第14話 二人を結ぶその糸は、僕の心を削って紡がれている
朝のホームルームが始まる前。
俺は、もはや儀式となった動作でスマートフォンの画面を点灯させた。
『ピアス、橘くんにだけは、ちゃんと言葉で「似合う」って言ってほしかったな』
三日前の、あのメッセージ。
親指が削除ボタンの上を空振る。毎日、何度も消そうとして、そのたびに透明な壁に阻まれるような感覚に陥る。
――理由不明。エラー。
俺はその思考を物理的にシャットアウトするために、画面を伏せて机に突っ伏した。
二時間目の休み時間。
教室には、冷えた粘土のような、嫌な重苦しさが漂っていた。
俺は参考書の文字を追うふりをしながら、不揃いな空気の密度を肌で感じ取っていた。
窓際の席。佐野蓮が困惑したような笑みを浮かべ、神谷陽向の方を向いている。対する神谷は、頑なに黒板を見つめ、彼と視線を合わせようとしない。
俺の仕掛けた『問いかけ』のアドバイスが、彼らの平和な均衡を突き崩したのだ。
佐野が何かをささやき、神谷が短く拒絶の言葉を返す。
――予測通り。
佐野という太陽は、不都合な陰り(摩擦)を、無意識に、あまりに鮮やかに避けてしまう。
俺の作り上げた『完璧な恋』に、初めて本物の不協和音が混じり始めた。
胃の奥が、氷を飲み込んだようにひりついた。
昼休みの渡り廊下。
光だけが白く乱反射し、人影のない空間で、佐野が重い溜息を吐いた。
「橘。……陽向のことで、相談があるんだ」
俺を親友と信じ切っている瞳。そこに映る俺は、なんて醜い道化だろうか。
「一昨日、陽向に聞かれたんだ。『私のどこが一番好き?』って。俺、『全部だよ』って答えたんだけど……なんだか、彼女の顔が、見たこともないくらい曇っちゃって」
佐野が情けなそうに、アルミの手すりに体重を預けた。
「橘、お前ならどう答えた? どうすれば、彼女は笑ってくれるんだ?」
――ビー。
頭の中で、耳障りな電子音が鳴り響く。
演算を待つまでもない。俺なら、彼女の魂を数秒で救い出せる答えを知っている。
(――君が、周りに合わせようとして無理をするくせに、飲み物を選ぶときだけは自分だけの『ほうじ茶ラテ』を譲らない、その不格好な一途さが好きだ)
俺の心臓が、一度だけ大きく爆ぜた。
口から零れそうになる「本音」を、俺は鉄のような味のする唾液と一緒に飲み込んだ。
「……神谷さんは、抽象的な言葉に価値を置かないタイプだと思う」
俺は、一滴の感情も混じらない、乾燥した声を出した。
「具体的なエピソードに、彼女への『観測』を混ぜる必要がある。例えば、迷わずほうじ茶を選んだ日のことだ。……それだけでいい。彼女は、お前が自分を見てくれていると錯覚するはず」
「……なるほど。やっぱりお前は天才だな、橘」
佐野が感嘆の声を上げ、俺の「本音の残骸」を必死にメモしていく。
俺が彼女に捧げたかった言葉が、佐野蓮という男のフィルターを通して、彼自身の愛へと上書きされていく。
味のしないゴムを噛み続けているような、不快な充足感が喉元を締め付けた。
放課後。いつもの教室に、神谷陽向が現れた。
目が赤かった。泣き叫んだ後の赤さではない。流すべき涙を、どこに捨てればいいか分からない者の赤さだ。
「……どうぞ」
彼女は、俺の向かいの席に崩れるように座った。
「佐野くんがね。……私のこと、見てくれてない気がするの」
指先が、テーブルの上で縋るように組み合わされる。
「一緒にいても、なんだか遠くて。……橘くんの前みたいに、私、笑えないんだよ」
俺の目の前でだけ、剥き出しの弱さをさらけ出すヒロイン。
その甘美な誘惑を、俺は軍師という名のナイフで、容赦なく切り捨てた。
「……佐野は、言葉が不器用なだけじゃないかな。神谷さんのことを、死ぬほど考えていると思う」
「でも……」
「気持ちがないわけがないだろう。あいつのあの顔(悩み)を見れば分かる」
俺は、佐野を擁護する「嘘」を並べ立てる。
自分の心臓が薄く、紙切れのように削がれていく感覚。
俺の嘘によって、彼女の心は安堵に染まり、彼女は再び、俺ではない男のもとへと還っていく。
「……橘くんがそう言うなら、信じられる気がする」
神谷が、泣きそうな顔のまま、小さく笑った。
その笑顔を俺に捧げるのは、やめてくれ。
「……行った方が良いよ。佐野が待ってるぜ」
「うん。ありがとう。……また、来てもいい?」
「……ああ」
独り舞台。
カーテンの閉まった教室に、夕闇が毒のように広がる。
俺は今日、一滴の愛も、一滴の本音も、誰からも受け取らなかった。
ただ、自分の指先で、自分の最愛の人たちの「幸せという名の糸」を修復しただけだ。
ノートを開く。
震える指を隠すように、冷徹なログを刻んでいく。
――演算続行。
僕の言葉で縫い合わされた二人の世界には、やっぱり、僕という存在の居場所は一ミクロンも存在しない。
翌日、佐野から届いた『仲直りできた。お前、マジで神だわ』というメッセージ。
俺はそれを一瞬だけ眺め、心拍アラートの電子音を子守唄にして、深い眠りに落ちるふりをした。
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