第17話 ほどけていく嘘と、君の名前
昨夜の冷たい暗闇を、そのまま引きずってきたような朝だった。
校舎の窓から差し込む光は、相変わらず白く、俺の眼球には刺さるような灰色のノイズとしてしか認識されない。
俺は「額縁」だ。誰かを鮮やかに見せるための背景であり、主役を邪魔しない静寂。
自分にそう言い聞かせ、教科書を一文字も読まないまま三限目の予鈴を待っていた。
「……橘くん」
逃げ場のない廊下の曲がり角で、その声に足を止められた。
振り返らなくても、金木犀の微かな香りが鼻腔をくすぐる。だが、その香りはこれまでのように俺を落ち着かせる「依存先」ではなく、俺の欺瞞を暴き立てる「刃」のように鋭かった。
「話があるの。……恋愛相談じゃなくて、橘くんと私の、話」
神谷陽向が、俺の目の前に立っていた。
いつもの「守ってあげたくなる」不確かな少女ではなかった。背筋を伸ばし、唇を固く結び、その瞳には逃れようのない真実が宿っている。
俺は、無意識にポケットの中で心拍計の数値を数えようとした。だが、指先が凍りついたように動かない。
「昨日、佐野くんと放課後カフェに行ったとき……私、すごく幸せだった」
彼女が静かに、言葉を選びながら語り始める。
「彼は、私のことを本当に分かってくれていた。私が迷わず選んだほうじ茶ラテを、『そういう芯のあるところが好きだ』って、一番欲しい言葉をくれたの。……橘くんの言った通りに。あまりにも、完璧に」
俺は、冷徹な仮面を貼り付けたまま、一言だけ返した。
「……作戦の成功だ。あいつは神谷さんのために、必死に学習したんだよ。感謝して受け取ればいいんじゃないかな」
「そう。佐野くんは悪くない。彼は本当に私のことを大切に思ってくれているし、私も……彼のことが、好きなの」
神谷が一歩、俺との距離を詰めた。
その瞳の奥に、微かな揺らぎと、それ以上の決意が見える。
「でもね。……あの蒼いピアス。佐野くんは嬉しそうに言ってたよ。『橘が教えてくれたんだ、お前はこれが好きだって』。彼は君の知識を信頼して、君のおかげで私を喜ばせられたことを、心から喜んでた。……彼は本当に、いい人だね」
神谷が一歩、俺との距離を詰めた。
その瞳の奥に、微かな揺らぎと、それ以上の決意が見える。
「でもね、橘くん。私は気づいちゃったの。佐野くんはあの店に、私と行ったことなんて一度もない。……私が半年前、図書館の帰り道に、たった一度だけあのお店を覗いて『ターコイズが好きだ』って独り言みたいに言ったとき。……隣にいたのは、佐野くんじゃない。君だけだよ」
ビー、という電子音が脳内で反転し、不快な雑音へと変わった。
演算、失敗。隠蔽、不可能。
「なんで覚えてるの? なんで、自分はプレゼントを渡す権利もないのに、そんな昔の私の言葉をずっと持ってたの? ……佐野くんが『橘に選んでもらった』って笑うたびに、私は、その贈り物の重さに……君の『不在』に、押し潰されそうになるんだよ!」
「……それが、俺の役割だ」
喉が熱い。昨日からの渇きが、声を引き裂こうとする。
「あいつが君の正解を導き出せるように、俺が変数を与えた。それだけのことだ。……俺は、この恋という作品を仕上げるための、道具でしかない」
「道具? ……そんなの、嘘だよ」
神谷の声が、初めて震えた。
「佐野くんと話していると、時々、彼の背後に橘くんが透けて見えるの。佐野くんが優しくしてくれるたびに、私は彼を見ているはずなのに、胸の奥で君が……君が苦しそうに呼吸してる音が聞こえる気がするの!」
神谷が、俺の制服の袖を――否、俺の腕そのものを、逃がさないという意志を込めて強く掴んだ。
熱い。
彼女の指先の熱が、制服を通り越し、俺の死んでいたはずの皮膚に激痛を走らせる。
「私、今、すごく幸せだよ。佐野くんと付き合えて、望んでいたもの全部が手に入った! でも――」
彼女の瞳が、急速に色を帯びていく。灰色の世界が、彼女の潤んだ「赤」によって塗り潰されていく。
「私が笑うたびに、私が幸せを噛みしめるたびに、橘くんの存在が少しずつ消えていく気がする! そんなの……そんなの、私は頼んでない! 私は君に、君の命を削って私の恋を作ってくれなんて、一言も言ってない!」
――呼吸、不能。
肺が酸素の受け入れを拒否している。視界の端が、火花を散らすように白濁していく。
やめろ。
それ以上、踏み込んでくるな。
俺は「額縁」なんだ。背景が主役の声に呼応してしまったら、この作品が壊れてしまう。
「……君は、勘違いをしている」
俺は、絞り出すように声を絞った。
「俺は空っぽだ。何も失ってなどいない。君を幸せにした分だけ、俺のノートにはデータが積み上がり、俺の価値は証明される。……俺は今、満たされているんだ」
「嘘をつかないで!!」
廊下に、彼女の悲鳴のような叫びが響いた。
神谷が、俺の胸ぐらを掴むようにして、至近距離まで顔を寄せた。
「じゃあ、なんで君は……こんなに、死にそうな顔をしてるの?」
世界から、音が消えた。
自分の心拍音が、地鳴りのように全身を揺さぶる。
「私は、佐野くんと幸せになるよ。彼を傷つけたりしない。でも、橘くん……君が自分を殺して作った幸せの上に立って笑うなんて、そんなこと、できるわけないでしょ! 君は、どこにいるの? あなたの『好き』は、どこに消えたの?」
彼女の目から、大粒の涙が溢れ、俺の頬に触れた。
熱い。焼けるようだ。
「橘くんがいなくなるくらいなら、私……こんな恋、叶わなくてもよかった……!」
その言葉が、俺の胸の奥に閉じ込めていた『ひび割れた額縁』を、粉々に粉砕した。
彼女は佐野への愛を否定しているのではない。俺が俺自身の存在を否定し、消滅しようとしていることに、耐えられないと言っているのだ。
「……ああ……」
言葉にならない音が、俺の口から漏れた。
脳内の演算回路は、完全にフリーズした。
自分を背景だと定義することで保ってきた俺のすべてが、神谷陽向という一人の少女の『自分勝手な愛』によって、根底から瓦解していく。
視界が、真っ白に染まった。
激しい立ち眩みに襲われ、俺は神谷の手を振り払うようにして、壁に激しく肩をぶつけた。
「……触るな」
「橘くん……!」
「来ないでくれ。……今の君は、異常だ。冷静になれ。……分析……再起動……」
俺は彼女の顔を直視できず、逃げるように背を向けた。
階段を駆け上がり、誰もいない屋上へと足を向ける。
肺が、引き裂かれるような音を立てていた。
屋上のドアを開けると、冷たい秋の風が俺を切り刻む。
フェンスを掴み、俺は胃の中のものをすべて吐き出すような思いで、激しく喘いだ。
演算不能。
エラー。エラー。エラー。
ひび割れた額縁の向こう側に、隠し通せる真実なんて、もう一文字も残っていなかった。
彼女が俺を呼んだ。
『親友』でも、『軍師』でもない。
ただの、橘晴人という一人の欠陥品として。
俺は、フェンスに頭を預け、震える指を自分の胸に当てた。
ドクン。ドクン。
それは昨日までのような無機質なリズムではなく、のたうち回るような、醜くて生々しい――一人の男としての「痛み」の鼓動だった。
世界が。
灰色のままの景色が、彼女の涙のあとを追うように、歪んで溶け始めていた。
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