第16話 灰色の額縁
部屋の電気は、つけなかった。
暗闇を追い払うための明かりが、今の俺には酷く暴力的なものに感じられた。
ベッドに横たわったまま、天井を見つめる。窓の外から差し込む街灯の光が、床の上に灰色の長方形を不格好に描き出していた。
自分の手の甲を、目の前にかざしてみる。
左足の先に、あの感触がまだこびり付いていた。
カフェのテーブルの下。彼女の靴が触れた、わずか三センチの熱。一秒にも満たない接触が、皮膚の下で冷たい残り火のように燻り続けている。
消えろ、と自分に命じる。だが、その熱だけが、俺という空っぽな存在を今この現実に繋ぎ止めていた。
――いつから、こうなった。
無意識に、手が机の一番下の引き出しへと伸びた。
奥の方に眠っていた一冊のノート。中学校の校章が印字されたその表紙を撫でると、指先から埃っぽい過去が逆流してきた。
俺は一瞬だけ躊躇し、それから、自分を罰するようにその頁を開いた。
中学二年生の春は、今の俺には直視できないほど眩しかった。
教室の窓から斜めに差し込む、暴力的なまでに明るい陽光。給食のパンの匂い。
当時の俺は、まだ笑い方を知っていた。
「橘、お前それ意味わかんねえよ」
そう言って肩を叩いてくる親友・篠田の笑い声に、俺もまた不格好に声を返していた。
三組の遠藤美咲。
体育館の集会で見かける彼女の後ろ姿。風に揺れる髪の動き一つで、俺の胸は激しく、無軌道に波打った。
心拍数を数値として処理する術なんて、当時の俺は持ち合わせていなかった。ただ、その速さが誇らしかった。世界が彼女を中心に回っていることを信じて疑わなかった。
「篠田。……俺、遠藤さんのことが好きなんだ」
四月の終わり。校舎裏の、錆びたフェンスのそば。
俺が本音を漏らした瞬間、篠田の表情がほんの一瞬だけ凍りついたのを、当時の俺は「驚き」だと思い込んだ。
「……そうか」
篠田は笑った。いつもと同じ、頼りになる親友の笑顔だった。
「応援してるよ、橘」
その笑顔の奥に、俺自身の「存在の傲慢さ」への宣告が隠されているとも知らずに。
一週間かけて書き直した手紙を、彼女に渡した。
「ごめんなさい」
彼女は、悲しそうに首を振った。
「好きな人が、いるの。……篠田くんのことが、ずっと好きだったの」
彼女の好きな人が篠田であり、篠田もまた彼女を想っていたことを、俺が知ったのはその数日後だった。
俺が「好きだ」と叫ばなければ、二人は今頃、幸福の中にいたはずだった。俺の無神経な告白が、篠田に彼女を避ける理由を与え、彼女に罪悪感を植え付けた。
三人が、三人のままで笑えていた時間は、俺という『不純物』の混入によって、一瞬で瓦解した。
「……お前は、自分のことしか考えてないんだな」
篠田にそう言われたわけではない。遠藤さんに蔑まれたわけでもない。
ただ、去っていく二人の背中が、俺にそう告げている気がした。俺が俺自身の幸福を願ったせいで、世界の美しいバランスが、無残に砕け散ったのだ。
その夏、俺は一冊の本に出会った。心理学、統計、行動分析。
感情を『データ』として切り分けるその冷徹な言葉たちは、当時の俺にとって唯一の救いだった。
感情で動くと、人が壊れる。
俺が望むものは、誰かを不幸にする。
だったら、俺という存在は、世界から透明になればいい。
秋、同じクラスの田村に「好きな子がいるんだ」と相談された。
俺は、そこに自分の感情を一滴も混ぜなかった。田村の望みだけを抽出し、冷徹な観測に基づいた最適解を出力した。
結果は、完璧な成功だった。
田村に肩を揺さぶられながら礼を言われたとき、俺の胸に去来したのは、歓喜ではなかった。
――ぞっとするような、冷たい充足感。
空っぽの洞窟に、水が一滴だけ落ちたような音。
これが、俺の居場所だ、と確信した。
主役になってはいけない。俺は、風景を美しく見せるための絵の具になればいい。誰かの恋を際立たせるための、地味で、灰色の額縁になればいい。
それが、あの日俺に下された、唯一の許しだったのだ。
回想の頁を閉じ、俺は暗闇に戻ってきた。
引き出しに鍵をかける。カチリ、という金属音が、過去を再び葬り去る音のように聞こえた。
手の甲を、また目の前にかざす。
足先の熱の残像は、もう完全に消えていた。
俺はあの日から、主役の座を降りた。
俺が主役の物語は、悲劇しか生まない。
誰かを鮮やかにするためだけの、灰色の背景。それが橘晴人の、正しい姿だ。
だから、今の俺は、間違っていない。
彼女のために、彼女の恋をメンテナンスし続ける。それが俺に課せられた、一生の贖いなのだから。
電気をつけないまま、俺は目を閉じた。
翌朝。
廊下の向こうから、神谷陽向が歩いてくるのが見えた。
その足取りが、いつもの「守りたくなる」不確かさではなく、何か重い決意を運んでいるかのような、不自然な強さを持っていることに気づき。
俺の心拍計が、警告なしに――鳴り響いた。
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