第3話 観客席には、血の匂いがする
朝の昇降口は、耳障りだ。
笑い声。上履きのこすれる音。誰かのイヤホンから漏れる音楽。
俺はその喧騒の手前、階段の踊り場から、二階の廊下を見下ろしていた。
時刻、7:52。
作戦開始まで、あと三分。
佐野蓮が毎朝この廊下を通る時間は、7:54から7:56の間だ。
昨日一日かけて確認した。
同じクラスの人間を三日間ストーキングするような行為を、俺は「作戦の精度を上げるため」と定義することで、すべての感情から切り離している。
その定義が少し苦しくなってきたのは、いつ頃からだろう。
踊り場の端、壁に背をつける。
遠く、昇降口のほうから神谷陽向が入ってきた。
制服の第一ボタンをちゃんと留めて、少し乱れた前髪。
今日は髪を、ハーフアップにしている。
……昨日とは違う。
「髪型を変えてきたんだ……」
声に出したのは、ミスだった。
それだけで胃のあたりが、ぎゅっと締まる。
神谷陽向は本気だ。
——当たり前だろ。本気で好きな相手がいるんだから。
俺は爪を、手のひらに押しつけた。
三日月形の痕が、皮膚に刻まれる。
痛みで、余計なことを考える回路を、強制終了する。
7:54。
廊下の向こうから、佐野蓮が歩いてきた。
背が高い。
それだけで、人混みの中でも一つ抜けて見える。
制服の着こなしが自然で、気取ってない。
友人に声をかけられると、ちゃんと立ち止まって話を聞く。
けど、ダラダラ引き留めない。
あいつは「流れ」が綺麗なんだよな。
人との距離の取り方が、生まれつき上手い。
計算じゃない。
ただ、そういう奴なんだ。
俺はノートの端に、無意識にペンを走らせていた。
佐野:対人スキル、天然型。模倣困難。
俺が神谷に渡せるのは、剥ぎ取られたばかりの汚い「技術」だけだ。
でも佐野が持っているのは、黄金のような「存在そのもの」だ。
そんな男に恋をした神谷の目は、残酷なほど正しい。
……まあ。
そうでなければ、神谷陽向が好きになるはずがない。
あいつに恋をした神谷の目は、正確だ。
その事実が、なぜかひどく——
「橘くん?」
振り向くと、三メートル先に神谷が立っていた。
「なんで階段に隠れてるの」
隠れてはいない。
待機してただけだ。
「作戦の確認」
「なんかスパイみたいだよ」
神谷がくすっと笑う。
でも笑顔の端に、緊張が滲んでいる。
白い指が、スカートの端を、ぎゅっと握りしめている。
「佐野は今、廊下の奥にいる。あと一分で、こっちに向かってくる」
「——っ」
神谷の顔が、さっと青ざめた。
「……やっぱり無理かも」
「神谷ならできる」
俺は言い切った。
「練習した通りにやるんだ。目を合わせて、『おはよう』って言って、笑顔を三秒で引っ込める。それだけでだよ。それだけ。大丈夫。絶対できる。」
「それだけって言うけど……」
「緊張してる顔は、むしろ武器になる。作ろうとしなくていい」
神谷が俺を見た。
「……橘くんって、なんでそんなに落ち着いてるの」
落ち着いてるように見えるか。
心拍数は今、94だ。
昨日の練習で触れた手の甲に、まだ感触が残っている気がする。
「経験則」
嘘を、淡々と言う。
「行くんだ。タイミングは今だ」
神谷が深呼吸した。
それから、廊下へ踏み出した。
俺は踊り場から、一段だけ降りた。
手すりに指をかけて、廊下を見る。
二十メートル先。
神谷と佐野が、近づいていく。
十五メートル。
十メートル。
神谷の背中が、一度だけ、ぴくりと震えた。
五メートル。
——目が、合った。
俺には見えなかった。
でもそのとき、神谷が顔を上げたのはわかった。
「おはよう」
声は届かなかった。
でも、口の形でわかった。
佐野が、一瞬、止まった。
ほんの一秒にも満たない、わずかな停止。
でもそれは——
「……ああ、おはよう」
佐野の口が、動いた。
神谷の笑顔が、二秒半で引っ込んだ。
完璧だった。
二人はすれ違った。
神谷が歩き続ける。
佐野も歩き続ける。
でも。
佐野が、一歩歩いてから——振り返った。
ほんの、一瞬。
神谷の背中を、目で追った。
俺は手すりを握る指に、力を込めた。
爪が、金属に食い込む。
作戦通りだ。
「存在を認識させる」。第一段階、完了。
理論は正しかった。
手のひらに、冷たい汗が滲んだ。
三時間目が終わった休み時間。
廊下のど真ん中で、それは起きた。
神谷が、本棚のそばで参考書を抱えていた。
佐野が、その横を通りかかった。
偶然だ。
俺の設計にない、偶然の接触。
佐野が神谷を見た。
一拍置いて、声をかけた。
俺には聞こえなかった。
ガラス越しに見る水槽の中みたいに、音だけが遮断されて、映像だけが流れてくる。
神谷が驚いた顔をした。
それから、笑った。
朝の挨拶のときとは違う笑顔だった。
緊張が解けて、素のまま弾けたような——本物の、笑顔。
佐野も笑った。
二人で何か話している。
三十秒。
四十秒。
佐野が「じゃあ」という感じに手を上げて、離れていった。
神谷がその背中を見送って、それから——
教室の窓の外にいる俺を、見つけた。
目が合った。
神谷の口が、大きく動いた。
橘くん。
そう呼んだのがわかった。
昼休み。
「橘くん!!」
廊下を走ってくる足音で、わかった。
振り向く前に、神谷が俺の腕を掴んだ。
「しゃべったよ!!」
息が弾んでいる。
「佐野くんから、話しかけてきてくれたんだよ!? 橘くんが教えてくれた通りに挨拶したら、三時間目の後に佐野くんのほうから……!」
神谷の目が、きらきらと輝いている。
そこに映っているのは——俺じゃない。
当たり前だ。
でも俺は今日初めて、その「当たり前」の重さを、身体で知った。
「それ、どんな内容だった教えてもらえる?」
「えっとね、お互い同じ現代文の先生の授業取ってることがわかって、先生のものまねで盛り上がって……ちょっと待って、なんで私こんな普通に話せたんだろう、もしかして橘くんのおかげ? 絶対そうだよね?」
神谷が俺の腕をぶんぶんと振る。
腕を。
掴んでいる。
体温が、制服の袖を通して、伝わってくる。
「橘くんに頼んで、本当によかった。橘くんなら絶対大丈夫だと思ってた!!」
最大級の信頼。
最大級の拒絶。
俺を「男」ではなく、「便利なシステム」だと確信している、汚れなき瞳。
その言葉が、肺のど真ん中に、音もなく突き刺さった。
「そうか」
俺は自分の声が、どこか遠くから聞こえるような気がした。
「想定より展開が早いな。佐野から話しかけてきたなら、ザイアンス効果の発動が予測より二段階速いよ」
「えっ、すごいの?」
「佐野が意識してないだけで、既に君のことを気にし始めてる証拠だ。次のフェーズに移行できる」
「次のフェーズ!!」
神谷の顔が、また輝く。
その顔の向こうに——さっき廊下で、佐野の背中を見送っていた神谷の横顔が、重なった。
「報告ありがとう。データを更新する」
「うんうん! じゃあまた放課後、作戦会議しようよ」
「ああ」
「橘くん、ほんとに天才だよ」
神谷が笑って、走り去っていった。
廊下に、金木犀の残り香がした。
職員室の前の、人通りの少ない廊下。
俺はそこで、壁に背をもたれた。
手のひらを、見る。
神谷が掴んでいた腕の、少し上のほうに——爪の痕が、三日月形に残っていた。
さっき自分でつけた傷じゃない。
神谷が俺の腕をぶんぶん振るとき、無意識に握りしめていた跡だ。
彼女は気づいていなかった。
当然だ。
彼女の頭の中は、佐野蓮で埋まっているから。
俺はそこに視線を落としたまま、静かに息を吐いた。
心拍数、80。
……正常値に戻った。
よし。
俺はこの地獄を、正常な心拍数で、楽しんでいる。
スマホを取り出した。
メモアプリ。
Case_48:第一ミッション完了。成果:ターゲットの自発的接触。次フェーズへ。
打ち込んで、閉じる。
窓の外、空は抜けるような水色だった。
俺が調合した毒は、なんて甘くて、ひどい味がするんだろう。
喉の奥が焼ける。
壁を蹴って、立ち上がる。
次のフェーズ。次の作戦。神谷陽向を、佐野蓮の隣に届けるための、次の一手。
それだけを考えろ。
俺に必要なのは、データと睡眠だ。
歩き出した。
一歩。
二歩。
三歩目で——立ち止まった。
「……くそ」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
あの爪の痕が、まだ残っている。
彼女の体温が、まだ消えていない。
俺は再び歩き出した。
今度は、止まらなかった。
止まらなかったけど——
左手を制服のポケットに入れたまま、その親指が、爪の痕の上を、そっとなぞっていた。
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