第33話 彩られた残骸、あるいは偽物の魔法
カバンが、重い。
物理的な質量は昨日と何ら変わりはないはずだ。教科書数冊、筆記用具、予備の折り畳み傘。それ以外に増えたのは、スチール製の細い缶一本だけだ。
内容量、三百ミリリットル。推定重量、およそ二百八十グラム。
その数値を脳内で転がしながら、俺は一月の冷え切った通学路を歩いていた。
チャプン。
カバンの中で、密閉された液体が揺れる音がする。
――なぜ、まだ持っているんだ。
昨夜、自室で十一回、同じ問いを自分に投げた。
糖分と水分、気休め程度のクエン酸。それ以外の何物でもないはずの物体を、なぜ俺はゴミ箱へ処理できないまま、今日も持ち歩いているのか。田中という名の「かつてのデータ」が置いていった、オレンジ色の不純物。
チャプン。
空気が痛い。気温は三度。路面の隅には昨夜の霜が鋭く尖ったまま残っている。
ポケットの中には、あのターコイズのピアスがある。
もはや手触りを確認する必要さえない。あれは単なる『青い石』だ。価値も、意味も、来歴もすべて演算の外へ捨て去ったはずの、ただの小さな塊。
チャプン。
――うるさい。思考の静寂を乱すな。
五時間目の休み時間。俺は校舎の喧騒から逃れるため、北校舎の階段踊り場へ向かっていた。一年前の冬、人目を避けるために最適化した俺だけの避難経路だ。
だが、角を曲がった瞬間に、予測外のノイズが届いた。
弾むような笑い声。女子生徒が二人、冬の陽光が差し込む窓際に立っていた。
俺は歩調を緩めなかった。不要な接触は不要なリソース消費を招く。即座に迂回ルートを算出しようとしたその時――。
「……橘くん?」
声が、俺の背中に触れた。
振り返るよりも早く、脳内ライブラリが強制起動する。
声紋照合。記憶ディレクトリ参照。
――Case_21。佐藤美織。一年前、一月の依頼。
――依頼内容:『地味で目立たない自分を変えたい。誰かの視界に入りたい』。
振り返った俺の網膜に、鮮烈な色彩が飛び込んできた。
指定制服のブレザーの下に、スモーキーなテラコッタのカーディガン。首元には、校則の限界を突くような、彩度を三段階落とした深いサーモンピンクのマフラー。そして肩にかけられたキャラメルブラウンの合皮バッグが、窓からの冬の陽光を受けて均一な光沢を返している。
一年前の冬。まだ軍師としての全盛期にいた俺が、「君の肌の明度を殺さないために、この色域だけを纏え」と断定した、その色彩の中に彼女はいた。
彼女はもう、かつての「誰の視界にも入らない影」ではなかった。
指定の白ソックスと黒いローファーという、全生徒共通の足元ですら、彼女が纏う色の魔法によって、まるで計算されたコントラストの一部のように機能していた。
佐藤美織は、以前の「背景」のような自信なさげな姿とは見違えるほど、確かな輪郭を持ってそこに立っていた。
「やっぱり橘くんだ。……あの、聞いたよ。引退しちゃったんだって?」
隣にいた友人が、空気を読んで「また後でね」と階段を降りていく。踊り場に、ひやりとした沈黙が残された。
「……あぁ。でも、君には関係ない。用がないなら行くけど……」
「冷たいなあ。ねえ、見て。このスカーフ、橘くんに選んでもらってからずっと大切に使ってるんだよ」
「……覚えていない」
嘘だった。俺は、彼女のために費やしたすべての工程を記憶していた。
Case_21。解決まで十四日。
当時の彼女は、自分のことを『影』だと思い込んでいた。暗いネイビーの服で自分の個性を塗りつぶし、世界から消えようとしていた。俺は彼女のパーツ比率、肌の質感、光を当てた時の反射率を精密に計測し、一つの結論を出した。
不均衡を正したかっただけだ。美しい要素があるのに、不適切な色によってそれが殺されているのが、光学的に耐えがたかったのだ。
「橘くん、あの時、言ってくれたよね。『君の肌の彩度は、その暗い色では死ぬ。この色を使え。それだけで、光学的に無視できない存在になる』って」
佐藤は笑っていた。傷ついた様子もなく、むしろあの日貰った勲章を自慢するような、誇らしい目で。
「最初、言葉が鋭すぎてびっくりしたけど。でも、あの日から鏡を見るのが怖くなくなったんだ。誰の目にも入らないのは自分がダメだからじゃなくて、『色が間違っていただけ』なんだって思えたから。……服の色ごときで、大袈裟だよね」
「……変ではない」
口が、勝手に動いた。
「色は他者への信号なんだ。適切な波長を発信すれば、他者の視覚野は物理的に反応する。君が認識されるようになったのは、君の内面が変わったからじゃあない。発光している光の波長が変わったからなんだ。……ただの物理現象だよ」
「あはは。橘くんって、本当に昔からそう。……でもね」
佐藤が一歩歩み寄り、バッグから小さなものを取り出した。
「冷たく突き放してるみたいで、橘くんの言葉はいつも、私を全否定から救ってくれた。……これ、お礼。昨日、田中くんが橘くんを見かけたって言ってたから、準備してたんだ」
手渡されたのは、一枚の栞だった。
青と緑の境界にある、深いエメラルド色の和紙。その端には、小さな白い押し花が添えられていた。
「手作りなんだけど。橘くん、本読むでしょ? 君のイメージに合う色、探したんだ」
「……俺の、イメージ?」
「そう。冷たいけど、どこか透き通っていて……私を救ってくれた、あのターコイズみたいな色」
俺の手が、勝手にそれを受け取っていた。
薄い紙の、ひんやりとした感触。
「じゃあね。引退しても、橘くんは橘くんのままでいてね」
彼女は軽やかな足取りで去っていった。
一人残された踊り場で、俺は手の中の栞を見つめた。
カバンの中には、みかんジュースの缶。
手の中には、エメラルド色の栞。
――不要なデータだ。
そう処理しようとして、俺の思考がエラーを吐いた。
俺はCase_21の女子生徒に対し、何の感情も抱いていなかった。彼女との間に「共犯関係」も「秘密」も必要なかった。
それなのに。
なぜ俺は、彼女に最も似合う色を見つけ出すために、三十分もかけてカラーチャートを精査したのか。
Case_48――神谷陽向に使ったあの膨大な時間と、本質的には同じエネルギーを、なぜ俺は「誰でもない他人」のために注げてしまったのか。
(――神谷の時は、好きだったから丁寧にやったんだ)
(――じゃあ、好きでもなかった彼女に同じことをしたのは、なぜだ?)
演算が、フリーズする。
答えを探そうとすると、頭の奥でまたあのノイズが鳴り響く。
ザザッ……ザザザッ……。
砂嵐。
だが今日、そのノイズの底から、今まで聞いたことのない「音」が混じった。
――ト、トン。
規則的な、生きている肉体が発する、重い鼓動のような響き。
俺は踊り場の窓に額を押し付けた。ガラスの冷たさが心地いい。
灰色だった俺の世界に、今日は二つの色が落ちてきた。
オレンジと、エメラルド。
やめろ。俺を背景のままでいさせてくれ。
色なんて、熱なんて、もう必要ないんだ。
俺は震える手で栞を鞄のサイドポケットに差し込み、廊下へと歩き出した。
鼓動の音を、懸命に無視しながら。
それが、自分の中から鳴っている「再起動」の音ではないと、必死に自分を騙しながら。
ご覧いただきありがとうございます。
もし「この主人公、切なすぎる……」「続きが気になる」と思っていただけたら、作品フォローや★、評価をいただけると執筆の大きな励みになります!
毎日19時に更新予定です。




