第32話 遺失したログ、あるいは残響する「ありがとう」
一月十日、木曜日。
昼休み開始まで、残り百八十秒。
俺は人気のない北校舎の廊下にあるベンチに座り、英単語帳を無心にめくっていた。
一ページ、四単語。一分間に約一・二ページ。集中力は正常。記憶定着率は、放課後の復習テストにて確認予定。
心拍数、六十八。呼吸、一定。血圧、おそらく安定。外気温は約四度だが、廊下の窓から差し込む冬の日光が網膜を突き、不快指数は閾値を下回っている。
俺は次のページを、事務的にめくった。
acquisition。取得、習得。
adequate。十分な、適切な。
adjacent。隣接した。
遠くの廊下を、走る足音が聞こえた。
「廊下は歩行すること」という校則があることを俺は知識として持っていたが、それを指摘するコストを演算し、即座に「無視」を決定した。俺は自分自身という生命維持装置を稼働させるためだけのエネルギー消費に専念していた。
「橘先輩!」
足音が、俺の正面で唐突に停止した。
見上げると、一人の男子生徒が肩で息をしながら立っていた。
冬だというのに頬が上気し、赤いマフラーが片側だけほどけかけている。
その瞬間、俺の脳内の深層ディレクトリが、許可なく一つのファイルを解凍した。
――Case_47。田中航。現一年生。
――依頼内容:同学年女子、篠原への告白補佐。
――ステータス:成功。プロジェクト終了済み。
俺は、こじ開けられたそのファイルを即座にゴミ箱へドラッグしようとした。だが、マウスカーソルが動かない。
「……田中」
名前を呼んでしまった。脳が、かつての「顧客リスト」から自動的に呼び出してしまった。
「よかった、覚えてくれてた! 探したんですよ。最近、全然姿を見かけないから」
「用件を言ってくれ。俺は今、単語の習得にリソースを割いている」
「報告ですよ」
田中は、俺の許可を待たずに隣に腰掛けた。
俺は単語帳を閉じた。拒絶の言葉を編むよりも、彼の報告を聞き流して去らせる方が、総消費カロリーが少ないと判断したからだ。
「篠原と、ずっと続いてます。最高に順調ですよ」
田中の声は、冬の冷たい空気を一瞬で暖めるような熱を持っていた。
一点の曇りもない幸福の横顔。
俺はそれを客観的なデータとして収集した。
Case_47 の対象。メンテナンス(俺の介入)なしで六ヶ月以上交際を継続。
――致命的な演算ミスを検知。
俺の当初の設計では、田中の素養(コミュニケーション能力の低さ)からして、外部サポートなしでの維持限界は三ヶ月から四ヶ月と見積もっていたはずだ。六ヶ月という数値は、統計的な逸脱に等しい。
「そうか」
「『それだけかよ』って顔してますね」
田中が屈託なく笑った。
「いいんです。別に次のアドバイスが欲しいわけじゃない。ただ……お礼が言いたかっただけなんです」
「礼は不要だよ。俺は対価として成功データを受け取っている。契約は等価交換で完結しているはずだ」
「先輩が不要でも、俺が言いたいんです」
田中は、俺の冷徹な言葉を、ゴムボールを跳ね返すようなしなやかさで無効化した。
「あの時さ。俺がクラスの奴らに『篠原が好きだ』って相談したら、みんな笑ったんですよ。あんな可愛い子が、お前みたいな冴えない奴選ぶわけないだろ、って。佐野先輩みたいな完璧な奴が好きなんだから無理だろって、端からバカにされた」
俺は、無表情のまま黙って聞いた。
「俺も正直、半分以上諦めてた。でも……橘先輩だけは、一回も笑わなかった。俺と一緒に屋上に立って、作戦を立てている間中、一度だって『でも難しいよな』なんて言わなかった。ただ……どうすれば俺の気持ちが届くかだけを、ずっと、真剣に、……苦しそうなくらい真剣に考えてくれた」
それは正確な認識ではない。俺の計算回路が、ノイズとして再生を始めた。
俺がやったのは確率論だ。外見の補正、行動パターンの解析、会話の最適化。感情を混ぜることの非効率さを俺は知っていたはずだ。
「……君の解釈は誤りだ。俺が提供したのは最適化であり、君の感情に共感したわけではない。君が今も幸福であることは、ただの結果だ。俺の功績でも、人間性の証拠でもない」
「違いますよ」
「違わない。データが――」
「俺、今の先輩の言い方でわかるんです。全部計算だった、自分は機械だ、って言いたいんでしょ。でも、俺には違うふうに見えた。あの屋上で、冬の風に吹かれながら俺の話を聞いていた時の先輩の目……俺、今でも忘れてないんですよ」
――強制終了。強制終了。
脳内で警報が鳴り響く。
『屋上』。
そのキーワードが、俺の記憶の奥底に封印されていた「バグの残骸」を引きずり出そうとする。
あの日の夕暮れ。錆びたフェンス。
言葉に詰まり、情けなく俯く田中の話を、俺はなぜ黙って聞き続けたのか。
……情報の欠損。原因、不明。
「俺は、……あの頃、まだ演算回路に深刻なノイズが混じっていた。精度の低い不完全なシステムだったんだ」
俺は、震えそうになる喉の筋肉を鉄の意志で固定した。
「今の俺なら、もっと効率的に君を処理できた。あの日の行動を『誠実さ』と定義するのは、統計上の見落としに過ぎない」
田中が、俺を真っ直ぐに見た。
そこにあるのは軽蔑ではなく、憐憫ですらない。
迷子を励ますような、あまりにも傲慢で、優しい色。
「先輩……俺、最近、篠原に自分のダメなところとか、格好悪い話、できるようになったんですよ。先輩に教えてもらった通りに。『お互いの弱さを見せ合って、補完し合うのが絆だ』って言葉」
指先が、単語帳の縁を強く握りしめた。
「それ以来、篠原も俺を頼ってくれるようになって。なんか……自分は自分のままで生きてていいんだって、初めて思えたんです。橘先輩が教えてくれたあの技術……、あれも『バグの産物』なんですか?」
――未定義の例外が発生。
俺の教えた『弱さの共有』というロジックは、かつて彼女(陽向)を佐野の隣に繋ぎ止めるために生み出した、究極の兵器だった。
それが、どうして。
名前も知らないような他者の人生の中で、こんなにも温かい意味を持って呼吸しているのか。
演算、不能。
出力、不能。
俺は、答えを出すことができなかった。
田中が立ち上がった。
「お邪魔しました。先輩、これ差し入れ」
鞄から取り出されたのは、一本の細いスチール缶だった。
オレンジ色の塗装が、彩度のない廊下の中で、暴力的なまでに鮮やかに輝いている。
「……いらない」
「置いときますよ。お礼だし。……あ、あと」
田中が、去り際にもう一度だけ振り返る。
「橘先輩。……たまには、自分のことも、自分のデータとして大切にしてくださいね。じゃあ、また!」
赤いマフラーを揺らしながら、田中は去っていった。
廊下に、軽快な、命の重さを伴った足音が遠ざかっていく。
ベンチの隣に、オレンジ色の缶が残された。
「みかん果汁百分パーセント」という文字が、俺の眼球に色を流し込む。
俺は、その缶を手に取った。
一月十日、外気温四度。当然、缶の表面はキンと冷えているはずだ。
――それなのに。
「温かい」
という単語が、俺の脳内コンソールに表示された。
物理的な表面温度と、俺の神経系が受理した知覚の不一致。
熱力学を無視した、あり得ないはずの現象。
―― unrecoverable hardware fault. (回復不能なハードウェアの不具合)
―― Critical System Error. (重大なシステムエラー)
田中が大切に守り抜いてきたという、あの日、俺が捨てたはずの屋上の記憶。
ゴミ箱に放り込んだはずのログが、他人の幸福の中で黄金色に輝いているという事実。
俺は、かつて神谷陽向に教えた「弱さの共有」という技術を、今はもう持っていない。
俺には共有すべき弱さもなく、見せるべき本音もない。ただの空っぽな背景。
それなのに、なぜ。
この安っぽいアルミ缶一枚が、俺の死んでいたはずの指先を熱く焼き、色彩を強要してくるのか。
オレンジ色。
モノクロームだった俺の世界に、初めて本物の「色」が落ちてきた。
――演算、完全不能。
俺は、その「冷たくて温かい缶」を、鞄の奥底へと隠した。
捨てなかった。
その理由を解明する勇気は、今の俺という故障したシステムには、どこにも残されていなかったから。
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