第26話 聖域の焼却
二時間目の休み時間。
俺の視界を、一枚のスマートフォンの液晶が暴力的に遮った。
映し出されていたのは地図アプリの画面。目的地は、数日前にも足を運んだあの駅ビル、あのアクセサリーショップ。
「橘。もう一度、付き合ってくれないか」
佐野の声が、静まり返った俺の周囲の空気を震わせる。
俺は画面から目を逸らした。見なければよかったと、内臓がせり上がるような不快感が喉を突いた。
「陽向が、最近ずっと元気がないんだ。ピアスを失くしてから、あいつ……笑っていてもどこか遠くを見てる気がして。俺じゃ、どうしてもあいつの沈んだ気持ちを掬い上げてやれないんだよ」
「……」
「だから、もう一度、同じものを買ってやりたい。今度はちゃんと言葉を添えて渡して、失くした悲しさごと上書きしてやりたいんだ」
俺は机の下で、右手の指先を小さく動かした。
厚いコートのポケットの奥。そこには今も、彼女の体温を吸い、俺の手の中で何度も転がされたターコイズが眠っている。
「廃業したと、言ったはずだ」
「わかってる。……でも」
佐野が俺の目を、逃げ場を塞ぐような真剣さで射抜いた。
「陽向を本気で笑顔にできるのは、俺の不器用な慰めじゃない。お前の、あいつに対する圧倒的な理解力と知識だけなんだ。頼む、橘。親友として、力を貸してくれ」
――ザ……ザザッ。
頭の奥底で、回路が焼け焦げるような砂嵐が鳴り響いた。
拒絶すべきだ。もう関わるべきではない。
だが、この善意100%で構成された男の懇願を撥ね退けるだけの強度を、俺の心はもう持ち合わせていなかった。
「……わかった。一度だけだ。今日だけで、本当に終わりにしてくれ」
「ああ、助かる! 恩に着るよ、橘」
放課後のアクセサリーショップは、皮肉なほどあの日と同じ柔らかい暖色系の光に包まれていた。
整然と並ぶショーケース。丁寧に磨かれたガラスの床。
自動ドアが開き、店内に足を踏み入れた瞬間、カウンターの向こうで店員が穏やかな微笑みを向けた。
「いらっしゃいませ。……あら、以前もご来店されましたね」
橘は、幽霊のように静かに頷いた。
以前、自分の全知識を動員して、自分の好きな少女のために最善の色を選んだ場所。
あの時は、それが自分の心臓を差し出す儀式になるとは思ってもみなかった。
「ピアスを探しています」
佐野が店員に告げる。
「以前、橘……この友人に選んでもらったものと同じものをください。ターコイズの、細いフープのタイプです」
「畏まりました。……こちらでございますね」
店員が案内した棚は、かつて俺が指先で愛おしく触れたあの場所と、全く同じ座標にあった。
そこに、あの蒼い石が並んでいる。
新品だ。工場で研磨され、一度も誰の肌にも触れていない、純粋無垢な宝石。
俺のポケットの中にある「本物」と、形状も色も一分の狂いもない模造品。
だが、あちらには来歴がある。
俺が選び、彼女が耳につけ、そして「温めておいて」という身勝手で尊い呪いと共に俺に託された記憶。
目の前の棚にあるものは、その来歴をすべて抹消するための『歴史の修正プログラム』のように見えた。
「これだ。間違いない」
佐野が誇らしげに箱を手に取る。俺はそれを、ただ背後から見つめていた。
佐野がレジで財布を開き、対価を支払う。決済音が店内に響き、権利がまた移動した。
――ザザッ。
砂嵐が視界を侵食し、意識を掻き乱す。
これから佐野が彼女に渡すものは、彼女の悲しみを癒やす『愛の証』となり、俺が隠し持っているこの石は、誰にも知られてはいけない『卑しい盗品』へと成り下がるのだ。
「ありがとうございました」
店員の見送る声が、俺の葬儀を告げる鐘の音のように聞こえた。
駅ビルの、夕暮れがよく見えるカフェに入った。
佐野はテーブルの上に小さな紙袋を置き、慎重に口を開いた。
「渡す時にさ、何か……特別な言葉を添えたいんだ。今度は俺の考えすぎじゃなくて、ちゃんと彼女に届く言葉を」
「……」
「廃業したお前に頼むのは、本当に心苦しいんだが。橘、知恵を貸してくれないか」
俺はテーブルの上の木目を、何本目の溝か数えられるほど執拗に見つめ続けた。
「俺に頼り切るつもりはないんだ」
佐野の声には、以前のような危うい依存の響きは消えていた。
「お前の分析を聞いた上で、最後は俺が……俺自身の言葉として伝える。彼女に、本当の安心を感じてほしいんだ」
自立。自走。
かつての俺が、このメンテナンスの最終目標として設定したものが、今、目の前で完成しようとしている。
それは完璧な勝利であり、軍師としての存在意義が完全に消滅することを意味していた。
「……佐野は何を、神谷さんへ伝えたいんだ?」
「失くさせてしまった不甲斐なさと、それでもまた君を一番輝かせるのはこの色しかないんだ、ってこと」
俺は重い瞼を閉じた。
――ザザッ。
砂嵐。エラー。警告。
それらを力ずくで押し込み、俺は、かつて彼女が俺にピアスを渡したあの日の温度を思い出した。
『私が昨日から、ずっと冷たいって思い続けていた場所を、温めておいて』
その、俺だけが触れることを許された「本音」を。
俺は、最悪な形で裏切ることに決めた。
「……なくなってから、ずっと気になっていた」
俺の声は、自分でも戦慄するほど感情を失っていた。
「君の耳元に、いつもあるべきものが欠けていることに、耐えられなかった。……これがなければ、神谷陽向という作品は完成しない。そう伝えれば良い」
「陽向を、作品……。……なるほどな。彼女が一番綺麗でいることを、俺が誰よりも願っている。そういうことだよな」
佐野が真剣な手つきでメモを更新する。
「一言だけでいい。余計な感傷は混ぜるな。あいつ(神谷)には、一突きで核心を突く言葉の方が深く刺さる」
俺の肺の中から、一滴の愛も残さずにすべてが吸い出されていくような感覚だった。
ポケットの中のターコイズは、今日も俺の体温を盗んで、卑怯な熱を放っていた。
カフェを出ると、校門近くの大きな時計の下で神谷陽向が待っていた。
三人で合流するという約束。
神谷の瞳が、一瞬だけ俺に向けられた。
彼女の視線は俺の顔ではなく、俺の手、それから俺のポケットの位置を一撫でした。
――わかってる。
声なき声が届いた。
――君が、私のくれたピアスをポケットに隠しながら、別の新品を佐野くんに買わせ、それを渡すための台本を書いたことを。私は、知っているよ。
俺は、視線を無理やり引き剥がした。
佐野が「お待たせ!」と駆け寄る。
神谷の右耳には、まだあのターコイズが。そして左耳には、不格好な空洞。
その空洞を見るたびに、俺の中の『ひび』が、音を立てて広がっていく。
――演算不能。
俺は今。
俺だけの、唯一の『聖域』であったはずのあの夜の記憶を。
軍師としての責任感という灯油で、隈なく焼き払おうとしていた。
翌朝、教室のドアを開けた瞬間。
俺は、すべてが「無」に上書きされたことを知った。
陽向の両耳で、昨日までの欠落が嘘のように、蒼い石が二つ揃って揺れていた。
佐野が俺の言葉を使い、俺の勧めたピアスを彼女に贈り、彼女はそれを『正解』として受け入れたのだ。
俺は自分の席に座り、震える指をポケットの奥へと忍ばせた。
まだそこには、石があった。
けれどその重みはもう、俺に何かを教えてはくれなかった。
この石は、もう誰のものでも、誰の証拠でもなくなってしまったのだ。
どこにも、属さない。
持ち主すらいない、ただの忘れ物。
俺はそれを、朝の冷たい闇の中に、もう一度、深く沈め直した。
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