第19話 君の名前を、初めて呼んだ
そのメモは、わずか四行だった。
今日、放課後。
いつもの場所で。
来なかったら、一生許さない。
――陽向
サインが、苗字ではなく下の名前だった。
その三文字の筆跡には、これまでの彼女にはなかった、逃亡を許さない強固な重みが宿っていた。
俺は、その紙切れを指先で丁寧に折りたたみ、制服のポケットの奥へと押し込んだ。
午後の授業が始まった。だが、俺の意識は黒板の数式を通り抜け、ひたすら内側の空洞へと沈んでいた。教科書の文字はただのシミになり、世界は静かに輪郭を失っていった。
放課後。
騒がしかった廊下から、少しずつ人の気配が引いていく。
鉛でも詰めたように、身体が重い。鼻の奥には、昨日流した血の鉄臭さが、不快な残像としてへばりついて離れなかった。
頭の中の「演算回路」は、もう機能を停止していた。心拍を告げる「ビー」も、自分を削る「キーン」という雑音も、何ひとつ聞こえない。
――演算? そんなもの、もう、一文字も動かない。
壊れた機械を無理やり引きずるように、俺はいつもの教室のドアを開けた。
夕暮れの光が、窓から斜めに差し込んでいた。
昨日まで俺が「薄い灰色」だと思っていた世界に、淡い黄色が戻っている。だがそれは温かさではなく、剥き出しの真実を照らし出すスポットライトのようだった。
神谷陽向は、いつもの窓際の席に座っていた。
俺が入ってきても、彼女は何も言わなかった。ただ、深く、何かを測るような目で見つめて、向かいの椅子を指先で示した。
俺は促されるままに座った。
二人の間に流れるのは、甘く煮詰まった金木犀の香りと、耐え難いほどの静寂だった。
「……来てくれた」
「脅迫文を無視するのは、論理的にリスクが大きいと判断したんだよ」
「脅迫文なんて、ひどいな」
神谷が、小さく笑った。だが、その目は笑っていない。
俺は反射的にその表情の意味を分析しようとして――そして、脳内ファイルが「該当なし」を返した。
「ねえ、橘くん。……今の君の言葉は、何パーセントの確率で本物なの?」
俺の指が、膝の上でぴくりと動いた。
彼女は、俺がこれまで自分を隠すために使い続けてきた「数値」や「論理」という武器を奪い取り、俺自身の胸元に突きつけていた。
「答えられないなら、それが答えだよ。……君は、もう自分が何%の嘘でできているかも、分からなくなってる」
神谷がテーブルに身を乗り出した。
「一個だけ聞かせて。……君が私に勧めてくれた『ほうじ茶ラテ』、本当に美味しかった。私のことを、私以上に知ってくれていて、嬉しかった」
一拍。夕陽の光が、彼女の黒目を金色に縁取る。
「じゃあ。……君が今、一番飲みたいものは何? 佐野くんに教えるための台本でも、私を喜ばせるためのデータでもない、君だけの答えを聞かせて」
俺は、答えを探した。
記憶の階層を下り、自分という個体の嗜好を検索した。
(――コーヒー。ブラックで)
(それは習慣だ。演算のために飲んでいるだけだ。却下)
俺は、さらに深く潜った。中学生の頃。あの失恋の前。俺は、何を好んでいただろうか。
……出てこなかった。
ファイルはすべて「 Case_48 」とそのメンテナンス記録によって上書きされていた。
「……わからない」
「じゃあ。最近、楽しかったことは? 誰かの幸せのためじゃない、君自身が心から楽しいと思ったこと」
俺は、再び検索した。
神谷への助言。佐野への指導。二人のためのシミュレーション。
どの記録を開いても、そこにあるのは俺を介して輝く二人の笑顔だけだった。俺自身が純粋に享受した喜びは、一秒たりとも見当たらなかった。
「……好きな食べ物は?」
「……」
「好きな景色は?」
「……」
「好きな言葉は?」
「――」
答えが、一つも出なかった。
俺は、自分の手のひらを見つめた。制服の上にあるこの手は、他人の糸を引くためだけの、冷たいマリオネットの指先に見えた。
「……俺は」
声が出た。肺の底から搾り出したような、乾いた音が。
「……何も、ないんだ」
言葉が、自分でも止める間もなく溢れ出した。
「本当に……俺の中には、何も残っていない」
神谷が、俺を見つめ続けている。
「自分の好きなものも、明日やりたいことも……全部、君を幸せにするための燃料にして燃やしたんだ。……気がついたら、灰すら残っていなかった」
教室はオレンジ色の闇に染まり始めていた。
神谷の瞳に、涙が溜まる。それは悲しみというより、俺という存在の欠損に対する、根源的な痛みのように見えた。
「知ってる。……ずっと前から、気づいてた」
彼女が立ち上がり、ゆっくりとテーブルを回って俺の隣に来た。
彼女は、俺の冷え切った両手を、自分の手のひらで強く、壊れ物を扱うように包み込んだ。
熱かった。鼓動のある、人間の体温。
「君が、自分を削って私を完成させたっていうなら。……私が、君を埋めてあげる」
「……」
「私が橘くんを見続ける。君が忘れてしまった『橘くんの好きなもの』を、今度は私が、全部見つけて、君に返す」
それは傲慢な依存でも、安っぽい共依存の誘いでもなかった。
俺によって「最高傑作」にされた責任を背負い、俺という人間を一から取り戻すと決めた、神谷陽向の宣戦布告だった。
「……行かなきゃ」
俺は、逃げるように手を引いた。
彼女は少しだけ力を込めたが、最後には静かに指を解いた。
「橘くん。……また、明日。逃げても、見つけるから」
俺は答えず、振り返らずに教室を出た。廊下に響く自分の足音だけが、今の俺には酷く虚ろだった。
校門を出ると、夜が街を支配していた。
誰にも会いたくなくて、遠回りになる暗い土手沿いの道を選んだ。
神谷の手の残熱が、今も掌にまとわりついている。その熱に耐えられなくて、俺は立ち止まった。
街灯の下、一歩踏み出した足に力が入らず、そのまま崩れるように膝をついた。
荒いアスファルトに手のひらを突き、俺は項垂れた。
――演算。試行。
壊れたシステムが、また「橘晴人」という情報の復旧を試みる。
……もういい。
初めて、そう思った。
誰かの背景で、誰かの影で、機械でいればいいと願ってきた俺の「鎧」が、剥き出しの体温の前で粉々に砕けていく。
胸の奥で、激痛とは違う、けれど叫びたくなるような鋭い痛みが走った。
「……俺、何やってんだろ」
誰もいない夜道。漆黒の空。
声にならない嗚咽が、一人の少年の体から溢れ出した。
「……痛い」
軍師でもなく、親友でもない。
ただ、愛されたかっただけの、一人の子どもの声で俺は叫んでいた。
「痛いよ……陽向……」
翌朝。
橘は目が覚めると同時に、昨夜の自分を「計算ミス」として処理しようとした。
だが、自分の唇に残る微かな感覚が、それを許さなかった。
――俺は、彼女の名前を。
自分自身への欺瞞をすべて捨てて、初めて「陽向」と呼んだ。
ご覧いただきありがとうございます。
もし「この主人公、切なすぎる……」「続きが気になる」と思っていただけたら、作品フォローや★、評価をいただけると執筆の大きな励みになります!
毎日19時に更新予定です。




