第2話 軍師は、戦う相手を間違えている
翌日の放課後。
図書室の一番奥、窓際の席。
俺は開いたノートに、一本の縦線を引いた。
左に「資産」。
右に「負債」。
まるで、決算書みたいに。
「えーと、佐野くんは……バスケ部で、副部長で、成績は学年三位。お母さんがフラワーアレンジメントの先生で、本人も花が好きらしくて——」
向かいに座った少女が、スマホを見ながら告げる言葉を、俺は淡々とノートに書き写していった。
一つ書くたびに、胃の奥が重くなる。
佐野蓮。
同学年。身長178。
顔面偏差値:最上位層。
趣味:読書・バスケ・植物。
性格(周辺情報より):温厚。面倒見がいい。
「橘くん、すごい。ちゃんとメモしてくれてる」
「仕事だからだよ」
俺は顔を上げずに答えた。
「仕事……」
少女——神谷陽向——が、その言葉を小さく繰り返した。
昨日、名前を聞いた。
Case_48の依頼者、と打ち込むつもりが、なぜか脳が「神谷陽向」という文字列を優先して保存している。
俺の記憶回路は、どうかしている。
「じゃあ、佐野くんって……橘くんから見て、どんな感じ?」
「……あいつ完璧なんだよ」
即答した。
神谷が目を丸くする。
「佐野蓮は、学校という生態系において、ほぼ最上位の個体だ。外見・知性・社会性。欠点が見当たらない」
「……そう、だよね」
神谷の声が、少しだけ沈む。
「だから」
俺は言葉を継ごうとした。
だが、喉の奥に熱い塊がせり上がってきて、一瞬、声が詰まった。
風邪か。……いや、違う。
俺はそれを無視して、強引に言葉を吐き出した。
「正面突破は自殺行為だ。まずは、存在を『認識させる』ことから始める」
神谷が顔を上げた。
「存在を、認識させる?」
「そうそう」
俺はノートに書いた。
ザイアンス効果。
「人間は、繰り返し接触した相手に対して、自然と親しみや好感を覚えるようになる。『単純接触効果』とも言う。廊下ですれ違うだけでいい。エレベーターで乗り合わせるだけでいい。ただし——」
俺は神谷の目を、真っ直ぐ見た。
「毎回、ちゃんと挨拶すること。笑顔で。目を見て。短く」
「それだけで、変わる?」
「人間の脳は思ってるより単純だから、変わる」
神谷が少し笑った。
「橘くん、ちょっと人のこと信用してないよね」
「してない」
「……正直だなあ」
笑い方が、柔らかかった。
俺はその笑顔を、データとして処理しようとして——
できなかった。
「ねえ、橘くん」
神谷がノートを覗き込みながら言う。
距離が、近い。
シャーペンを持つ白い指が、俺のノートの端をちょこんと触れている。
「佐野くんって、橘くんの知り合い?」
「同じクラスってだけ」
「仲いいの?」
「……普通に話す」
「そっか」
神谷が少し考えるような顔をして、それからまた佐野の話を始めた。
「先週ね、佐野くんが転んだ後輩の子の荷物、ぜんぶ拾ってあげてたんだ。すごく自然に。気取らずに。そういうとこが……」
声が、ワントーン上がった。
目が、輝いた。
俺はその変化を、0.3秒で検知した。
声帯の緊張が緩み、声域が広がっている。瞳孔が散大し、口元が自然に緩んでいる。恋愛感情に基づく興奮状態、と判定。
典型的な、「好きな人の話をしている顔」だ。
「……橘くん?」
「聞いてるよ?」
「今ぼーっとしてたよ?」
「違うよ。考えてるんだよ」
俺はペンを動かした。
佐野蓮:後輩への自然な気配り。演技ではなく習慣として定着している可能性大。ゆえに『いい人アピール』が機能しない相手。むしろ一貫性のある真誠さで勝負する必要がある。
胃の、もっと奥のほうが、重い。
鉛でも詰めたみたいに。
あいつは、ほんとうにいい奴なんだよな。
それが、一番、困る。
「じゃあ、最初のミッションを出す」
俺はノートを神谷のほうに向けた。
そこには、シンプルな指示が三行。
①明日の朝、佐野蓮とすれ違う場所を把握しておくこと。
②すれ違った瞬間、目を合わせて「おはよう」と言うこと。
③笑顔は三秒以内に引っ込めること。
「三秒以内?」
「笑いすぎると媚びて見える。自然なのは二秒から三秒。それ以上続けると、計算してる感が出る」
「……橘くん、怖いくらい分析してるね」
「分析するのが仕事だからね」
「また『仕事』って言った」
神谷がくすっと笑う。
「そんなに仕事仕事って言わなくていいよ。私、橘くんのこと、友達だと思ってるから」
心臓が、跳ねた。
——98、105、112。
心拍数の上昇が止まらない。
呼吸が浅くなる。酸欠に近い感覚。
『友達』。
それは、恋愛コンサルタントとしての俺が最も歓迎すべき単語だ。依頼者との信頼関係が構築された証拠。
……なのに、なぜ。
肺のあたりを、冷たい針で何度も刺されているような痛みがする。
俺は無意識に、胸元の制服を強く握りしめていた。
「……挨拶の練習、しよう」
絞り出すような声だった。
「え?」
「本番で体が動かないと意味がない。俺を佐野だと思って、歩いてこい」
言わなければよかった、とすぐに後悔した。
だが、もう俺の制御回路は狂い始めている。
図書室の通路。
五メートル離れて、神谷と向かい合う。
神谷が、歩いてくる。
彼女が俺(佐野)を見る。その瞳には、熱がこもっている。
「おはよう」と、彼女が言った。
声が震えている。俺に向けられたはずのその震えは、別の男への想いゆえだ。
すれ違いざま、神谷の髪が揺れ——金木犀の匂いが、鼻腔を突いた。
わずかに触れた、右手の甲。
電気でも流れたみたいに、指先が痺れた。
「あ——ごめん」
神谷が振り返って、照れたように笑う。
俺はその笑顔を直視できず、わずかに目を逸らした。
喉が、焼けるように熱い。
「……もう一回やろう」
「えっ?」
「笑顔が、まだ硬いんだ。……もっと、愛おしそうに、笑おう。俺の向こうにいる、佐野を想像して」
残酷な言葉を、自分自身に叩きつける。
神谷は「う、うん」と戸惑いながら、また位置に戻った。
彼女がもう一度歩いてくる。
俺を通り越し、まだ見ぬ佐野へと向かうその背中を、俺はただ、影のように見つめるしかなかった。
「じゃあ、また明後日ね」
帰り際、神谷がバッグを肩にかけながら言う。
「うん」
「橘くんに頼んで、よかった」
神谷が去っていった後、図書室には濃密な静寂が降り積もった。
俺は椅子に崩れ落ちるように座った。
指先が、まだ微かに震えている。
──椅子に残る体温を、確かめる。
そんなセンチメンタルな真似ができるほど、俺の心は強くなかった。
むしろ、彼女が座っていた場所を見るのが怖くて、俺は目を閉じた。
(昔、プレゼントを渡せなかった記憶のフラッシュバック)
渡し方がわからなかったあの日。
誰よりも恋愛を研究した。
恋愛のアルゴリズムを解明し、誰もが幸せになれる「答え」を手に入れたつもりだった。
なのに。
知識を詰め込めば詰め込むほど、自分自身の「本当の声」の消し方ばかりが上手くなっていく。
スマホを取り出す。
メモアプリ。
Case_48の項目を呼び出す。
いつものように、事務的な記録を打ち込もうとした。
だが、文字が打てない。
【ミッション成功】。
そう打とうとした指が、止まる。
心臓がうるさい。
脳が「ノイズを捨てろ」と悲鳴を上げている。
「……演算……終了だ」
自分に言い聞かせるために、声に出した。
でも、声は情けないほど震えていた。
「俺に必要なのは、睡眠だ。それ以外の……感情なんて……」
俺は、スマホを机に叩きつけた。
消えない。
目を閉じても、金木犀の匂いと、彼女の手のひらの熱が、皮膚にこびりついて離れない。
捨てろ。捨てろ。捨てろ。
自分に何度も命令する。
でも、捨てきれないわずかな「何か」が、胸の奥の空洞で、獣のように鳴き続けていた。
俺は自分の顔を、両手で覆った。
「……馬鹿みたいだ、俺」
演算式も、論理も、軍師としての誇りも。
そんなもの、たった一人の「好きな人」を、別の男に送り届ける苦痛の前では。
何の、盾にもなりはしなかった。
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