第29話 完璧な地獄、あるいは美しい消去
十二月二十四日、午後七時。
クリスマスイブの夜は、街全体が浮ついた熱気にうなされているようだった。
商店街を彩るイルミネーションが、冷え切った冬の空気を青白く、そして赤く、毒々しいほど鮮やかに明滅させている。
幸せを絵に描いたようなカップル。はしゃぎ回る子供たち。誰かの名前を呼ぶ、弾んだ声。
人混みの中に静止する橘晴人にとって、その光景のすべては、音の消えた古い映画のようだった。
俺の世界からは、もうとうに色が失われている。視界を埋める極彩色の光は、ただ網膜を刺激するだけの物理的な信号に過ぎなかった。
右手のポケットの中で、指先が小さな硬い感触をなぞる。
ターコイズのピアス。彼女から預かり、そして「返さないで」と拒絶された、裏切りの証拠品。
どんなに強く握りしめていても、今夜のこの石は、氷の破片のように冷たかった。俺の体温はもう、この蒼い石を温めることさえ許されないらしい。
『台本は完璧だ。自信を持って、伝えてこい』
昨夜、俺が佐野に送った最後の「助言」。
あいつからの返信は、『ありがとう、橘。お前がいてくれて本当に良かった』という短い言葉だった。その真っ直ぐな感謝が、俺という泥棒の肺を容赦なく圧迫していた。
右手、十一時の方角。
俺がこの演出のために指定した、並木の切れ目にある静かな広場。その中央のベンチに、二人がいた。
佐野蓮が、神谷陽向の前に立っている。
物理的な距離は二十メートル以上。二人の表情までは読み取れない。
けれど、これからその場所でどんな感情が交換され、どんな結末が訪れるのか。
俺は、そのすべてを知っていた。誰よりも、神よりも。
なぜなら、彼らが踏むステップの一つひとつは、俺が命を削って書き上げた「処刑台の設計図」通りなのだから。
佐野が、ジャケットのポケットから小さな箱を取り出した。
俺の喉が、音を立てて閉じた。肺が酸素の供給を拒絶し、心臓が肋骨を内側から叩く。
――始まる。
佐野が口を開いた。三階の教室からあいつの言葉を予想したあの日のように、俺の脳内であいつの「声」が完璧に同期する。
「陽向。……ずっと、言えなかったことがあるんだ」
(台本通りだ。間も、呼吸も。誤差は……一秒すらない)
「俺、お前に出会う前の自分がずっと嫌いだった。空っぽなのを誤魔化して、器用に笑って。でも、心のどこかでずっと、誰かに見抜かれるのが怖くて堪らなかったんだ」
(そこで一拍置け。彼女の目に君を焼き付けさせるんだ。……よし、いい角度だ、佐野)
俺は、震える右手を反対の手で力任せに押さえつけた。
「……橘のおかげで、俺は変われたんだと思ってた。お前への向き合い方も、この言葉も、あいつがいなきゃ見つけられなかった。……でも、違ったんだよ」
俺の思考が、一瞬だけ止まった。
違う? そんなセリフは書いていない。
佐野が台本を離れ、彼自身の言葉で夜の空気を震わせる。
「俺を変えたのは、あいつの知識じゃない。……お前なんだよ、陽向。君を本気で失いたくないと思った時、俺は初めて、格好悪いままの俺自身の足で立てたんだ」
佐野が、箱を開いた。白銀のリングが、街の灯を受けて一筋の光を放つ。
「お前がいたから、俺は俺を見つけられた。……一生、隣にいてほしい」
その言葉は。
皮肉にも、俺が台本のラストに刻んだ「最後の一行」だった。
けれど今、あいつの口から放たれたその言葉は、俺の書いた単なる記号ではなくなっていた。佐野蓮という男が、魂の底から絞り出した、真実の熱を孕んだ言葉へと昇華されていた。
それは俺が、あの雨上がりの夜道で、膝をついて彼女の名前を叫んだ時に流した『血』そのものだった。俺が一生かけても、俺自身の名前では誰にも伝えられないと絶望した、俺のアイデンティティの欠片。
それを、あいつが受け取り。
俺がプロデュースした「最高に美しい舞台」の上で。
俺が見惚れ続けた「世界で一番好きな少女」に、捧げている。
――ザザッ。
脳内で、砂嵐が激しく吹き荒れる。
白濁した視界の中で、神谷陽向が泣き崩れるのが見えた。
「……うん」
彼女の返答は、耳には届かなかった。けれど、俺の脳が正確にその唇を読み取る。
「私も……。私も、ずっと、そう思ってた。……ありがとう、蓮くん」
神谷は、泣きながら笑っていた。
俺が教えた「三秒の笑顔」でも、俺を心配する「二層目の瞳」でもない。
佐野蓮という一人の男を、自身の人生のすべてとして受け入れた――完璧な、「恋人」の顔だった。
佐野が、彼女の左手を取った。
指輪が彼女の薬指へと滑り落ちた瞬間、周囲からパラパラと小さな拍手が沸き起こった。
二人は、眩しすぎるほどに美しい光の繭の中にいた。
俺は、その輪の外側にいた。
生まれた時からずっと。世界との間に一枚の、冷たい透明なガラスが張られたままで。
ザザッ……ザ……。
砂嵐が弱まり。
――プツ。
不意に、すべての音が消えた。
あの煩わしかった高周波も、警告のアラートも、血液が流れる重苦しい音さえも。
耳が痛くなるほどの、底知れない無音。
「終わった」のだ、と。
誰に告げられるまでもなく、俺というシステムは自らの終了を宣言した。
二人が肩を寄せ合い、広場の外へと歩き出す。
光の雫を浴びる彼らの背中は、もはや俺の言葉による補強など必要としていなかった。
神谷陽向は、気づいていたはずだ。
佐野の口にした「最高の誓い」が、本当は誰の喉を裂いて生まれたものだったかを。
それでも、彼女は佐野を選んだ。
それが、彼女の正解。
俺が作り上げた、偽物の愛の脚本を、彼女自身の手で「本物の幸福」へと書き換えた。
これ以上に素晴らしい、メンテナンスの完了報告はない。
スマートフォンが、ポケットの奥で一度だけ震えた。
『ありがとう』
画面に浮かんだのは、たった五文字のメッセージ。
それを打っている彼女の顔を想像しようとして――そして、何も浮かばなかった。
演算、不能。
俺は返信をせず、暗くなった画面に自分の虚無のような無表情を映した。
光の中に溶け込んでいく人波が、俺を通り抜けていく。俺はもう、彼らに干渉することも、彼らの物語を汚すこともできない。
――Case_48 完了。
――メンテナンス、全行程終了。
「おめでとう、陽向。……おめでとう、佐野」
声に出してみた。自分の声だとは思えないほど、それは死者の呟きに似ていた。
「……さよなら、俺の、好きだった世界」
ポケットから右手を出し、蒼い石を見つめる。
イルミネーションの光さえ拒絶するように、その小さな石だけが、暗闇を凝縮したような深い青色で横たわっていた。
ゴミ箱に、捨ててしまえばいい。
指先をほんの少し傾けるだけで、この醜い未練はすべて終わる。
なのに。
俺はもう一度、その冷たい熱を握り締め、ポケットの深淵へと隠した。
捨てられない理由は、もう探さない。
探してしまえば、まだこの胸のどこかで、捨てられなかったはずの何かが、汚く鳴き喚き出してしまうから。
翌朝。
霜の降りた冷たい冬の通学路。
俺は、逃げるように足早に校門へと向かっていた。
「橘くん!!」
背後から、名前を呼ばれた。
心拍が――死んでいたはずの機械が、火花を散らして一度だけ跳ねる。
振り返ると、そこには昨夜、幸せの頂点にいたはずの神谷陽向が立っていた。
走ってきたのか、肩を大きく上下させ、吐く息は真っ白に乱れている。
その瞳は、不自然なほど赤く。
指輪の嵌まった左手を、まるで自分の罪を隠すように強く握り締めていた。
「私……! 昨日、君に、……どうしても言わなきゃいけないことが、あったの」
彼女の、一音一音が震えている。
俺の静寂に沈んだ日常が、再び激しく波打ち始めた。
その本当の地獄は、まだ始まったばかりだったのだ。
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