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【完結】君の恋を最高傑作にするために、僕は自分の恋を殺すことにした〜成功率100%の恋愛軍師、最後に自分の恋を忘れる〜  作者: リディア


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第34話 氷解の兆し、あるいは空洞を埋める熱

 鞄が、重い。


 昨日よりも確実に、そして残酷なまでに重い。それは重力加速度に基づいた物理的な質量として、何ら疑いようのない事実だった。

 

 放課後の昇降口。凍てついた空気の中、俺――橘晴人は下駄箱の前に鞄を置き、ローファーに冷えた足を通した。立ち上がりざま、不意に鞄のファスナーがわずかに開き、中身が覗く。


 田中が置いていった、鮮やかなオレンジ色の缶。

 その隣で静かに息を潜める、佐藤さんのエメラルド色の栞。

 

 ――ド、クン。

 

 胸の中央で、不規則で重い音がした。かつて俺の耳元を支配していたあの「砂嵐」ではない。砂嵐ならまだよかった。あれは意味を持たない白色雑音として、演算の背景ノイズとして処理できたからだ。


 だが、この音は違う。明らかに、熱を持った生き物の音がする。規則正しい心臓の拍動に似たその振動が、今の俺にはひどく不快で、そして恐ろしかった。

 

「早く捨てろ。意味のない残骸だ」

 

 脳内の冷徹な理性が、命令を下す。

 けれど、右手が言うことを聞かない。まるで磁石の同極同士が反発し合うように、ゴミ箱へ向かおうとする意志を指先の筋肉が拒絶していた。


 俺は逃げるように鞄の口を閉じた。オレンジとエメラルドの色域を、強引に暗闇の中へと封じ込める。

 

 重い。邪魔だ。早く背景に戻らなければ。

 理解しているはずなのに、身体だけが「他人の熱」を離そうとしなかった。


「……橘か」

 

 昇降口を抜け、正門へと続く緩やかな坂道に差し掛かったところで、呼び止められた。

 低く、少しだけ懐かしい響きを伴った声。


 振り返ると、そこに三年生の小林先輩が立っていた。冬の制服にコートを羽織り、卒業を間近に控えた者特有の、どこか浮世離れした静かな佇まい。

 俺の脳内ライブラリが、火花を散らしながら深層のデータを展開する。

 

 ――Case_03。小林達也。一年前。

 ――当時の課題:交際相手との円満な別離に向けた意思決定。

 ――解決策:別れるべき理由の定量化と、相手の心理的コストを最小限に抑える伝達文言の設計。

 

 俺が「恋愛軍師」という気味の悪い通り名で呼ばれるきっかけとなった、最初期の案件。

 

「……小林先輩。お久しぶりです」

「ああ。卒業前に一度、お前に会っておきたくてな」

 

 小林先輩は、俺の顔をじっと見つめた。それはかつての依頼者が軍師を仰ぎ見る目ではなく、大人が迷子を案ずるような、ひどくお節介で温かい目だった。


「……橘。お前、あの日からずっと、そんな顔をして人を助けてきたのか?」

「そんな顔、とは。俺は常に平熱を維持し、表情筋を最適化していますが」

「なんていうか」


 先輩は、積もり始めた雪を仰ぎ見るように目を細めた。


「……すべてを燃やし尽くした後の、『灰』みたいな顔だよ」

 

 冬の風が、二人の間に漂う沈黙を鋭く切り裂いた。


「用件があるなら伺います。ただし、俺は既に相談業を廃業し、全案件をクローズしていますので」

「知ってるよ。だから来たんだ」

 

 小林先輩はゆっくりと歩き始め、俺もまた、磁石に引かれる鉄屑のようにその隣に並んだ。


「一年前、お前に相談した時のこと。お前はどう記憶してる?」

「Case_03。解決まで九日間。意思決定における感情バイアスの除去。それだけです」

「ははっ、相変わらずだな」

 

 先輩は苦笑しながら、誰もいない渡り廊下の入り口で足を止めた。


「お前のアドバイスは機械的だった。一ミリも血が通ってなくて、『選択肢Aの方が感情コストが低いです』なんて言われた時、俺はこいつ本当に人間か? とすら思ったよ」

「……不適切な感想です。俺は最短距離を提示しただけです」

「ああ、そうだな。でも――」

 

 先輩の声から、微かな湿り気が消えた。


「俺が本当に救われたのは、そのアドバイスの中身じゃなかった。お前、あの日から九日間……俺が本当に別れを切り出せるまで、毎日俺に話しかけに来ただろう? アドバイスの精度を高めるための進捗確認だとか、下手な言い訳をしながら」

「……それは、データの完遂率を維持するための必要な行程であり――」

「橘。嘘をつくな」

 

 静かな、けれど揺るぎのない一突き。

 俺の喉が、熱い鉄でも飲み込んだように硬直した。


「お前はデータのために来てたんじゃない。俺がちゃんと立ち直れるか。あの日、死にそうだった俺が、独りで笑えるようになるか。それを自分の目で確認しに来てたんだ。……そんな奴の紡ぐ言葉だったから、俺はあの冷たいロジックを信じられたんだよ」

「……違います。俺は、自分を背景に追いやり、機能を果たすことで自分の罪を――」

「自分を殺してまで他人を救う」


 先輩は、少しだけ悲しそうに目を細めて俺を見た。


「それ……世界で一番不器用な『愛』って呼ぶんだぞ、普通は」

 

 ――ド、クン。

 

 心拍アラートは鳴らない。代わりに、物理的な衝撃が胸の奥から響いた。

 俺は言葉を失い、先輩の背後の景色を見つめることしかできなかった。


「もう十分だろ、橘。お前のおかげで、この学校のあちこちに、お前の撒いた色彩が咲いてる。……田中も、佐藤も。みんなお前を『ただのデータ』だなんて思っちゃいない」

 

 先輩はコートのポケットから、自販機で買ったばかりの缶コーヒーを取り出した。

 黒色のラベル。深い苦味を予感させる、熱を孕んだ円筒形。


「甘いのは間に合ってるだろ? 持ってけ。……これは報酬じゃない。俺からの、ただの勝手な贈り物だ」

 

 俺の手が、勝手に動いた。

 受け取った瞬間に伝わってきたのは、皮膚を通り越し、骨の芯まで溶かしそうなほどの「熱」だった。


「達者でな、橘。お前みたいなバカが一人いるだけで、世界もそんなに捨てたもんじゃないと思えるよ」

 

 先輩は大きく一度だけ手を振り、冬の冷たい空気の中へと消えていった。

 俺の手の中には、真っ黒な缶だけが残された。

 熱い。痛いほどの熱が、掌から奪われたはずの色彩を無理やり呼び戻そうとしていた。


 帰り道。


 鞄の中にオレンジとエメラルド。

 右手にコーヒーの黒。

 そして、右のポケットには、誰にも見せてはいけない蒼――。


 俺は、自分自身の境界線が分からなくなっていた。

 四つの異なる熱量と色彩を抱えたまま、正門を潜ろうとした時。

 雪は、すべてを白く塗りつぶそうとするかのように、さらに勢いを増していった。

 

 愛、だと?


 違う。俺の行動にそんな価値はない。俺はただのシステムであり、誰かを鮮やかにするための安価な道具だ。

 灰色の世界。彩度のない日常。感情を捨てた自分。

 

 それらを必死に呪文のように繰り返していると、視界の端に強烈な「不協和音」が現れた。

 

 ――赤。

 

 白い雪が降り積もる街路樹の根元。一輪の寒椿が、鮮血のような赤を灯していた。

 風が吹くたび、花弁が凍えるように震える。けれどその色は、白と灰色の世界に決して飲み込まれまいとする、強固な意志のように屹立きつりつしていた。

 

 ――波長、約七百ナノメートル。視覚的誘目性、最大。

 数値化した。

 論理的に、ただの物理現象だと言い聞かせた。

 なのに。

 

 雪の中に咲くその「赤」が、俺の眼球を熱く焼き、灰色だったはずの網膜を鮮やかに侵食していく。

 

「……橘くん」

 

 予期せぬ場所から、その声が降ってきた。

 顔を上げると、十メートルほど先に、二つの影があった。


 佐野蓮と、神谷陽向。

 佐野がこちらに気づき、快活に手を挙げる。その隣で、陽向が冬の静寂に溶けそうなほど深い瞳で俺を見ていた。

 

 俺が作り上げ、あいつへと譲渡した、完成された幸福の絵図。

 二人の距離感。神谷が佐野に向ける柔らかな表情。

 けれどその一瞬。陽向の視線が、俺の「不自然に膨らんだ鞄」と「握り締められた缶」に止まった。

 

 ――ド、クン。

 

 橘は反射的に鞄を背後へ隠そうとしたが、指先が強張って動かなかった。

 彼女は、気づいた。

 俺の鞄が、以前のような虚無ではなく、何か重苦しく温かい「誰かの想い」で溢れそうになっていることに。

 俺の手に、誰かから与えられた熱が握られていることに。

 

 陽向の瞳が、冬の夕暮れを受けて、ゆっくりと、深い悲しみと喜びの混ざった色を湛えた。


 彼女は、笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、一人の理解者として。

 吹雪に掻き消されそうな小さな口の動きで、俺に告げた。

 

 ――よかった……。

 

 「どうした?」と尋ねる佐野に対し、彼女は「ううん、雪が綺麗で」と微笑み、俺ではない男の腕にそっと手を添えて歩き出した。

 

 俺は、白く濁り始めた坂道の真ん中で立ち尽くした。


 手の中の缶コーヒーは、まだ、心臓のようにドクドクとした熱を放っている。

 鞄の中にある、他人のための色彩エメラルドとオレンジ

 掌に無理やり握らされた、救いのブラック

 そして――右ポケットの奥底に沈んだままの、誰にも見せてはいけない毒のような蒼。

 雪の中に咲く椿の赤が、俺の灰色の視覚野を、修復不能なまでに侵食していた。

 

 陽向が残した、たった四文字の残像が。

 

 ――演算、失敗。拒否、不能。

 

 「もういい。空っぽでいさせてくれ」

 

 心の底で絞り出したはずの願いは、新雪の冷たさに吸い込まれて消えた。

 自分の空洞に、他人の温もりが、暴力的なまでの色彩を持って流れ込んでくる。

 

 橘晴人は、激しい恐怖を感じていた。

 あるいは。

 二度と「軍師システム」には戻れないことを悟った者が抱く――、取り返しのつかないほどの、「生」への震えを。

 

 雪が降りしきる中、俺は立ち尽くしていた。

 鞄の中のオレンジとエメラルド。掌の上のブラック。他人が俺の空洞へ、勝手に注ぎ込んでいった、温かな熱の色彩。

 そして――右ポケットの奥底で、今も静かに俺を焼き続けている、冷たくて痛い俺だけの「蒼」。

 降り積もる白を拒絶するように咲く、あの椿の赤。

 

 俺の世界は、俺が消えたいと願うよりもずっと前から。

 逃げ場がないほどに鮮やかに、そして――残酷なまでに美しく、彩られ始めていたんだ。

ご覧いただきありがとうございます。

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毎日19時に更新予定です。

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