第18話 ホワイトアウト、あるいは嘘の総決算
屋上の風が、容赦なく俺の頬を叩いた。
秋の冷気は肺の奥まで侵食し、火傷のような痛みを残していく。
だが、それよりも。
右頬の、神谷の涙が触れたあの場所だけが、いつまでも毒のように熱を持っていた。
フェンスの冷え切った鉄を、俺は両手で力任せに握りしめる。
――演算。再起動。
神谷陽向。依頼者。Case_48……メンテナンス中。
脳がロジックを紡ごうとするたび、胸の中央を太い釘で貫かれたような激痛が走る。
「……っ、が……」
喉が、せり上がってくる熱い塊に塞がれた。
――再起動。演算。神谷……。
また、激痛。エラー。システムが拒絶している。
俺が昨日まで信じていた「正解」のすべてが、彼女の一粒の涙によって、ただのゴミ屑へと成り果てていた。
視界の端から、色が失われていく。
灰色ですらない。テレビの砂嵐のような、無機質で残酷なホワイトアウト。
耳の奥では、高周波の雑音が鳴り響いていた。
「ビー」という警告音ではない。
「キーン」という、自分の神経をヤスリで削っているような、耳を塞いでも止まらない絶叫。
その絶叫をかき消すように、背後で扉が重く軋んだ。
「橘。……ここにいたのか」
振り返らなくても、その声だけで世界の輪郭が、ほんの少しだけ正気に戻る。
佐野蓮だ。
あいつの歩み寄る気配には、汚れなき太陽の匂いが混じっている。それが、今の俺には吐き気を催すほどに眩しかった。
「陽向が……あんな顔で泣きながら教室に戻ってきたのは、初めてだ」
佐野の声は、いつもの穏やかさを欠いて、低く沈んでいた。
「何があったんだ。あいつ、お前に何を言われたか一言も教えてくれないんだ」
俺は、フェンスの鉄をさらに強く握り直した。
鉄が指の骨に食い込み、確かな痛みが「俺」を繋ぎ止める。
演算開始。
提示すべき事実は三つ。そして、墓まで持っていくべき事実は一つ。
「……彼女に」
俺は、ひび割れた声を出した。
「佐野との将来における、統計的な破綻確率の話をしただけだ」
「――は?」
「初期段階のカップルが、理想と現実の乖離によって一年以内に関係を解消する割合は高い。そのシミュレーションを、参考情報として提示したんだ」
静寂が、世界を支配した。
佐野が、俺の横顔をまじまじと見つめている。その視線に込められたのは、純粋な驚愕と、俺という人間への、理解しがたいものへの拒絶。
俺は空を見た。
真っ白な空。雲も、青さも、何もない、空虚な空間。
「神谷さんは感情的な個体だ。データに弱い。……君と別れる可能性を数値化されて、勝手にショックを受けたんだろう」
嘘だ。
神谷は、「君がいなくなるなら、恋なんて叶わなくてよかった」と言ったんだ。
彼女が命懸けで差し伸べた、真実の手。
それを、俺は今、自分の手で腐らせて捨てた。彼女の愛を、ただの「統計への恐怖」という浅ましく、無機質な感情にすり替えた。
胸の中央が、今度は内側から爆ぜるような熱を発した。
「……本気で、そんなことを言ったのか、お前」
佐野が、震えるような息を吐いた。
「お前は本当に……合理的すぎて……時々、怖くなるよ」
それでいい、佐野。
嫌え。俺という機械を。
お前たちの幸福のために、自分の心を削り屑にして燃やし続ける、この不気味な男を。
遠ざかれ。俺を軽蔑してくれ。
そうでなければ、俺の「額縁」という名の呪いは、もう俺を支えきれない。
「でも」
佐野が言った。
その、美しすぎる言葉の響き。
「お前がこれまで俺たちのためにやってくれたことは、事実だ。その恩は消えない。……俺は、お前に感謝し続けるよ」
――キーン。
高周波が、脳を真っ二つに引き裂く。
佐野蓮という男は、俺を嫌いになれない。100パーセントの善意で。100パーセントの誠実さで。俺という怪物を、友人として受け入れ続けてしまう。
それが、今の俺には、どんな暴力よりも酷く身体を削り取っていった。
「一個、聞いていいか」
佐野の声が、軍師ではなく、橘晴人という人間に触れようと近づいてくる。
「お前、本当にそれだけで生きていけるのか?」
「……質問の意味が、よくわからないけど」
「誰かの恋を仕組んで、誰かのために自分の時間を全部注ぎ込んで。……お前自身の、幸福はどこにあるんだ?」
フェンスの鉄から、熱が吸い取られていく。
佐野の声には、一切の悪意がなかった。ただ、純粋な――救いたい、という慈悲。
「橘の幸福は、何だ。お前は、何のために……そんなボロボロになってまで、笑ってないんだ」
「問題ない」
俺は、その慈悲を全力で叩き落とした。
「それが、俺の存在様式だ。誰かを鮮やかにするための背景として、機能を全うすること。それだけが俺の……正しい形なんだよ」
「……そんな悲しいこと、言うなよ」
「行け、佐野。あいつには今、君の慰めが必要だ。……あいつに寄り添ってやれ。俺みたいな機械の、代わりにな」
長い沈黙の後。
佐野の足音が、遠ざかっていった。
扉が閉まる。バタン、という乾いた音が、俺の最後の人間の鎖を解いた気がした。
フェンスから手を離すと、力が入らず、そのまま地面に片膝を突いた。
振り返った屋上の景色は、既に俺の視覚には届かなかった。
すべてが白く、濁っている。
俺は一歩、踏み出そうとした。
視界が不自然に傾く。重力が真横からかかったように、俺の身体はコンクリートに叩きつけられた。
手のひらを突いた感触が、冷たい。
鼻の奥で、生ぬるい鉄の味が爆発した。
ぽた。
手の甲に、鮮烈な「赤」が落ちた。
あまりに鮮烈な『赤』が、真っ白に染まりかけた俺の視界を暴力的に塗り潰していく。
昨日、彼女の涙が焼き付けた、あの消えない熱。
俺が俺自身の幸福と共に切り捨てたはずの『痛み』が、今更になって実体を持って溢れ出したかのような――逃れようのない、生々しい色だった。
それを見つめながら、俺は自嘲するように独りごちた。
俺は今日、何のためにあの嘘を吐いたのか。
二人の恋を壊さないためか。
それとも。
自分が「額縁」のままで、消えていい人間だと思い続けるために――自傷行為としての嘘を吐いたのか。
答えは、白く濁ったノイズの向こうへ消えた。
――ああ。眩しすぎるな。
佐野の、汚れなき善意も。
彼女の、逃げ場のない正しさも。
鼻血が、止まらなかった。
拭う気力も湧かず、コンクリートに自分の色が吸い込まれていくのを眺めている。
それだけが、俺がまだここにいるという、唯一の証明だった。
翌朝。
朦朧とした頭で教室に入り、自分の机に手をかける。
そこに、丁寧に折り畳まれた、一枚の小さなメモが置かれていた。
見覚えのある――、けれど、これまでは一度も目に触れさせてはくれなかった、丸っこい筆跡。
指先が、その紙の縁に触れる。
その瞬間、あの香りが鼻腔をくすぐった。
金木犀。
神谷陽向が、昨日泣いていたはずの彼女が。
俺に向かって、最後の――あるいは最初の、「対峙」を宣告している。
そんな予感に、俺の死にかけていた心臓が、再び不快な地響きを立て始めた。
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