第24話 真っ白なキャンバスに、泥を
待ち合わせ場所である駅前の噴水広場は、吐き出す霧のような水しぶきと、冬を目前にした冷たい風が混ざり合っていた。
橘晴人は、予定の五分前にその場所に立った。
なぜここに来てしまったのか。電車に揺られている間も、改札を抜ける瞬間も、ずっとその問いが頭の中を空転していたが、答えはついに見つからなかった。
「お前も来いよ、ちゃんとお礼をさせてくれ」
そう言って笑った佐野の誘いを、断る術を俺は持っていなかった。何より、その横で「拒絶は許さない」とでも言うような、あの痛切な瞳で俺を射抜いていた彼女から逃げ出すことができなかったのだ。
ほどなくして、人混みの向こうから二人が現れた。
並んで歩くその姿は、冬の澄んだ光の中で、あまりに完璧な「一対」だった。
佐野が親しげに手を上げ、神谷は俺の姿を見つけると、一度だけ俺の瞳の奥を確認するように見つめてから、すぐに「彼女」の柔らかな笑みを浮かべて佐野の隣に並び直した。
「待たせたか?」
「……いや。今来たところだよ」
「今日は遠慮するなよ。行きたい店も全部決めてあるから、橘は俺たちのエスコートを楽しんでくれればいい」
佐野の言葉は、100パーセントの善意で構成されていた。
俺は噴水の底に沈む灰色の石を見つめ、自分の呼吸が不自然に浅くなっているのを自覚した。
三人で公園の並木道を歩く。
枯れかけた銀杏が地面に黄色い絨毯を敷き詰めていたが、俺の目にはそれが色褪せた、汚れた紙屑の山にしか見えなかった。
佐野が冗談を言い、神谷が弾んだ声で笑う。
俺は、意識的に彼らの一歩後ろを歩いた。身体が自然にそう命じていた。この美しい景色を完成させるためには、俺という不純物は、三人並びの端っこにすら居るべきではない。
「陽向、鞄貸して。結構重いだろ?」
佐野が流れるような動作で神谷の肩掛け鞄を受け取った。
その瞬間、俺の脳内アーカイブが、許可なく一つのデータを引き出した。
――Case_48 準備フェーズ。神谷陽向が重い荷物を持った際、あえて無言で引き取る動作が、対象に最も『大切にされている』という実感を与える……。
俺は視線を無理やり空へ逃がした。
俺の設計した「技術」は、もう俺のものではなかった。それは佐野蓮という男の血肉となり、俺の手を離れて呼吸し、俺が愛した少女を最高に幸せにしている。
演算の必要は、どこにもなかった。目の前の男が、俺の設計図以上の解像度で彼女を愛している。
これ以上、何を望めばいいというんだ。
「橘、飲み物何がいい? ここ、結構種類あるぞ」
自販機の前に立った佐野が、明るい声で振り返った。
「……ありがとう。なんでもいいよ」
「ははっ、またそれかよ。温かいのでいいか?」
硬貨が落ちる乾いた音。重々しく缶が吐き出される音。
佐野から手渡されたアルミの缶は、今の俺には致死量の熱を持っているように感じられた。
自分の心臓を切り売りして、その代金で買われた施しを受け取っているような――そんな卑屈な重さが、右手に居座り続けた。
並木道のベンチに、三人で腰を下ろした。
佐野の隣に神谷。その隣に、一人分の空白を開けて俺。
周囲の喧騒は霧の向こうのように遠のき、俺の聴覚は二人の声だけを異常な感度で拾い上げていた。佐野が語る来年の旅行計画、神谷が楽しそうに応じる「未来」の響き。
俺は熱を失いかけた缶コーヒーを、泥を飲むような心地で一口啜った。
「橘くん」
突然、神谷の声が鼓膜を震わせた。
佐野がチケットを買うために席を立ち、俺たちが二人きりになった一瞬のことだった。
「ねえ。……今の私たちは、幸せそうに見える?」
橘は、缶を握りしめたまま答えなかった。
「橘くん、答えて」
「……ああ。……幸せそうに見えるよ。完璧な正解だと思うよ」
「でも、それが橘くんには苦しいんでしょ?」
心拍アラートは鳴らない。代わりに、肺が焼けつくような痛みを訴えた。
神谷は俺の方を向き、逃げ場を塞ぐように言葉を重ねた。
「私ね、佐野くんに優しくされるたびに、これが橘くんの作った『マニュアル』の上に立ってるんだって、思い出すの。君が自分を削って差し出した場所で、私が笑ってる。……それが、時々、たまらなく怖くなるんだよ」
「……やめてくれ」
「佐野くんのことは好きだよ。でも、私の半分は君が作ったものでできてる。だから――」
「やめろと言っているだろ……!」
感情を殺したのではない。叫ぶためのエネルギーさえ枯渇していた。
掠れた俺の声に応えるように、彼女は自らの左耳に手を伸ばした。
――蒼いピアス。
俺が選び、俺だけがその「本当の理由」を知っている結晶を、彼女は無造作に外し、俺の空いた手のひらに押し付けた。
「これ、君が持っていて。……これは、橘くんがここにいた証拠だから」
小さく、冷たい石の感触が、俺の皮膚を通して神経の奥深くまで浸食してきた。
「こんなの受け取れないよ。……佐野が戻ってくる。これを返せ」
「嫌。……橘くんが自分の存在を消していいなんて、私は一度も言ってない!」
足音が近づいてくる。
神谷は電光石火の速さで前を向き、いつもの落ち着いた表情を張り付けた。
俺は、反射的にピアスを制服のポケットの奥へ隠した。
隠してしまった。
その瞬間、俺と彼女は、佐野に対して決定的な「秘密」を共有してしまったのだ。
夕暮れが、世界を不気味なほどの濃い黄色と長い影に塗り替えていた。
駅の改札前で、佐野が小さな土産袋を俺に差し出した。
「橘、今日はお前に会えてよかった。……お前、途中で少しだけ笑っただろ。それを見て安心したんだ」
笑った? 俺が?
鏡も見ていないが、自分自身の心が氷河期のような冷たさに包まれていたことは自覚している。だが佐野は、俺の顔に「ありもしない笑顔」を見ようとした。
どこまでも善人で、どこまでも、人を救おうとする光。
「……ああ。楽しかったよ」
俺は最大限の偽装を吐き出し、二人の背中を見送った。
二人が改札の向こうへ消え、一対の影が一つに溶け合うまで、俺は一歩も動けなかった。
ポケットの中には、まだ、あの冷たい蒼い石の感触が残っている。
――演算、終了。
彼らの白く眩しいキャンバスに、俺が混ざることは、ただの泥をぶちまける汚濁でしかない。
家に帰り、誰にも出迎えられない自室で、俺はテーブルの上にあのピアスを置いた。
蛍光灯の薄い光を反射するターコイズ。
これは、あの日俺が図書館の帰り道に彼女から「託された」記憶そのものだ。
彼女の耳たぶの温度。俺の手のひらの汗。そして、あいつ(佐野)には一生教えないと決めた、俺だけの彼女の秘密。
俺は、石を睨みつけるようにして横たわった。
天井は、どこまでも白く、冷たい。
翌朝、俺は限界まで張り詰めた意識のまま、彼女に短いメッセージを送った。
『返す。あいつの隣で、それをつけていろ。それが軍師の指示だ』
すぐに既読がついた。
一分、五分、十分。返信はない。
登校するために靴を履こうとした瞬間、一言だけ、スマホが震えた。
『嫌だ』
理不尽なまでの拒絶。
俺が、俺でいようとすることさえ許さない、神谷陽向の「救済」という名の暴力。
俺は、震える手で玄関のドアノブを回した。
ポケットの中には、返せなかった「証拠」が、重い重りとなって潜んでいた。
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