第27話 完成された偽物、あるいは僕を殺す「ありがとう」
十一月の鋭い朝日が、教室の隅々まで容赦なく暴き立てていた。
俺は、いつものように自分の席に座り、視線を斜め前へと向けた。窓際の席。そこには、俺が作り上げた『最高傑作』の光景があった。
佐野が、愛おしそうに神谷の肩を抱き寄せ、何かを囁いている。
神谷が、柔らかく、幸せそうに笑う。
その両耳には、冬の光を反射して輝くターコイズ。
二つ。完全に。対称に。
まるで最初から何もなかったかのように、彼女の耳元は完璧な「愛の証」で揃っていた。
俺はコートのポケットの中で、指先に触れる小さな石を爪で弾いた。
カチ、と乾いた小さな音が響く。誰にも聞こえない、俺だけの暗闇での接触。
社会的に見れば、この石はもう何の意味も持たない、不純物であり、ゴミだった。
捨てなければならない。そう理解しているのに、俺の手はまだ、この無価値な欠片を手放すことを拒んでいた。演算をするまでもない。俺は、自分自身の未練という名の腐敗に、今更になってしがみついているのだ。
昼休み、俺は佐野に呼び出され、中庭に立っていた。
吹き抜ける風が、乾いた枯れ葉を石畳の上で転がしている。
佐野の顔は、今まで見てきたどのデータよりも晴れやかで、眩しすぎるほどに明るかった。
「陽向に、渡したんだ。昨日の放課後、お前に相談したあの場所で」
佐野が、誇らしげに語る。
「お前に教わった通りの言葉を伝えたよ。『君が身につけていないと、何かが欠けている気がするんだ』って。……あいつさ、泣いてたよ」
肺の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
「陽向が嬉しくて泣くところなんて、初めて見た。俺、やっとあいつの本当の居場所になれた気がするんだ。……橘、お前の台本、マジで完璧だったよ。本当にありがとう」
枯れ葉が、俺たちの間をカサカサと通り過ぎていく。
俺の頭の中は、気味が悪いほど静かだった。
砂嵐も、警告音も、何も聞こえない。生命維持装置を一つひとつ、丁寧に外されていく患者のような、穏やかですらある絶望。
「来週の土曜、空いてるか? お礼に、三人でどこか遊びに行こうぜ。お前がいなきゃ、俺たちはここに来られなかった。……お前は俺たちの『守り神』なんだから、これくらいさせてくれ」
守り神。
その言葉を受信し、俺は自分の胸の中に広がる空洞を改めて見つめた。
神ではない。俺は、自分の欲望を燃料に、他人の幸福を焼き上げているだけの『道具』だ。
「……守り神なんて、冗談はやめてくれ」
「謙遜すんなよ。本当に、お前には感謝してもしきれないんだからさ」
佐野の100%の善意が、逃げ場を完全に塞ぐ。
「……わかったよ。行くよ」
また、自分の喉が「軍師」として機能してしまった。拒絶する権利すら、俺はとっくに他人に譲り渡してしまったらしい。
土曜日。冬の手前の、白く薄い光が降り注ぐ川沿いの遊歩道。
水面が乱反射し、俺の視界を白く濁らせていた。
佐野と神谷が並んで歩く。俺は、意識せずとも彼らの二歩後ろを歩いていた。
そこが俺の「定位置」であることを、身体の重心が理解していた。
「橘!」
佐野が立ち止まり、俺を振り返る。手にしていたスマートフォンを俺に差し出した。
「悪い、二人の写真、撮ってくれないか? ここ、陽向が好きな景色なんだってさ」
俺は無言で端末を受け取った。
佐野が神谷の隣に戻る。彼は神谷の肩をぐっと引き寄せ、二人の距離をゼロにする。
俺は画面を構え、その枠の中に二人を収めた。
レンズ越しに見る、神谷陽向。
俺が選び、俺が磨き上げ、俺が教えた「彼女」の笑顔がそこにあった。
佐野を見上げて、頬を染め、世界で一番幸せだと信じている少女。
シャッターボタンに指をかける。だが、手が微かに、けれど激しく震えた。
その時、神谷がふいに視線を動かした。
佐野から離れた彼女の瞳が、レンズの向こうにいる俺を、真っ直ぐに射抜いた。
彼女は笑っていなかった。
佐野に向けられていた幸福な色彩が瞬時に消え、そこには逃げ場のない『問い』だけが宿っていた。
――私の心を、撮って。
言葉よりも鮮明に、その瞳が悲鳴を上げていた。
君が僕を消して幸せになろうとしているなら、私は君を、レンズの向こう側に置き去りにしない。
俺は、指を押し込んだ。
カシャッ、と、乾いた無機質な音が響いた。
「ありがとう、橘。……あれ、陽向、どうした? 急に笑わなくなって」
佐野が首を傾げながら画面を覗き込む。
「……ごめん。うまく、笑えなくて」
「あはは、照れ屋さんだなあ。橘、いいの撮れてるぞ! サンキューな!」
佐野は満足げに歩き出し、神谷はその隣で再び、偽りの笑顔を貼り付けた。
俺は後ろを歩きながら、右の指先をポケットに滑り込ませる。石は、もう冷え切っていた。
駅の改札前、解散の時間が来た。
佐野が、俺に小さな紙袋を差し出した。
「これ、お前に。いつもサンキューな」
受け取ると、軽い、けれど重い手応えがあった。
「橘、お前もいつか、こういう幸せを掴めよな。……誰よりも、お前がそれを手に入れる資格があると思うから」
佐野の瞳には、一グラムの偽りもなかった。彼は本当に、俺が自分の彼女に片思いをしていることも、この手に彼女の身体の一部を握りしめていることも知らないまま、心からのエールを送っているのだ。
「……ああ。……じゃあな」
改札を抜ける二人の背中。
神谷が、一度だけ足を止め、肩越しにこちらを振り返った。
何も言わなかった。ただ、一秒だけ俺の視界に残像を残して、彼女は佐野の光の中へと消えていった。
一人になった駅前の広場。
俺は、大きなゴミ箱の前で立ち止まった。
右手をポケットに入れ、あの蒼い石を取り出す。
手のひらの上のターコイズは、俺の体温を奪い、ぬるく重たかった。
ゴミ箱の黒い穴が、口を開けて俺を待っている。
俺は、手のひらを傾けた。
石が指先の腹まで滑り、あと一ミリで奈落へと落ちる――。
その瞬間、俺は拳を強く、握り潰していた。
石の角が、掌の皮を突き破らんばかりに食い込む。
俺は、何をしているんだ、と思った。
理性では捨てろと命令が出ている。軍師としての俺は、これを証拠隠滅すべきだと叫んでいる。
なのに、指の一本一本が、自分の石でできた石の固さにしがみついている。
冬の入り口の冷たい風が、俺の身体を通り抜けていった。
――演算、完全停止。
彼らの美しく真っ白な物語に、俺の名前は、もう脚注としての場所すら残っていない。
それでも俺は、この石を捨てられなかった。
捨てられない理由を、もはや脳は検索しない。
これ以上の演算は、橘晴人という人間の「壊れた部分」を、決定的に確定させてしまうから。
俺は、震える手で石をポケットに戻し、誰も待っていない暗闇の中へ歩き出した。
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