の体温と同化して、生きているような熱を持って指先に吸い付いた。
――演算、終了。
いや。演算などもう必要ない。
俺はもう、自分の心の向かう先を知っている。
この石を、この想いを。
どうすればいいのか。どこに届けるべきなのか。
その答えは、もはやデータの中になど、一文字も存在していなかった。
始業を告げる予鈴が、教室内を震わせる。
窓の外、厚い雲を突き抜けて、冬の蒼天がその端っこを覗かせ始めた。
――ああ。
なんて、眩しいんだろう。
鞄に詰まったみんなの熱も。
ポケットの中で脈を打つ、俺自身の最後の未練も。
そして。
かつて自分が「背景(額縁)」だと決めつけた、この美しすぎる世界も。
俺は背筋を伸ばし、顔を上げた。
色彩の氾濫する世界へ、一人の人間として、再びその手を伸ばすために。
「おはよう」と、隣の席に来たやつに声をかける。
そんな、かつての俺には計算外だったはずの日常が、今、猛烈に愛おしく感じられていた。
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