第4話 自分好みの彼女を、他人のために仕上げる
放課後の教室は、静かだ。
西日が斜めに差し込んで、埃がゆっくり舞っている。
他の生徒は全員帰った。
俺と神谷だけが、向かい合って座っている。
「次は何をすればいい?」
神谷が前のめりになって、目を輝かせた。
机の上にノートと蛍光ペンを並べて、本気で授業を受けに来た顔をしている。
俺は窓の外を一秒見てから、神谷に視線を戻した。
「次のフェーズは、視覚的刺激の更新だ」
「視覚的……?」
「今度の土曜日、佐野も出る勉強会があるだろ」
神谷が目を丸くした。
「なんで知ってるの?」
「同じクラスだから、耳に入るんだよ」
嘘だ。
昨日の昼休み、俺は佐野のスケジュールを把握するために、さりげなく会話を誘導した。
「その勉強会を使う。今のままでも十分だが——」
俺はペンを手に取った。
「佐野の視線を、一秒以上釘付けにするためには、ギャップが必要だ」
「ギャップ」
「人間の脳は、予測を外れたときに注意資源を強制的に割り当てる。毎朝『おはよう』を言う子が、ある日突然少し違う印象で現れたら——」
俺はそこで、一拍置いた。
「脳が、勝手に、その人を見る」
神谷が固唾を飲んだ。
「……つ、つまり、どうすればいい?」
俺は机に肘をついて、神谷を正面から見た。
「少し、変えよう」
「服は、清潔感がベースでいい。佐野の好みは、ごてごてしてない。でも——」
俺はノートに書いた。
『強さ』の中に『脆さ』を一点だけ混ぜる。
「どういう意味?」
「例えば、袖が少し長い白いシャツ。首元のさりげないネックレス。きちんとしてるのに、どこか守ってあげたくなるような……」
俺はそこで、ペンを止めた。
——待て。
今俺が言ったのは、「佐野の好み」か?
それとも——
喉の奥が、熱くなった。
「……要するに、計算しすぎてない感じ。それが佐野には刺さるんだよ」
「なるほど……!」
神谷が一生懸命メモしている。
俺は自分のノートに書きかけた言葉を、すっと線で消した。
「髪は、今日みたいなハーフアップより……少しだけ下ろしたほうがいい。でも全部じゃなく、片側だけ耳にかけて、うなじを見せるくらい」
「橘くん、詳しすぎない?」
神谷が笑う。
「ただのデータの蓄積だよ」
「人の恋愛をどれだけ分析してきたんだろう……」
神谷が感心したような、少し呆れたような顔をする。
その顔が、また——処理できない何かを、俺の中に落としていった。
「メイクは、今のままでいい。ただ、リップだけ、今より少し——」
俺は言いかけて、止まった。
「少し?」
「……色を足す。薄いピンク系じゃなく、もう一段だけ深みのある色」
「コーラル系?」
「そう」
そうじゃない。
俺が言いたかったのは、もっと具体的な色だ。
神谷に一番似合うと思った色が、今すぐ浮かんでいる。
それを言ったら——これはもう「作戦」じゃない。
俺はペンのキャップを、強く握りしめた。
「じゃあ、ちょっと確認してもいい?」
神谷がバッグからポーチを取り出した。
鏡を開いて、髪を手で触り始める。
「こんな感じ?」
片側の髪を、耳にかけた。
西日が、神谷の横顔に当たった。
うなじから首筋にかけての、白い皮膚。
耳に触れる細い指。
俺は一瞬——完全に、演算が止まった。
心拍数:——
——数えられない。
「どう?」
神谷が鏡越しに俺を見た。
「……悪くない」
声が、かすかに掠れた。
「本当に?」
「ああ。本当だよ」
「じゃあ、前髪はこのままでいい?」
「少しだけ、左に流したほうがいい」
「こう?」
「もう少しかな」
「これ?」
「……そこで止めて」
神谷が手を止めた。
そこで俺は気がついた。
俺と神谷の距離が、三十センチを切っている。
神谷が鏡を持ったまま、俺のほうを向いている。
俺は神谷の顔を——真正面から、近い距離で、見ていた。
前髪の流れ方。
耳元の産毛。
夕日を受けて、少し透けて見える茶色の瞳。
この顔に、「綺麗だ」と言う権利が、俺にはない。
俺にできるのは、この顔を——佐野に売り渡すことだけだ。
「……完璧だ」
俺は言った。
「作戦として、最適解だ」
神谷がにっこり笑った。
「ありがとう! なんか恥ずかしいけど、嬉しい」
俺は目を逸らした。
窓の外の空が、橙に変わり始めていた。
「次、会話のシミュレーションをしよう」
「シミュレーション?」
「勉強会で、佐野とどう話すかの練習だ。俺が佐野役をやる」
神谷が一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「橘くんが佐野くん役!?」
「おかしいか」
「おかしいというか……なんか、すごくシュールだなと思って」
でも、やる、と神谷は言った。
俺たちは向かい合って、椅子を少し寄せた。
「じゃあ、勉強会の休憩時間という設定で。神谷が俺——佐野に、話しかける」
「うん。わかった」
神谷が咳払いをした。
それから、少し間を置いて。
「……佐野くん、今回の数学の範囲、どこまで終わった?」
俺は一拍置いた。
「三章まで。神谷さんは?」
「え、もうそんなに!? 私まだ二章で詰まってて……」
「どこで詰まってる?」
「積分の置換のところ……」
「あー、あそこか。ちょっと見せて」
俺は机の上のノートを引き寄せるような仕草をした。
神谷がノートを差し出す動作をして——それから、ふっと笑った。
「橘くん、普通に佐野くんっぽい」
「そういうの良いから。続けて」
「え? あ、うん——あの、これ、ここの式変形がよくわかんなくて……」
「ここは、一回xをtに置き換えて——」
俺はノートの端に、実際に式を書いた。
神谷が覗き込んでくる。
距離が、また近くなる。
金木犀の匂いが、した。
「……あ、そっか、こうするのか。えっ、わかりやすい」
「佐野なら、たぶんこういう教え方をする。あいつは手順を省かない」
「なんで知ってるの?」
「同じクラスで、質問に答えてるのを見たことがある」
それも、神谷のために観察した情報だった。
「橘くんって、私のためにそこまで……」
神谷が、少しだけ、静かな顔をした。
「……どうした」
「ううん。なんか、橘くんが私のためにそんなに考えてくれてること、急に実感して」
神谷が俺を見た。
「橘くんと話してると、ちょっと不思議な感じがする」
「不思議?」
「うん……なんか、本番の佐野くんより、緊張するかも」
俺の、指先が、止まった。
「なんでかな。不思議だよね」
神谷が首を傾けて、小さく笑った。
「たぶん橘くんが、ちゃんと私のこと見てくれてる感じがするから……かな。うまく言えないけど」
見てる。
見てる。
お前が思ってる以上に、俺はずっと見てる。
それを口に出して言えないから、俺はここにいる。
「佐野の前では、そっちのほうが自然に出る。いいことだ」
俺は平坦な声で、言った。
「プレッシャーは集中力を上げる。本番で緊張するより、今ここで緊張を消費しておいたほうがいい」
「……そういう解釈するんだ、橘くんって」
神谷がくすっと笑った。
「なんか、橘くんが言うと全部ロジックになるよね。それがちょっと、面白くもあり、もったいなくもあり……」
「もったいないって?」
「なんでもない」
神谷が視線を落とした。
その「なんでもない」が、妙に引っかかった。
でも俺は、それを掘り下げる権利を、自分から捨てていた。
「じゃあ今日はここまで」
時計が五時半を過ぎていた。
神谷がノートを片づけながら、立ち上がる。
バッグを肩にかけて——もう一度鏡を取り出して、髪を確認した。
うなじを見せる、片側の流し方。
西日がその横顔を、橙に染めた。
綺麗だ。
その言葉が、脳の中で生まれて、どこにも行けないまま、消えた。
「土曜日、うまくいくといいね」
神谷が俺を見た。
「絶対にうまくいく。大丈夫」
俺は言い切った。
「君が今日より少しだけ違う印象で現れたら、佐野は必ず一秒以上、君を見る。そこから先は、君次第だよ」
「……橘くん、なんかプロデューサーみたい」
「仕事だから」
「また言った」
神谷が笑う。
それから、少しだけ、真剣な顔になった。
「橘くん、ありがとう。本当に」
「成功してから礼を言え」
「もう言いたいんだもん、今」
扉の前で、神谷が振り返った。
「じゃあね、橘くん」
「ああ、それじゃ」
扉が閉まった。
廊下に、足音が遠ざかっていく。
金木犀の残り香だけが、教室に留まった。
俺は一人になった教室で、椅子に深く座り直した。
机の上のノートを閉じる。
神谷の髪型を「片側だけ耳にかけて、うなじを見せる」と言ったのは——
佐野の好みを分析した結果ではなかった。
他人の恋を叶えるために、自分の理想を捧げる。
それがどれほど滑稽で、救いのない作業か。
知識として知っていたはずの絶望が、今、実感を伴って喉の奥まで競り上がってくる。
他人の恋を叶えるために、自分の審美眼を全力で使う。
どんな精神的拷問にも、こいつはかなわない。
俺はスマホを開いた。
メモアプリ。
Case_48:第二フェーズ開始。視覚戦略、設計完了。土曜日実施予定。
打ち込もうとして——止まった。
「橘くんと話してると、本番の佐野くんより緊張するかも」
神谷の声が、耳の奥で再生された。
「なんでかな。不思議だよね」
不思議じゃない。
俺は打ちかけた文字を消して、スマホを机に置いた。
窓の外、空が暗くなり始めている。
金木犀の匂いが、まだ、していた。
「……演算通りだ」
声に出した。
「あいつはきっと、君に落ちる」
誰もいない教室に、その言葉が吸い込まれた。
俺は、その言葉を口にした瞬間——
何かが、ぽたりと落ちる音を、聞いた気がした。
それは、俺が必死に守ってきた「無機質な軍師」という仮面が、彼女の笑顔という熱に耐えかねて、溶け出した音だったのかもしれない。
俺は立ち上がって、荷物を持った。
電気を消す。
ドアノブに手をかける。
振り返らなかった。
振り返ったら、神谷が座っていた椅子を——見てしまう気がしたから。
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