第21話 幸福という名の借金、あるいは返せない「ありがとう」
白かった。
視界を埋め尽くす天井が、暴力的なまでに白い。
蛍光灯の刺すような光。漂白されたカーテン。そして、鼻腔を突くツンとした消毒液の匂い。
橘晴人は、自分の意識がゆっくりと泥の底から浮上してくるのを感じていた。
ここが保健室だと認識するまでに、かなりの時間を要した。
頭の中が、薄気味悪いほどに静かだった。
いつも脳内を埋め尽くしていたはずの、複雑な恋愛工学の数式。成功確率のパーセンテージ。神谷の好みのデータ、佐野への台本、Case_48のログファイル。
そのすべてが、一滴も残らず洗い流されていた。
ただ一つ。
――陽向。
昨夜、暗闇の中で叫んだその名前だけが、消えない耳鳴りのように鼓膜の奥で鳴り続けていた。
心拍アラートを確認しようとした。
――ない。
あの不快な電子音が、どこからも聞こえない。
ビー、という警告も。
キーン、という断末魔も。
計測すべき感情が死に絶えたのか。それとも、身体そのものが「自分を観測すること」を放棄したのか。
答えを出そうとした回路は、焼き付いたように動かなかった。
カーテンの向こう側から、焦燥を含んだ足音が近づいてくる。
シャッと音を立てて布が開かれた。
「橘! 気がついたか!」
佐野蓮だった。
端正な顔を歪め、肩を上下させている。俺のために、どれほど必死に走り回ったのかが一目でわかった。その「親友」としての献身が、今の俺には泥水を飲まされるような不快感だった。
「意識はあるか? 気分はどうだ。どこか痛むか?」
「……ありがとう。問題、ない」
「あるに決まってるだろ。廊下でいきなり倒れたんだぞ」
佐野はベッド脇の丸椅子に座り、自分のことのように顔を伏せた。
「ごめん、橘。……全部、俺のせいだ。陽向との相談に、お前を連れ回しすぎた。お前がボロボロになってるのを知りながら、俺は……自分の幸せを優先して、甘えてたんだ」
橘は天井の白さを睨みつけた。
違う。お前のせいじゃない。
お前の彼女を愛しているという醜い裏切りを隠すために、俺が勝手に自分を削っただけなんだ。
「……お前のせいじゃない。俺の、自己管理不足だ」
「体調不良で済ませるなよ。……陽向も、あんなに顔を青くして俺を呼びに来たんだぞ」
陽向が、佐野を呼んだ。
俺が壊れたその瞬間。彼女は自分の力で俺を救おうとしたのではなく、真っ先に「彼氏」の助けを求めた。
それは演算上、100点満点の正解だ。恋人のリソースを最大活用するのは交際維持における鉄則。
なのに。
喉の奥が、熱い鉄を押し当てられたように焼けた。
「橘を幸せにするために、俺にできることはないか」
佐野が、真っ直ぐに俺の瞳を覗き込んできた。
「なんでも言ってくれ。お前は俺の恩人なんだ。お前が笑えないのに、俺だけが幸せでいるなんて……そんなの耐えられない」
救いようがない、と思った。
俺がお前の恋をメンテナンスし続けている本当の理由を知らないまま、この男は俺の地獄に「善意」というガソリンを注ぎ込み続けている。
「……悪い。先生を、呼んできてくれないか。……一人で考えたい」
「……ああ。分かった。すぐ戻るからな」
足音が遠ざかり、扉が閉まる。
部屋が、また静かな白に塗りつぶされた。
不意に、カーテンの端が、音もなく揺れた。
「橘くん」
呼ばれた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
神谷陽向が、佐野と入れ替わるようにそこにいた。いつから潜んでいたのか、あるいはずっと外にいたのか。
彼女はベッドの横に、ゆっくりと膝をついた。
佐野よりもさらに近い。俺の、すぐ隣に。
「……離れた方が良い。佐野が戻ってくる」
「すぐには戻らないよ。廊下、遠いもん」
彼女は、俺の顔をじっと見つめていた。
その瞳には、軍師を見上げる尊敬も、親友としての甘えもなかった。
「橘くん。……もう、私のために、何かを考えなくていいよ」
橘の呼吸が、音を立てて止まった。
「メンテナンスも。台本も。アドバイスも。……全部、もういい。やめよう」
神谷の声は、耳を塞ぎたくなるほど慈愛に満ちていた。
だからこそ。それは、これまでのどんな毒よりも深く、俺の胸を貫いた。
神谷陽向の恋を支えるための「機械」であること。
それだけが、俺に残された唯一の生存許可証だった。
自分を背景に追いやり、感情を殺して尽くし続ける。その苦行こそが、俺にとっての、誰にも見せない「告白」だったのだ。
それを今、彼女は「優しさ」という名のナイフで取り上げようとしていた。
「……ごめん。嫌だ」
喉の奥から、汚い音が漏れた。
「え……?」
「嫌だ。……それは、絶対に、嫌だ」
橘は初めて、彼女と視線を合わせた。
視界が歪む。
「俺が……君の恋を支えていないと、俺の中には……何もないんだ。何ひとつ、残らないんだ」
震える指先が、シーツを掴む。
「君の隣にいるための、唯一の口実(理由)なんだ。それを奪われたら、俺はここに……世界のどこにも、居場所がなくなる」
神谷の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
彼女は唇を噛み、俺のその「本音という名の惨めさ」を受け止めていた。
「……すまん。忘れてくれ。今の言葉は……データ上のエラーだ」
廊下から、佐野の足音が聞こえてくる。
神谷は素早く立ち上がり、表情を殺して俺から距離を置いた。
「先生、呼んできたぞ。……って、陽向。一人にするのが心配だったのか。ありがとな」
佐野が彼女の肩に手を置く。
二人は今、世界で最も幸せで、最も俺の理解者として、俺を「外側」から眺めている。
俺が削って作り上げた、最高に美しくて、最高に残酷な、一つの絵。
俺は、意識的に目を閉じた。
――ああ、まだ終わらせてくれないのか。
この世界は。
この痛みは、いつまで僕を、一人きりで生かし続けるつもりなんだ。
その夜。
自室に戻った橘は、机に向かった。
机の上のノート。Case_48 メンテナンスログ。
ペンを持とうとしたが、指先は石のように固まっていた。
『どうすれば彼女が喜ぶか』
その数式が、もう一行も、頭に浮かんではこなかった。
ガリ、という不快な音が響く。
手が勝手に動いて、たった一行だけを、死人のような文字で書き殴った。
Case_48_Maintenance.log ―― 停止。
ペンを床に落とす。
そこにはもう、彼女のための台本はなかった。
代わりにあったのは。
行き場を失ったまま、腐り果てようとしている――橘晴人という、一人の男の未練だけだった。
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