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【完結】君の恋を最高傑作にするために、僕は自分の恋を殺すことにした〜成功率100%の恋愛軍師、最後に自分の恋を忘れる〜  作者: リディア


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第22話 幽霊の歩き方

 登校中のアスファルトを踏みしめる音で、俺は自分の頭の中が異常に静かであることに気づいた。


 いつもなら、この時間は戦場に向かう前の軍議の時間だった。昨日の放課後に得られた佐野と神谷の会話データを精査し、今日投下すべき「一言」を、十通り以上のシミュレーションの中から選んでいた。

 

 今は、何も浮かばない。

 浮かばないのではない。思考というエンジンの点火プラグを、自らの手で引き抜いてしまったのだ。


 地図もコンパスもなく、ただ慣性だけで校門をくぐり、昇降口で靴を替える。自分の足音だけが、どこか遠い世界で鳴っているような、現実から少し離れた感覚があった。

 今の俺は、誰の恋も守っていない。自分を守るための数式すら捨ててしまった。

 

 ――剥き出しのまま、俺は今日を始めてしまった。



 教室に入り、窓際の自分の席へ向かう。


 始業までのわずかな時間、周囲には週末の出来事や他愛のない噂話が氾濫していた。俺はその喧騒の「外側」にある透明な壁の中に座り、灰色の空を眺めていた。

 

「橘くん、体調……よくなったの?」


 二つ後ろの席の田中が、伺い立てるような、不自然に慎重な声で話しかけてきた。


「……ああ。問題ないよ。ありがとう」

「よかった。あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」


 田中が身を乗り出し、声を一段落とす。期待に満ちた、卑しいほど熱を帯びた「依存」の瞳。


「好きな子がいてさ。同じ委員会なんだけど、お前ならわかるかなと思って。どうやって連絡先――」


 脳が反射的に、田中の社交性レベルと対象者の交友関係をスキャニングしようとした。

 だが、瞬時に、昨夜自分がログに刻んだ死刑宣告が、視界の裏に焼き付いた。

 

 『停止』。

 

 俺の演算機能が、激しく火花を散らしてフリーズする。もう俺は、あの冷徹で有能な「縁切り師」のふりすらできない。


「……悪い」


 俺は、田中を直視できずに吐き捨てた。


「もう、そういうのは辞めたんだ」

「……え? あ、忙しいってこと? いつなら空く?」

「ごめん。……廃業したんだ。もう、何も答えられない」

「え……でも、お前と言えば恋愛相談だろ? 俺、期待してたのに……」


 田中が、あからさまに「損をした」と言わんばかりの顔をして、背を向けて自分の席へ戻っていった。

 しばらくすると、周囲から薄気味悪い囁き声が漏れ聞こえてくる。


「橘が相談を断った?」

「引退だって」

「ただの暗い奴に戻っただけか」

 

 これまで俺に向けられていた視線が、期待から「失望」へ、そして最後には「無視」へと変容していくのを感じた。

 それでいい。俺という人間は、道具でなければ存在する価値なんてないのだ。

 


 昼休み。


 俺は購買へ行くのをやめ、空の机を見つめていた。

 空腹はあったが、その不快な感覚を解消するために「食事を摂る」という選択肢を選ぶ理由が見当たらない。

 

「橘!」


 教室のドアが開いた瞬間、そこだけが黄金色の光に照らされたかのように、佐野蓮が現れた。そのすぐ隣には、神谷陽向。

 二人の恋人たちは、呼吸を合わせるようにして俺の席までやってきた。


「今日は作戦会議ナシ! 橘の快気祝いとして、飯食おうぜ。断るなよ?」


 佐野が、悪意の欠片もない笑顔で俺を誘う。


「……俺は――」

「私も、一緒に食べたい」


 神谷が静かに言った。

 彼女の瞳には、かつてのように「恋のアドバイスを乞う少女」の顔はなかった。

 もっと深く、痛切に。俺の喉元に刺さったままの「ナイフの柄」を見つめるような、逃げ場のない目。

 彼女は、俺というシステムの故障を、既に知っているのだ。


「……わかった。一緒に食べよう」


 三人で中庭のベンチに座る。十一月の冷たい風が、二人の親密な体温と対比するように、俺の頬を撫でていく。

 佐野が最近買ったスニーカーの話をし、神谷がそれに微笑みながら相槌を打つ。

 

 かつて俺が台本を渡し、メンテナンスを施していた時間は、もう完全に「彼らの日常」へと昇華されていた。俺のアドバイスなしでも、彼らは、完璧に幸せな二人だった。

 

 会話の入り口が見当たらない。俺が差し出せる言葉はもう一文字もない。

 俺はただ、購買の袋の中で冷えきった、パサついたパンを義務的に噛み砕くだけだ。

 

「橘くん」


 神谷が言った。俺は顔を上げた。


「全然、食べてないよ。食欲ないの?」

「……そんなことはないよ。ただの代謝の問題だと思う。エネルギーは足りているはず」

「嘘つき。……昨日から何も食べてないでしょ」

 

 彼女は自分の弁当箱を膝の上で広げ、蓋に一切れの卵焼きを載せて俺に差し出した。


「食べなよ」

「……いらない。佐野に――」

「食べな」

 佐野が屈託なく笑う。「陽向が作った、世界で一番甘いやつだぞ。お前が食わないと、俺の立場がない」

 

 俺は、その黄金色の断片を見つめた。

 あの日、暗闇の教室で彼女が俺の両手を包んだ熱。

 『私がそこを埋めてあげる』。

 その言葉の残響が、耳の奥で高周波のように鳴り響いた。

 俺は震える箸を使い、それを口に運んだ。

 

 ――甘い。

 

 圧倒的な質量を持った甘み。

 今まで成分だけで処理していた世界に、突然、強烈な「味」が暴力のように入り込んできた。

 喉が詰まり、激しい咳払いで誤魔化した。


「……う、美味いな」


 掠れた声でそう言った瞬間、視界が歪んだ。

 

 神谷は何も言わなかった。

 ただ、じっと俺を見守っていた。

 その目は「私の恋を導いて」ではなく、「君の傷を、私に見せて」と叫んでいるように見えて。俺はたまらず、彼女から目を逸らした。

 


 放課後。

 気づけば、俺は無人の図書室にいた。

 棚の間をあてもなく徘徊し、本の背表紙を指でなぞる。

 彼女と初めて「挨拶の練習」をした机。ザイアンス効果の解説を殴り書きした、傷だらけのノート。

 

 そのすべてに、俺という存在が彼女に関わるための「許可」が刻まれていた。

 だが今、それらはすべて、ぬしを失った遺物のように冷たく沈黙している。

 

 心拍アラートを、無意識に脳内で検索した。

 ……応答なし。

 

 エラーすら出ない、真実の沈黙。


 俺は、図書室の席に座ることさえ許されない幽霊のような気分だった。

 図書室を出て、夕闇に染まりゆく校舎の廊下を歩く。

 昇降口で靴を履き替え、学校の門を出る。

 

 冷えきった冬の入り口の風が、不格好な俺の影をアスファルトに長く引き延ばした。

 校舎の窓を、一度だけ見上げた。

 オレンジ色の明かり。そこには、誰かに必要とされ、誰かの物語の一部として生きている人々がいた。

 かつての俺も、そこにいた。……軍師、という歪な仮面をつけて。

 

 俺は前を向いた。

 闇に向かって一歩、踏み出す。

 

 ――ああ、そうだ。

 

 俺は、誰かを鮮やかにするための「理由(台本)」がないと。

 自分の肺に酸素を取り込む方法すら、忘れてしまったみたいだ。

 

 翌朝。


 俺の机を通り過ぎる田中の足音に、迷いはなかった。

 何かを言いかける予兆すらなく、俺はただの「景色」として、静かに風景と同化した。

 

 橘晴人。かつての学園の英雄は、今。

 誰の記憶にも残らない、ただの幽霊へと成り果てようとしていた。

ご覧いただきありがとうございます。

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毎日19時に更新予定です。

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