第15話 幸福の外野席
「橘くん!」
昼休みの教室に、迷いのない、軽い足音が二つ近づいてきた。
顔を上げるより先に、脳がその「香り」を検知する。甘く、どこか切ない金木犀の残香。
神谷陽向が、佐野蓮の腕を軽く掴むようにして、俺の席の前に立っていた。
仲直りした二人は、昨日までの不穏な空気が嘘だったかのように、肩が触れ合う距離で熱を発している。
演算通りだ、と俺の脳の一部が冷ややかに告げた。俺が昨日、俺の心を削り取って佐野に授けた「台詞」が、彼女の不安を見事に溶かしたのだ。
「橘、昨日は本当にありがとう。おかげで仲直りできた」
佐野が、一点の曇りもない笑顔で俺の肩を叩く。その掌から伝わる体温が、今の俺にはひどく毒々しく感じられた。
「お礼がしたいんだ。三人で、あのお店に行かないか。……ほら、お前が選んでくれたピアスを売ってたカフェだよ。放課後、空いてるだろ?」
俺は即座に、自分という存在をその場から消去するための理由を三つ算出した。
山積した課題。他の案件のデータ分析。そして――そもそも、俺がそこに加わる論理的必然性が皆無であること。
「橘くんがいないと」
俺が口を開く前に、神谷が真っ直ぐに俺の瞳を射抜いた。
「なんだか、お祝いじゃない気がして。私たちが今こうしていられるのは、橘くんがいたからだし」
心拍アラートは、もう鳴らなかった。ただ、静かなノイズが鼓膜の奥で「受諾しろ」と命じている。
「……わかったよ。その代わり一時間だけだぞ」
窓の外、灰色の雲が、午後の光を無慈悲に遮っていた。
駅ビル二階、夕暮れに染まる前のカフェ。
落ち着いた飴色の間接照明が、木目のテーブルに穏やかな光を落としている。
神谷は、俺の向かいの席で楽しそうにメニューを広げていた。首をかしげるたびに、俺が選んだ蒼いターコイズが揺れ、彼女の白い肌の上で火花を散らすように光る。
「橘は何にする?」と、佐野が尋ねた。
「……ブラックでいい。一番苦いものを」
「相変わらずだな、お前は。……陽向は、いつものほうじ茶ラテでいい?」
「うん! さすが蓮くん、わかってるね」
二人は、俺という存在がその場にいないかのように、二人だけの世界へと沈み込んでいく。
昨日見に行った映画の感想。来週のデートの予定。佐野が不器用に彼女をエスケートし、神谷がそれに応えて柔らかく笑う。
俺はそのすべてを「音声データ」としてのみ受信した。
感情への変換機能は、もう永久に故障したのだと思い込もうとした。
運ばれてきたブラックコーヒーは、熱い、という情報と、苦い、という数値だけを喉に伝えた。それ以外の――「美味しい」や「落ち着く」といった人間的な質感は、一滴も含まれていなかった。
「そのピアス、やっぱり最高に似合ってるよ。橘に相談して、本当に良かった。俺一人じゃ、絶対こんなに良いのは選べなかったから」
佐野が、一点の濁りもない笑顔で神谷の耳元を指差す。
「橘って、本当に陽向のことよく分かってるよな。俺、お前に頼んで正解だったよ」
悪意のない感謝が、俺の心臓を静かにすり潰していく。
神谷が少し照れた顔をして、「うん、ほんと。橘くんには敵わないね」と笑う。
神谷が、少し照れたように耳を隠す仕草をした。
俺はコーヒーカップを、テーブルにそっと戻した。
陶器が擦れる、微かで乾いた音。
演算開始。このピアスの価値を、神谷に刷り込んだのは俺だ。色の意味を教え、佐野に「これを買え」と指示したのも俺だ。
佐野は金を払い、俺の持っていた情報を『自分の愛』として提示した。
それがこの閉ざされた関係の中では、唯一の、そして最強の「正解」として機能している。
「橘のおかげだよな」と、佐野が一点の悪意もなく俺に礼を言った。
「お前がいなきゃ、俺は何もできてなかった。お前は、俺たちの最高の『演出家』だよ」
演出家。
背景。
あるいは、便利な装置。
温かい笑い声がカフェの空気に溶け出し、二人の輪郭を柔らかく縁取っていく。
その光の輪の中に、俺の居場所は一ミクロンも存在しなかった。
やがて、佐野が「少し席を外す」と言って立ち上がった。
三人の円が、一瞬だけ、二人の対峙に変わった。
俺は窓の外を見ていた。ビルの谷間に沈む夕日が、空を汚れたようなオレンジと灰色に染めていく。
ふいに、テーブルの下で、何かが俺の左足に触れた。
神谷の、ローファーの先だった。
偶然ではなく、そっと、重さをかけるようにして当てられた熱。
俺が動けずにいると、神谷が声をさらに潜めてささやいた。
「……内緒ね。二人だけの、秘密」
何が内緒なのか。何を「秘密」と呼んでいるのか。
俺には痛いほどわかった。佐野に見せない「本音の顔」を、彼女は今、俺にだけ預けている。
それは彼女にとっての甘えであり、俺にとっての死刑宣告だった。
「佐野くんね、橘くんが言った通りのタイミングで、私のことを『ほうじ茶ラテが似合うところが好きだ』って言ってくれたんだ。……橘くんの言った通りだったよ、ほんとに」
「……そうか」
「私、今……世界で一番幸せかもしれない。全部、橘くんのおかげだよ」
神谷の瞳が、幸福の色で潤んでいた。
その輝きを作り出した作者は、間違いなく俺だった。
佐野に渡した台本。神谷に教えた弱さの見せ方。そして、この耳元のピアス。
俺は自分の最高傑作が、別の男の腕の中で最高に輝いているのを、最前列で見せつけられていた。
――心拍アラートを、検索。
応答なし。
「ビー」という、あの不快な雑音すら、今はもう聞こえなかった。
あまりに静かで、深い虚無。
自分が透明な空気になり、この幸福なシーンを維持するためだけの「酸素」になっていくような感覚。
「ありがとね、橘くん」
彼女の笑顔は、残酷なほど美しかった。
俺は「ああ」とだけ答えた。それ以外の言葉を出せば、俺の輪郭が完全に崩れてしまいそうだったから。
佐野が戻ってきた。足先の熱が、吸い込まれるように離れていった。
カフェを出ると、冷えた秋の風が、麻痺した俺の頬を撫でた。
「じゃあ、橘。また月曜な。本当にありがとう!」
「橘くん、気をつけてね。また……ね」
俺は二人に背を向け、反対方向に歩き出した。
一歩、二歩。背中で、同じリズムを刻む二人分の足音が遠ざかっていく。
俺は、立ち止まらなかった。立ち止まれば、振り返ってしまう。
振り返れば、神谷の耳元で揺れる蒼い石が、最後に俺を殺しに来るような気がしたから。
一人分の足音だけが、コンクリートに不格好に響く。
頭の中で、誰かの、いや自分自身の幼い頃のような声が響いた。
――ああ、そうだ。
僕は昔から、こうして誰かの背景になることだけが、唯一の存在証明だったんだ。
俺という色を消し、誰かを鮮やかにすることだけが、俺の価値だった。
その歪なルーツが、記憶の泥の中からゆっくりと頭をもたげ始めた。
俺はその夜、初めて、自分の中に「ひび」が入る音を聞いた。
ご覧いただきありがとうございます。
もし「この主人公、切なすぎる……」「続きが気になる」と思っていただけたら、作品フォローや★、評価をいただけると執筆の大きな励みになります!
毎日19時に更新予定です。




