第25話 蒼い嘘の重さ
登校中、俺の右手の指先は、ずっとコートのポケットの奥にあった。
意識して触れているのではない。気づくと、中指の腹がその小さな硬い感触をなぞり、確認を繰り返しているのだ。
小さくて、冷たくて、滑らか。
ターコイズの石が、俺の皮膚を通して冷たい電流を流し続けていた。
昨夜、自室のテーブルの上に一度は置いた。けれど今朝、家を出る直前に、俺は吸い寄せられるようにそれを手に取り、ポケットに押し込んでしまった。
理由は演算しなかった。そんなものを論理の網にかけたら、自分がどれほど醜い泥棒であるかという正解(答え)が出てしまうからだ。
昨夜届いたメッセージの残響が、今も脳の片隅で拍動している。
『嫌だ』
彼女は、ピアスを「返す」という俺の、軍師としての唯一の良心を一蹴した。
つまり、彼女は意図的に、自分の身体の一部を俺の懐に置いていったのだ。それがどれほどの背徳を孕んだ「救済」であるのか。考えたくなくて、俺は指先の冷たさにだけ意識を集中させた。
一時間目が終わった直後。
静まりかえった教室に、一点の曇りもない響きが落ちた。
「あれ、陽向。ピアス、片方なくなってるぞ」
佐野の声だった。俺は鞄の中を整理していた手を止めた。
いや、止まってしまった。
「えっ……」
神谷の声。わずかな、一拍の、計算された溜め。
「……本当だ。どこかで落としちゃったみたい」
俺は、視線を参考書に向けたまま、石のように硬直した。
神谷陽向が、嘘をついた。
今の返答をする直前、彼女が俺の横顔を一瞬だけ射抜いたのを、俺の視界の端が捉えていた。
あの瞬間の彼女の目は、こう告げていた。
――この嘘の共犯者は、君だよ。
「えっ、マジで? あのピアス、陽向のお気に入りだっただろ」
佐野の声が、痛ましいほど心配そうに曇る。
「どこで落としたか、心当たりはあるか? 昨日、三人で公園行った時か。……放課後になったら探そうか」
「……ありがとう。でも別にもういいよ。石が小さいから、たぶん見つからないと思うし」
「そうかな。……でもあれ、お前に本当に似合ってたのに。なくしたのは、俺が近くにいながら気づいてあげられなかったからかな」
ポケットの中の指が、震えた。
佐野蓮が、自分を責めている。
何も間違っていない、純粋に彼女を愛しているだけの男が、自分の中に「欠陥」があったのではないかと、俺たちがついた嘘のせいで傷ついている。
叫びたかった。
――違う! ここにあるんだ! 俺のこのポケットの中に!
だが、俺の唇は凍りついたように動かない。言えば、二人の恋を俺自身の手で破壊することになる。俺が命を削って作り上げた「最高傑作」を、泥まみれにするわけにはいかない。
俺は、参考書を乱暴に鞄に押し込んだ。
ポケットの中の蒼い石が、俺を嘲笑うようにそこに留まっていた。
俺は泥棒だ。それどころか、最も親しい人間を騙し続ける詐欺師だ。
佐野が「想い入れのある大切な贈り物」を失ったと信じているその場所で、俺は犯行の証拠品を手のひらで転がしている。
被害者である神谷陽向は、確信犯として俺を呪いの輪の中に閉じ込めている。そして、もう一人の被害者である佐野は、何も知らないまま、俺に慈悲を乞うような目で接してくる。
――不協和音。
頭の奥底で、かつての不快なノイズが鳴り始めた。
心拍アラートが、小さく、歪んだ形で戻ってきた。
指先で、隠したターコイズに触れる瞬間だけ。
その痛みだけが、今の俺に残っている、俺という「人間」が生きている証拠だった。
昼休み。
「橘、ちょっといいか」
佐野が教室の外へ俺を呼んだ。壁に背を預けた俺の前に立つ彼は、本気で落ち込んでいた。
「陽向のピアスの件なんだけど。お前、あの店がどこか覚えてるよな? 駅ビルの……あそこだよな。同じの、また買ってやりたいんだ」
肺から酸素が漏れ出すような感覚。俺は答えられなかった。
「それより先にさ、放課後、もう一度一緒に探してほしいんだ。昨日の通学路と公園のベンチ。お前も一緒に来てくれないか。……どこに行ったか一番把握してるの、軍師様だろ?」
断れ。
頭のなかの残機が叫んでいる。
用事がある。体調が悪い。コンサルタントはもう廃業した。
「……頼むよ、橘。親友だろ」
佐野の声には、絶対的な信頼が宿っていた。
この男は、橘晴人が卑しい掠奪者である可能性を一分たりとも疑っていない。俺のことを「高潔な親友」だと信じ込んで、俺の肩を強く握っている。
「……わかった。放課後、付き合うよ」
演算を放棄して、口が勝手に「承諾」という破滅への鍵を差し出した。
放課後。冬の足音を孕んだ夕風が吹く公園。
俺たちは三人で、這いつくばるようにして「存在しないはずのピアス」を探し続けた。
俺は、右手をポケットに入れたまま歩いた。
植え込みの隙間。石畳の溝。ベンチの下。
落ちているはずがないものを探すふりをして、俺はただ地面を見続けた。自分の影が、汚れた泥のように地面に這っているのを眺めていた。
「こっちも見てくれ、橘!」
佐野の声に呼ばれ、噴水の周りを確認する。
ない。
ない。
当然だ。
不意に、神谷が俺の隣に歩み寄ってきた。
佐野の背中が遠ざかった一瞬、彼女は地を這うような低い声で、けれど鮮明にささやいた。
「……ごめんね、橘くん」
「……」
「こんなに汚いことに、巻き込んで」
「……今すぐ、返させてくれ。限界だ」
「嫌だよ。……君が持ってて。私が昨日から、ずっと冷たいって思い続けていた場所を、温めておいて」
俺は、顔を上げることができなかった。
「理屈が……通らない」
「通らなくていい。これは、軍師さんの仕事じゃないから」
佐野が振り返った。
「陽向、こっちにはなさそうだ。すまない」
「そっか」
神谷が、即座に普通の声を作った。
さっきまで俺を絶望の淵に追いやっていたのと同じ口で、彼女は「彼女」として佐野に微笑みかけた。
俺は、彼女の右耳に唯一残ったターコイズを見つめた。
冬の弱々しい夕暮れの中で、それは糾弾するように青く、鋭く輝いていた。
もう片方は、俺のポケットの中に。
世界でたった二人しか知らない、秘密という名の腐食。
「見つからなかったな。……ごめんな、陽向」
佐野が神谷の肩を優しく抱いた。
「また同じの、必ず見つけてくるよ。橘に聞けばどこのメーカーかも分かるしな」
神谷が「ありがとう、蓮くん」と言って、幸せそうに目を細めた。
俺は、その笑顔を見てしまった。
見ないように目を逸らしたつもりだったのに、網膜に、その「完璧な恋」の姿が焼き付いて離れなかった。
ポケットの中の石は、いつの間にか体温を帯びていた。
ぬるくて、気持ちが悪くて。
この石の持つ「愛」という名の質感が、今の俺にはたまらなく残酷だった。
解札口で別れ、俺は一人きりで各駅停車の電車に乗った。
ポケットに手は入れなかった。入れなくても、そこにある「重さ」だけは逃れようがなく俺の重心を奪っていた。
車窓の外には、暗く澱んだ夜の景色。
何もかもが灰色に塗りつぶされた、色のない世界。
――演算、完全に再起不能。
俺たちが積み上げてきたこの幸福は今。
ポケットの中に隠された、たった一つの蒼い嘘によって。
見えない場所から、静かに腐り始めていた。
翌朝、重い瞼をこじ開けて教室に入ると、佐野が既に自分の席にいた。
彼は真剣な眼差しで、スマートフォンの画面を何度もスワイプしていた。
すれ違いざまに画面が見えた。
かつて俺が、陽向のために一晩かけて選んだアクセサリーショップのページ。
彼は、新しい『ターコイズのピアス』を検索していた。
俺は自分の席に座り、震える手で鞄を置いた。
ポケットの中の蒼い石は、朝の冷気に晒され、また鋭い氷のように冷え切っていた。
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