第36話 背景の色彩、あるいは名もなき観客の拍手
自分の机の上が、一瞬、認識できなかった。
正確には、使い古された木の天板が、完全に「色」の洪水によって埋め尽くされていた。
丁寧に折られた千代紙の星。付箋に一言だけ殴り書きされたメモ。セロハン紙に包まれたままの宝石のような飴玉。色鉛筆で縁取られた小さな絵葉書。繊細なマスキングテープで封をされた手紙。
差出人の名前は、ほとんど記されていなかった。
俺は、吸い寄せられるようにそれらを一つひとつ手に取った。昨日までの俺なら「整理整頓の不備」として切り捨てていたはずのそれらを。
――重い。もう、入り切らない。
独りごちながらも、俺はそれを慎重に鞄へと収めていった。
オレンジの缶。エメラルドの栞。ラベンダーのハーブティー。黒い空き缶。そして新たに加わった数々の欠片。鞄を動かすたびに、中でそれらが触れ合い、カチャリと小さく、軽やかな音を立てた。
その不揃いな音が、壊れかけた俺の鼓動を優しくなぞるようで。
どうしようもなく、胸の奥が震えるのを、俺はもう演算で殺すことができなかった。
放課後。
俺は、図書室の重い扉の前に立っていた。
三ヶ月前、陽向と作戦会議をするためにここへ来たことはあった。けれど、あの日見ていたのは「戦場の地形」であって、図書室そのものではなかった。
自分を背景だと定義し、ただ一人で呼吸をするためにこの場所へ通っていたあの日々から考えれば――俺が俺としてここに来るのは、一月半ぶりになるのだろう。
扉を開けると、古い紙の匂いと、静かな暖房の熱が頬を撫でた。
カウンターの奥で、司書の村田先生が顔を上げた。一年生の秋、俺が初めて「人の心の動かし方」についての本を探しに来たときから変わらない、穏やかで、静かにすべてを見抜くような瞳。
「橘くん」
先生は眼鏡の奥の目を少しだけ細めた。驚きというより、ずっと待っていた客人を見つけたような目だった。
「久しぶりだね。最後に一人でここに座っていたのは……十一月の終わり頃だったかな」
「……よく、覚えていますね」
「この図書室の在庫管理は、私の仕事だからね」
先生は、返却された本を台車に積みながら、ふと窓の外へと目を向けた。
「君が来なくなってから、この部屋、少しだけ寒くなった気がしていたんだよ」
俺は、窓際のいつもの席に鞄を置いた。カチャリ、と「俺を構成する色彩」が音を立てる。
「……俺はただ、誰の目にも触れないよう、風景の一部に混ざっていただけです」
「そう思っていたのは君だけだよ、橘くん」
先生が、棚の向こうから俺の隣まで歩み寄ってきた。
「君は自分のことを、誰かの依頼を効率的に処理するだけの、無機質な装置だと思っていたかもしれない。……けれど、私たちは見ていたんだよ。窓際で、誰かのためにボロボロになるまで考え込み、ノートを真っ黒に埋めていた君の背中をね」
「……」
「人が誰かのために、自分を使い果たそうとする姿。それは、ただ見ているだけの人間を、どうしようもなく救うことがあるんだ」
先生の手が、俺の鞄から少しだけ覗いていた「オレンジ色の缶」を指差した。
「君がそこにいてくれただけで、この場所には確かな体温があった。君は道具なんかじゃない。……この図書室という静かな世界に、最も優しい色を添えていた『色彩』そのものだったんだよ」
視界の端が、不自然なほど白く滲んだ。
演算、不可。
どれほど論理の網を投げても、先生がくれた「温かさ」という解答を、正解以外として処理することはできなかった。
――ド、クン。
砂嵐の向こう側から。
一人の、生きた人間の心臓が、力強く産声を上げた。
図書室を後にしたのは、夕方の四時半過ぎだった。
夕闇のグラデーションが校舎を支配し始めた廊下を歩いていると、不意に、後方から小さな足音が聞こえた。
「橘先輩……っ!」
振り返ると、一年生の女子生徒が、肩を上下させて俺を追いかけてきたところだった。
「……どうした?何か、用か」
「はい……! あの、図書室から出てくるのが見えて。これ、ずっとお返ししたかったんです」
彼女が鞄から取り出し、震える手で俺に差し出したのは、一枚の薄汚れた方眼紙の切れ端だった。
受け取ると、その上部には、俺自身の神経質なほど細かい文字がびっしりと並んでいた。
――Case_31。
――去年の秋。文化祭の演劇準備における、クラスの意見対立の調停。
それは、紛れもなく俺が自分の机で吐き出した「思考の残滓」だった。計算を終え、もはや用済みとなってゴミ箱へ消えるはずだった一幕。
「……これを、君が持っていたのか?」
「拾ったんです。去年の、文化祭の前に。中に書いてあったことが……すごく凄くて。演劇なんて興味なさそうな顔してた橘くんが、実は誰よりも、みんながうまくいく方法を考えてくれてたんだって、分かったから」
女子生徒の瞳は、まるで英雄を前にした少女のように輝いていた。
「私のクラスも企画が空中分解しそうだった時、その紙に書いてあった『役割の肯定と動線の最適化』の考え方をこっそり真似してみたんだよ。そうしたら、みんなが最後に笑って終われて。……私には、この紙が御守りだった。でも、もう大丈夫だから。……ありがとうございました、橘くん」
彼女は深々と頭を下げると、冬の寒さを弾き飛ばすような速さで廊下を去っていった。
俺は、手の中に残った「かつてのゴミ」を見つめた。
これは、誰に宛てた言葉でもなかった。俺が俺自身の罪悪感を消すために書き殴った、ただの数値の羅列だったはずだ。
それが。
俺の知らないところで、誰かの希望を繋ぐ鎖になっていたというのか。
窓の向こう。校舎のあちこちに、一粒、また一粒と明かりが灯り始めた。
あの光の一つひとつの中に、誰かの日常があり、誰かの葛藤がある。
そして、その中には。
俺が気づかないまま手渡してきた言葉の残響が、今も誰かの背中を、そっと支え続けている。
――ド、クン。
鼓動が。
かつての冷徹なアラートなどではなく。
温かくて、残酷なほどに、人間らしい「愛着」として鳴り響いた。
学校を出る頃、粉雪は止み、夜の舗装路は街灯を映して黒く濡れていた。
俺は一人、その光る道を踏みしめながら歩いた。世界は灰色なんかじゃなかった。黒と光と水。それらが複雑に溶け合い、息を呑むような深みを持って俺を迎えていた。
鞄の中から聞こえる、色彩たちの合唱。
カチャリ。カチャリ。
俺は、コートの右ポケットの奥に手を伸ばした。
ターコイズのピアス。
俺はそれを、壊れないようにそっと包み込んだ。
それはもう、俺を罰する証拠品ではない。俺がこの学園に、陽向の隣に、確かに存在していたことを証明する唯一の熱量。
俺は、ずっと「背景」として死ぬことを望んでいた。
けれど、先生は言った。
背景(額縁)のない絵画には、居場所なんてないのだと。
――演算、継続。
俺は背景(額縁)でいい。けれど、この世界という不器用な名画を描き切るためには。
――灰色の絵の具も、絶対に、欠かせない一色だったんだ。
足が止まった。
スマートフォンが、ポケットの奥で一度だけ、短く震えた。
通知バーに表示されたのは、『LANE』の文字。
『橘くん。さっき、図書室にいた? 私も今、そこにいたよ。』
神谷陽向。
あの日、別れすら告げられずに遠ざかった少女が、今度は俺を、「背景」の外側へと呼び戻そうとしていた。
――ド、クン。
胸が、今日一番大きな音を立てて波打った。
俺は、スマホを握りしめ、濡れたアスファルトに反射する光を見つめた。
返信すべき言葉は、まだデータとしては抽出できていない。
けれど。
今すぐ指先を動かしたいと、論理以前の何かに命じられている自分を。
俺は、誇らしくさえ、思い始めていた。
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