第30話 最高傑作の断末魔、あるいは誰もいない幸福
冬の朝は、音が死ぬ。
俺はその事実を、今日初めて知った。
空気が芯まで冷え切ると、行き交う生徒の話し声も、遠くを走る車の走行音も、すべてが薄い膜の向こう側へと遠のいていく。まるで、世界全体が巨大な吸音材で覆われたみたいに。
校門へと続く緩やかな坂道の途中で、神谷陽向が走ってくるのが見えた。
乱れた呼吸を整えることもせず、彼女は俺の前で立ち止まる。真っ白な吐息が、彼女の顔を霧のように覆っては、冬の空気に溶けて消えていく。
目が、赤かった。
泣いていたんだな、と俺は思った。自分自身の心臓が揺れることもなく、ただレンズで光景を捉えるような、冷徹で純粋な観測として。
「橘くん」
彼女との距離、およそ三メートル。
今の俺たちには、近すぎる距離だと脳が警告を出した。けれど、脚がアスファルトに縫い付けられたように動かない。
「昨日……言えなかった。ううん、言わせてもらえなかった」
「聞く必要はない。演算は既に終了している」
俺の口が、俺の意志を介さず滑らかに動いた。
「Case_48は昨夜の時点で完全成立し、ログには『成功』と記録された。これ以上の追記も、神谷陽向に対するアフターケアも、俺のタスクには含まれていない」
神谷の顔が、見たこともないほど歪んだ。
「……タスク。またそうやって、君は私を記号にするんだね」
「事実だ。最初から、君は俺にとってのデータでしかなかった。それ以外の見方は存在しない」
嘘だった。
自分自身に吐く、人生で最後で最大の嘘。
けれど俺の声は、凪いだ湖面のように一ミリの揺らぎもなかった。十六年間かけて培ってきた「背景」になるための技術が、今この瞬間、自分自身を殺すために完璧な精度で発揮されていた。
神谷が、震える左手を俺の前に差し出した。
冬の朝の薄い光を受けて、薬指の銀色が鋭い輝きを放つ。
「この重さ」
彼女の声が震えていた。
「これは、蓮くんの愛なの? それとも、橘くんが私を一生逃がさないために嵌めた、枷なの?」
俺は答えなかった。心拍計は、もう数値を返してはくれない。
「あいつを愛しているなら、その重さは『幸福』以外の何物でもないはずだと思う。……それを設計者の俺に問うのは、愛を誓った佐野への不誠実だろ」
「不誠実なのは君だよ!!」
静かな朝の街に、彼女の叫びが鋭く突き刺さった。
「昨日ずっと……。蓮くんの声で、君の言葉を聞きながら、私はおかしくなりそうだった! 好きな人が、一番欲しかった言葉をくれているのに、どうして私は、その言葉の本当の持ち主が誰か、最初から分かってしまったの?」
俺は視線を逸らし、錆びた街灯の柱を見つめた。
無機質な金属の、冷たい質感。何も感じない。何も、届かない。
「……神谷さんの思い込みだよ。偶然、語彙が一致したに過ぎない」
「嘘!! 分かってた! ずっと君がそうやって、自分を削って私を塗りつぶしてるのを知ってた! だから……受け取った時、嬉しさと一緒に、私の心が粉々に壊れる音がしたの。私は……私は、君の『身代わり』を愛しているの?」
その問いが、肺のど真ん中に、音もなく突き刺さった。
刺さった。けれど、一滴の血も流れなかった。
俺の内側はもう、血の一滴さえ通わない広大な空洞に成り果てていたから。
「……リサイクルデータだよ、それは」
俺は、彼女の瞳を真正面から射抜いた。
「恋愛コンサルタントとしての俺は、膨大なデータを蓄積し、最適な場面でそれを再利用する。あの台本も、その一つだ。佐野蓮が最も『らしく』聞こえる言葉を選び、あいつの口調に適合させただけ。神谷陽向、君という個体に対して特別な想いを乗せた言葉など、一文字も存在しない」
沈黙。
あまりの冷たさに、世界が凍りついたような錯覚に陥る。
神谷が一歩、俺へと踏み出した。その目には、絶望を通り越した「執念」のような熱が宿っていた。
「橘くん……信じろって、私に言うの?」
「……信じろ。それが君にとっての正解なんだ」
「信じない。……絶対、信じない。わかってる。君が今、どんな顔をして私の心を殺しているか、私には全部見えてるよ!」
彼女の目が、俺の喉元に食らいついて離れない。
まずい、と脳内の最後の演算回路がアラートを上げた。このまま彼女の熱に晒され続けたら、俺という「無」の仮面が剥がれ落ちてしまう。
「どうして……どうして私に『さよなら』さえ言わせてくれないの?」
彼女の目から、溢れ出した涙が真っ白な肌を伝う。
「俺と君は、別れる以前に、出会ってすらいない。君が見ていたのは『軍師』という機能だ。機能にさよならを言う人間はいない。電卓を買い換えるとき、君はいちいち別れの言葉を告げるのか?」
「嘘つき……最悪の、嘘つきだよ、橘晴人……!」
彼女は、顔を覆って声を上げて泣いた。
俺はそれを見ながら、驚くほど冷静に「自分自身の内側の静寂」を確認していた。
痛くない。
なぜだろう。あんなに欲しくて堪らなかった彼女の涙が、今の俺には、ただの水滴にしか見えなかった。
ああ。本当に、すべてが、死んでしまったんだ。
「陽向ー!!」
その声が、二人の間に漂う絶望を暴力的に切り裂いた。
坂道の下から、佐野蓮が弾けるようなエネルギーを纏って駆けてきた。
眩しい。
朝の太陽をすべてその背負ったような百七十八センチの体躯は、立っているだけで周囲の温度を上げる。
「もう、こんな朝から橘をいじめるなよ。……あ、もしかして俺がノロケすぎたこと、また相談してたのか?」
佐野が明るい声を上げ、泣いている神谷の肩を無防備に抱き寄せる。
神谷は一瞬で表情を殺した。いや、俺と同じ「演技」の仮面を被った。彼女が涙を拭い、微笑を作る速度は、プロの役者のようだった。
佐野が俺の顔を覗き込み、ふと目を細めた。
「……橘。お前……」
「なんだ」
「……いい顔になったな。なんというか、すごく憑き物が落ちたみたいだ」
俺の中の、最後の火が消えた。
「そうか」
俺は言った。
佐野は一点の濁りもない、百パーセントの善意を込めて俺の肩を強く握った。
「昨日、本当にありがとう。お前がいなかったら、俺は一生かかってもあんな最高の答え、見つけられなかった。一生、お前に感謝するよ、親友」
俺は、笑った。
自分でも戦慄するほど、自然な。そして無意味な。完璧に中身の抜けた、背景としての笑顔を浮かべて。
「おめでとう。……最高の朝だな、佐野」
「ああ! 行こうぜ、陽向!」
佐野が神谷の手を取り、並んで校門へと向かう。
神谷は一度も振り返らなかった。
一度も。
俺は二人の背中に向けて軽く手を振り、ゆっくりと逆方向へと歩き出した。
右手を、コートのポケットに滑り込ませる。
指先が、あの蒼い石に触れた。
あえて、握りしめることはしなかった。ただそこにある「物質」であることを確認した。
確認して。
それで終わりだった。
帰り道、一人になった夕暮れ時。
冬枯れの中庭を横切る。誰の姿もなく、霜の降りた地面が冷たい光を放っている。
俺は、ふと立ち止まった。
理由はない。ただ、一歩を踏み出す意味を見失っただけだ。
ポケットから、あのピアスを取り出した。
蒼かった。
夕闇の迫る世界の中で、その石だけが唯一、あの日見た青空の色を留めているように見えた。
俺は、それをじっと見つめた。
そうして、自分の心拍数を――自分自身の内側を、最後にもう一度だけスキャニングしてみる。
痛み。……なし。
悲しみ。……なし。
未練、怒り、諦め、愛おしさ。……いずれも、検出不能。
そこにあるのは、ただ石が冷たい、という物理的な情報だけ。
綺麗だとは、思った。けれど、それはショールームの宝石を眺めるような、遠い世界の感想でしかなかった。
『これがなくなったら、俺には何もない』
そんな惨めな言葉を吐いた夜もあった。感情の暴発に震えた日もあった。
けれど今、俺は気づいた。
何もなくなってしまえば、もう何に脅かされることもないのだと。
Case_48:完全消去。
橘晴人というシステムは、すべての感情データを他人の幸福という名目で処理し切り、ようやく初期化を完了させた。
「……よかったな」
音の消えた世界に、俺の独白が落ちる。
「……これでようやく、俺は本当に、空っぽになれたんだ」
石を、再びポケットの奥底へと戻した。
捨てることへの執着も、持っておくことへの希望も、もう何もかもが残っていない。ただ、そこに置いてあるから持っている、というだけの現象。
俺は、灰色のグラデーションに染まった坂道を歩き始めた。
視界も、思考も、吐息も。
すべてが同じ、彩度のない灰色に馴染んでいく。
冬の夜の冷たさが、心地よかった。
空っぽの器に、音を立てて冷たい風が吹き込んでくる。
静かだった。
ただ、恐ろしいほどに、静かだった。
――第3幕 完。第4章へ…
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