第23話 生きたまま見届ける葬式
休み時間の教室は、俺の周りだけが、ぽっかりと不自然な空洞になっていた。
ほんの数週間前まで、ここは相談者が列を作り、欲望や不安が渦巻く学園の「中枢」だったはずだ。だが今、俺の机を掠めて通り過ぎる連中の足取りに、躊躇いはない。
二つ後ろの席の田中が通り過ぎる際、一瞬だけ視線が合った。かつて俺を「神」のように崇め、頼り切っていたその瞳には、今はただの「腫れ物に触れるような拒絶」が宿っていた。彼はすぐに目を逸らし、別の友人と笑いながら廊下へと消えていった。
俺は机の上に参考書を広げ、活字の海を眺めていた。
眺めているだけで、意味は一文字も入ってこない。これまでは手が空けば、脳は自動的に「データの分析」という逃げ道を探していた。あの子の脈拍、あの男の視線の誘導、そして佐野と陽向の最適解。
だが今は、解析すべき対象がない。解析するための意志が、腐り落ちた果実のように地面へ落ちてしまった。
目の前には、白く、底のない虚無だけが、木目の机を侵食するように広がっていた。
「橘!」
背後から放たれたその声は、耳を塞ぎたくなるほどに明るかった。
振り返らなくてもわかる。佐野蓮だ。
「聞いてくれ。昨日、自分なりに考えて動いてみたんだ」
佐野が俺の机の横に立った。
窓から差し込む西日が、彼の短い髪を黄金色に縁取り、一点の曇りもない笑顔を照らし出している。暴力的なまでの輝き。俺はその光を直視できず、わずかに目を細めた。
「陽向を驚かせたくてさ。お前に相談しないで、俺の頭だけで考えた。……橘に教わった『彼女の呼吸を読む』ってやつ、ずっと意識してたんだ」
「……そうか」
「昨日の帰り道、陽向がなんとなく疲れてる気がしたんだ。何も聞かずに、一番静かな遠回りの道を提案してみた。そうしたらさ、あいつ……。言葉にしなくても、今の自分を分かってもらえた気がするって、泣きそうな顔で笑ってくれたんだ」
佐野が照れくさそうに頭をかいた。
俺の脳が、反射的に状況をコード化しようとして――自ら停止した。
(――状況の察知成功。言語以前の非言語コミュニケーションの成立。佐野蓮の感受性が俺の理論値を越えた「真実の領域」に達したと判定……)
やめろ。もう、俺にそれは必要ない。
「……正解だよ」
喉の奥から、乾いた砂を吐き出すような声が出た。
「俺の助言より、お前の本音の方が、彼女には絶対届く。……もう、俺が差し出せるものは何もないよ」
「そう言ってくれると思ってたよ。ありがとな、橘。お前に教わったことが、やっと俺自身の体温になった気がするんだ」
佐野が俺の肩をポンと叩く。温かかった。その熱が、鋭い針のように俺の防壁を貫いていく。
あいつは今日、100パーセントの善意で俺を訪ね、100パーセントの誠実さで俺にトドメを刺した。
「どうした、橘。……やっぱりまだ顔色が悪いぞ。無理すんなって」
佐野が心配そうに顔を覗き込んでくる。その無償の友情を前にして、俺の喉は焼けるように渇いた。
俺がお前の彼女を今も欲しがっている欠陥品だという事実を知らないまま、あいつは俺に感謝し続ける。
「……悪い。少し、一人にさせてくれないか?」
「……ああ、わかった。神谷を呼んできて、一緒に飯でも食おうと思ったけど。また後でな」
佐野が教室を出ていく。俺は机の上に残された静寂に、顔を埋めそうになった。
「橘くん」
廊下から聞こえた声は、佐野のそれよりもずっと重く、切実だった。
神谷陽向が、教室の入り口に立ち、俺を呼んでいた。
俺は促されるままに立ち上がり、廊下の喧騒から少し離れた窓辺へ向かった。
神谷が、俺をじっと見つめていた。その瞳は、もはや「依頼者」のそれではない。二重に層を成した、複雑な色彩を帯びていた。
一層目は、佐野に向ける「愛されている彼女」としての光。
そして二層目は――俺にしか見せない、共犯者としての罪悪感。
「佐野くん、最近すごく頑張ってくれてるの。私のこと、私以上に分かろうとしてくれて……。昨日も、言葉にしなくても助けてくれた」
「……ああ。それ聞いたよ。成功、おめでとう」
「……それ、橘くんが彼を変えてくれたからだよね。橘くんが、自分を削って、彼を育ててくれたからだよね」
神谷が一歩、踏み込む。金木犀の香りが、俺の呼吸を乱す。
「私たち、本当に幸せだよ。……橘くんのおかげで、今があるんだよ」
彼女は俺を救おうとしていた。自分たちが幸せだと言うことで、俺のしてきたことは無駄ではなかったと、証明してあげようとしている。
だがそれは、同時に俺から「未練を抱く権利」を剥ぎ取る拷問でもあった。
「……それはよかった。嬉しいよ」
俺は感情を押し殺し、鏡のような平坦な声で答えた。
「それが、プロジェクトの正しい収束だ。俺は、満足している」
「橘くん……。君は本当に――」
「佐野が戻ってくる。戻ってくる前に、あいつに見せる笑顔を作っておくと良いよ」
神谷は、何かを言いかけて、震える唇を閉ざした。
遠くから佐野の足音が聞こえてくると、彼女は魔法が解けたかのように表情を塗り替えた。
一瞬で、俺の知らない「彼女の顔」に戻る。
俺は、その見事な変心を見守ることしかできなかった。
放課後。
俺は、人影のなくなった教室の窓から、校門を見下ろしていた。
夕闇のグラデーションに染まる校門。そこを連れ立って出ていく、二つの影があった。
佐野が、神谷の重そうな鞄を持っている。
神谷が、時折、佐野の腕を軽く小突いて笑う。
二人は、当たり前のように寄り添い、歩幅を合わせ、誰の目にも疑いようのない「一対」として、曲がり角の向こうに消えていった。
俺は、窓から離れなかった。もう何も見えないはずの、網膜に焼きついたその残像を見続けていた。
心拍アラートを、意識の底で検索する。
――応答なし。
不快な音もしない。警告も鳴らない。
完璧な静寂。
俺はこの虚脱状態を、どう定義すべきかと考えた。
――ああ、そうだ。
これは、葬式なんだ。
俺は今、生きたまま、自分という機能の死を見届けているのだ。
参列者は誰もいない。供える花も、手向ける言葉もない。
ただ、彼女に寄り添い、彼女のために言葉を紡ぎ続けた「軍師」という俺が、役目を終えて静かに息を引き取った。
その遺体を、透明になった俺自身が、冷たい風の中で眺めている。
鞄を肩にかけ、教室の電気を消す。
廊下の冷えきった空気が、葬送の儀のように俺の頬を撫でていく。
昇降口を出て、誰もいない通学路を、俺は一歩一歩、自分の重さを確かめるように歩いた。
演算、終了。
いや、そもそも、演算すべき対象なんて、最初から一文字も存在していなかったのだ。
あいつらは自立し、俺はただの背景に戻る。それが、完璧に設計された世界の、唯一の完成図。
翌朝。
自分の机に鞄を置いたとき、見慣れない一年生が入り口から恐る恐る声をかけてきた。
「あの、橘先輩……ですよね。その……恋愛相談って、まだ受けていただけますか」
俺は、その震える少年の瞳を、一秒だけ見つめた。
かつての俺なら、その瞳の揺れから彼の不安の正体を暴き、数分後には完璧な攻略本を授けていただろう。
だが今の俺に、差し出せる言葉は、もうどこにも落ちていなかった。
「……申し訳ない。他へ当たってほしい。廃業したんだ」
少年が、きょとんとして去っていく。
静まり返った教室で、俺は再び、何の重みも持たなくなった参考書を開いた。
世界には、もう何も残っていない。
ただの背景になった俺は、今日も灰色の光の中で、ゆっくりと消え去るのを待つだけだ。
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