第31話 最適化された虚無、あるいは色彩の欠落した冬
一月七日、水曜日。
外気温、摂氏三度。
日の出、午前六時五十一分。
俺――橘晴人は、六時十五分に起床した。設定したアラームよりも四分早い。
シャワー、八分。着替え、四分。朝食はトースト一枚とインスタントコーヒー。摂取カロリーは合計三百八十キロカロリー。厳冬期の登校に必要な燃料としては、誤差の範囲内で十分な数値だった。
窓の外を見ると、空から白い固形物が落下していた。
空気中の水分が氷点下で結晶化し、重力に従って地上へ降下している。
俺は厚手のコートを選択し、手袋を装着した。体温の損失を最小化するための、合理的な判断に基づいた行動。
それだけだ。
それ以外に、一月の雪に付与すべき意味はどこにも見当たらなかった。
玄関の扉を開けた瞬間、冷気が顔面を打った。
俺はそれを、感覚受容器を介した情報として認識した。
不快感や「寒さ」という苦痛として処理するステップは、既に省略されている。
アスファルトの上には、既に数ミリの降雪が確認できた。歩みを進めるたび、足の裏から伝わる摩擦抵抗が変化する。
俺は歩幅を正確に三センチ縮めた。
転倒リスクの低減。それだけが、今の俺が歩行において優先すべきタスクだった。
かつての俺なら、ここで不必要な演算を走らせていただろう。
神谷の低体温症の懸念、あるいは佐野の歩幅に合わせた彼女の疲労蓄積度。
今は、ない。
自分という個体の安全維持に必要な計算だけを完了し、思考は停止した。
静かだった。
頭の中は、外界の雪景色よりもさらに深く、音のない静寂に満たされていた。
学校到着、午前八時十二分。
廊下を歩くと、周囲の視線が「物理的な情報」としてこちらに届く。
「……あいつ、最近本当に死んだみたいに静かだよな」
音源を特定。左斜め後方、二年三組の山田。面識、ほぼなし。
俺はその音声を、ノイズとしてバックグラウンドで処理した。意味を抽出する必要はない。
「縁切り師(恋愛軍師)、最近見ないな」
「一時は伝説だったのにな。成功率百パーって噂、マジだったんだろ?」
伝説。
俺のことを指しているらしいその単語は、もはや別個体の英雄譚のようにしか聞こえなかった。
自分の過去と現在の自分を結びつけるためのパスワードは、既に破棄されている。
何の感情も喚起されなかったので、俺はそのまま教室の入り口をくぐり、自分の席に座った。
一限、現代文。
教師の音声を記録し、重要と思われる箇所をノートへ出力する。
手が動く。インクが紙に吸い込まれる。それだけだ。
以前は、この間にも数千件のデータ照合が走っていた。今日の神谷のバイタル、佐野との関係継続予測。次なる案件のシミュレーション。
今は、何一つの雑音も鳴らない。
文字だけがある。声だけがある。
俺はそれを「快適」とは定義しなかった。ただ「不快感の欠如」として、リストの隅にチェックを入れた。
昼休み。
購買で残っていた卵サンドを機械的に購入した。
咀嚼する。
卵のタンパク質、マヨネーズの脂質、パンの炭水化物。
味覚としての情報は受容したが、そこに「美味」や「不味」という評価を下す回路は閉鎖されていた。
栄養素が補充され、生命維持が継続される。……了解した。
廊下のベンチでそれを処理していると、視界の端に動く影を検知した。
佐野蓮と、神谷陽向。
二人は肩を並べて歩いていた。佐野が何らかの発言をし、身振り手振りを交える。
神谷が、不意に視線を動かした。
一秒にも満たない時間。
俺は、彼女の顔を「観測」した。
眉間の微かな寄れ。瞳孔の揺らぎ。口角の引き攣り。
データベースと照合。判定:深い悲嘆、あるいは強烈な罪悪感に伴う表情。
正常に機能している、と俺は判断した。
Case_48 は、彼女を幸福にすること以上に「佐野蓮の彼女」として定着させることを目標としていた。現状、そのステータスに揺らぎはない。
俺は、彼女の「悲鳴のような視線」を記録し、その必要性がないと判断して、一瞬でゴミ箱へと破棄した。
二人は通り過ぎた。佐野は俺に気づかなかったのか、あえて視覚情報の処理を拒否したのか。
どちらでもよかった。
俺はサンドイッチの紙袋を折り畳み、正確な放物線を描いてゴミ箱へと処理した。
放課後。
教室から最後の生徒が退出したのを確認し、俺は立ち上がった。
コートを纏い、マフラーを巻く。
右手をポケットに滑り込ませると、指先が冷たい何かに触れた。
蒼い石。ターコイズのピアス――片方だけ。
俺はそれを取り出し、冬の斜光に透かしてみた。
縦、約一センチ。横、約〇・七センチ。重量は、比重から換算して約二グラム。
組成:水和銅アルミニウム燐酸塩。
橘はそれを、指先で器用にくるりと回転させた。
光の反射角度が変化し、色の彩度がわずかに遷移する。
かつての俺なら、この石を取り出すだけで死にたいほどの激痛や、爆発的な渇望に襲われていただろう。
今は何も起きない。
単なる無機物が、単なる俺の掌の上にある。
それだけの物理現象。
ペンを回すのと同等の、退屈な時間調整。
俺は石をポケットへと戻した。手袋をはめ、外界へと踏み出す。
昼に止んだ雪は、アスファルトの上で無残に踏み荒らされ、濁った灰色へと変色していた。
俺はそれを見つめた。
何も思わなかった。
何も。
――演算、終了。
俺の周囲には、もう何一つのノイズも鳴り響いていない。
ただ、白く濁った冬が、そこに停滞しているだけだ。
家へと続く帰り道を、一人で歩いた。
自分の足音だけが、世界のすべてのように響いていた。
不快ではない。ただ、不変のままで。
俺は、どこへも向かわない一歩を、再び踏み出した。
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