第28話 処刑台の設計図、あるいは僕の遺言
放課後の教室。残されているのは、俺と佐野蓮の二人だけだった。
他の生徒たちが騒がしく去っていった後の空間には、沈殿した埃と、斜めに差し込む冬の西日が満ちている。光は強すぎるほど白く、視界の端々を白濁させていた。
「橘」
佐野が、見たこともないほど険しい、真剣な顔で俺を呼んだ。
いつも世界を照らしていた眩しい笑顔はない。その瞳にあるのは、一人の男としての、逃げ場のない決意だった。
俺は促されるまま、重い腰を上げて自分の席に座った。
「……どうしたんだ。俺でよければ聞くよ」
「悪いな。……これが最後のお願いだ。俺、陽向と、この先もずっと一緒にいたいんだ」
佐野が真っ直ぐに俺を射抜く。
「それを証明するための、確かな『約束』がしたい。……クリスマスに、ペアのリングを渡そうと思ってるんだ」
俺は、視界を白く染める窓の外へと目を向けた。
ピアスの次は、指輪か。
かつて俺の知識で支配した彼女の耳元に続き、今度は彼女の左手の指先までもが、あいつの所有物として書き換えられていく。
「……渡す時の言葉を、一緒に考えてほしいんだ」
「……廃業したと言ったはずだ」
「わかってる。でも」
佐野が声を絞り出した。
「ただの台本じゃなくていい。俺の心にある言葉を、どうすれば一番あいつの奥深くまで届けられるか。……それを、お前と一緒に探したいんだ。俺をここまで導いてくれたのは、橘、お前だけなんだから」
――ザザッ。
脳内で砂嵐が吹き荒れた。
回路は既に焼き切れ、不快なノイズを撒き散らしている。視界が明滅し、佐野の姿がノイズの向こうへ遠のいていく。
「……わかった。じゃあノートを出してくれ」
結局、俺は抗えなかった。拒絶するための酸素さえ、今の俺には残されていなかった。
佐野が語る「神谷陽向への想い」を、俺は一文字の感情も混ぜずにノートに書き写していった。
あいつは言った。「陽向の笑顔が好きだ」と。
俺はそれを書かなかった。あいつには見せていない彼女の笑顔を、俺はいくつも知っていたから。
あいつは言った。「俺といる時と、そうじゃない時で、あいつが違う気がして、それが怖いんだ」と。
俺のペンが、紙の上で止まった。
――それを、一番残酷に理解しているのは、俺だ。
神谷陽向が、佐野といる時よりも、俺と秘密を共有している時の方が「自分らしくいられる」と、あの夜の教室で泣き崩れたことを。俺だけが、一生あいつに打ち明けることのない真実として持っている。
俺はその事実を、思考の外縁へ追いやった。無かったことにした。
そして。
俺自身の心拍音を聞きながら、一つの文を導き出した。
「……ではこう伝えてほしい。これが、彼女が最も必要としている言葉だと思う」
俺はノートを佐野に向けた。
『君がいたから、俺は俺を見つけられた』
佐野が、その一行をなぞるように見つめた。
長い、痛切な沈黙が流れた。
「……これ、すごいな」
「響くか?」
「……ああ。響く。心の底から。……俺、こんな気持ちをずっと抱えてたんだって、今、気づかされたよ。橘、お前……、どうしてこんなに俺の……、俺たちのことが分かるんだ?」
俺はノートを乱暴に閉じた。
「……俺の気持ちじゃない。お前の気持ちだ」
「そうだな。そうだよな! ありがとう、橘」
佐野が眩しい笑みを取り戻し、俺の肩を強く叩いた。
俺は笑えなかった。一筋の表情筋を動かすことさえできなかった。
――君がいたから、俺は俺を見つけられた。
それは、佐野の言葉ではない。
あの雨上がりの夜、絶望的な孤独の中で彼女の名前を叫び、初めて自分の『好き』という感情を自覚した俺自身の、魂の叫びそのものだった。
俺は今、自分の「最期の言葉」を、ライバルの口に押し込んだのだ。
俺がいなくなった後も、あいつの口からこの言葉が放たれるたび、彼女は救われ、あいつへの愛を深めるだろう。
これは遺言だ。
軍師として死ぬ俺が遺す、この世で最も美しく、醜い、偽装工作。
ノートを閉じる指先が、死人のように冷え切っていた。
佐野が去った後、教室には再び、死のような静寂が訪れた。
窓の外はいつの間にか、輪郭の溶けた夜の色に染まっている。
机の上のノート。そこに残された俺の文字が、暗闇の中で呪いのように浮かんで見えた。
「……まだ、捨ててなかったんだね」
背後からの声に、俺の心臓が一回だけ、嫌な跳ね方をした。
神谷陽向が、入り口に立っていた。
あいつと入れ違いに現れた彼女は、真っ直ぐに俺の席まで歩み寄り、俺の制服のポケットの位置を凝視した。
「それ……。まだ持ってるでしょ。捨てなかったんだよね?」
「……単なる、処理の遅延だよ。意味はない」
「嘘つき」
神谷の声には、怒りにも似た哀しみが混じっていた。
「駅のゴミ箱の前で、橘くんが立ち止まって……結局、手が動かなかったの。私、見てたんだよ」
俺は何も答えず、ノートの角を指先でなぞった。
「ねえ、橘くん。……君はまた、自分の『声』を蓮くんにあげようとしてる」
「……」
「さっき聞こえちゃった。君が書いた言葉……。あれは橘くんが、私に、あの日言いたかった言葉でしょ?」
「違う」
俺は顔を上げた。彼女の潤んだ瞳が、あまりに鋭く俺の深淵を抉ってくる。
「あれは、お前の彼氏の、お前への誠実な誓いだ」
「違う!!」
神谷の悲鳴が、誰もいない教室に突き刺さった。
「あれは君の言葉だよ! 橘くんが私を見て、橘くんが私を思って、必死に絞り出した言葉を……どうしてそうやって、別の人のふりをして渡せるの?」
彼女の目から、大粒の雫が零れ落ちる。
「君がそうやって透明になっていくのを、私は見てたくない……! 君が書いた言葉で、私が佐野くんに抱きしめられて。それを影で笑ってるなんて、そんなの……、そんなの残酷すぎるよ……!」
「陽向!」
咄嗟に、その名前を呼んでしまった。
軍師という仮面が剥げ、橘晴人という剥き出しの心が溢れた瞬間、神谷が息を呑んだ。
二人、至近距離で見つめ合ったまま、沈黙が永遠のように伸びる。
「……これを受け取って欲しい。返させてくれ」
俺はポケットから、体温の消えたあの蒼い石を取り出し、彼女の手のひらに押し付けようとした。
「嫌だよ」
神谷は両手を後ろに回し、頑なに俺の拒絶を拒んだ。
「受け取って欲しい。……神谷さんが今、その耳に新品をつけているなら、俺が持っているこれは、ただの不純物だ。持っているだけで、あいつへの裏切りになるんだよ」
「裏切りでいい」
神谷が、自分の耳元で揺れるターコイズを、震える指でなぞった。
「橘くんがこれを持っていてくれないと。……君がこの世界から、本当にいなくなっちゃう気がするから。私は、これを返してほしくないの。君の中に、私の欠片を置いておきたいの」
俺は、答えを持っていなかった。
窓の外、一番星が不気味なほど青く輝いている。
「……明日、佐野くんにすべての台本を渡すんだよね」
「……ああ。……それが終われば、メンテナンスは完了する。すべて、あいつのものになる」
「わかった。止めない。私は……佐野くんのことを大切にしたいから」
神谷が、一歩だけ俺から遠ざかる。その影が長く、暗く、俺の足元まで伸びてくる。
「でも、橘くん。これだけは忘れないで。……私は、あなたのことも――」
「帰ってくれ」
俺は、彼女の言葉を完結させる勇気を持てなかった。
もし、その先の言葉を今聞いてしまったら。俺は明日、彼女を別の男に渡す台本を書くことができなくなってしまう。
「……橘くん」
「帰れ。……今は、一人になりたい」
しばらくの後、彼女の重い足音が廊下に遠ざかっていくのを聞きながら、俺は再びノートを開いた。
一人になった暗闇の中。俺はペンのインクを使い切るつもりで、明日のための全ての台本を書き上げた。
どこで止まるか。どこで彼女に手を伸ばすか。どのタイミングで指輪を渡すか。
指先がガタガタと震え、文字が汚く歪む。
砂嵐はもはや視界の半分を奪い、脳はエラーの警告音すら出せなくなっていた。
――演算、完全終了。
明日。僕が命を削って書いたこの言葉で、あいつが彼女に愛を誓うとき。
橘晴人というシステムは、神谷陽向の物語から、跡形もなく消去される。
俺はノートを閉じ、冷たくなったポケットの中の石を、そっと握りしめた。
冬の夜の冷気が、石を通して全身に伝わってくる。
もうそこには、誰の体温も残っていなかった。
――明日だ。
明日で、僕の全てが終わる。
暗い教室の中。俺は自分自身の終わりを予感しながら、静かに目を閉じた。
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