第13話 この涙すら、僕の嘘だと定義する
「橘くん」
神谷陽向の指が、俺の制服の袖を掴んでいた。
華奢な指先から伝わってくる、微かな、けれど確かな震え。
朝のホームルーム前。生徒たちの笑い声や上履きの音が洪水のように流れる廊下で、俺たちの周りだけが、時間の断層のように静止していた。
「……泣きそうな顔、してた。一瞬だけ、だったけど」
俺の目の奥が、再び熱くなる。
演算開始。
原因:未特定。
――処置:即時、言語による定義の上書き。
「……達成感による、一過性の生理現象だ」
神谷が、ぱちくりと瞬きをした。
「生理現象?」
「プロジェクトの完成を視覚的に確認したことで、蓄積されていたプレッシャーが一時的に解放されたんだ。急な気圧の変化で耳鳴りがするのと、何ら変わりはない」
「橘くん」
神谷が、静かに俺のロジックを遮った。
「達成感で、あんなに……空っぽな顔、するの?」
真っ直ぐな瞳だった。
灰色の世界の中で、その瞳だけが射抜くような色を持って、俺の心の防壁を暴こうとする。
心拍数を計測しようとした。だが、脳内のアラートは「ビー」という単調な雑音を吐き出すだけで、もはや数値を返さない。
「……君がそれを身につけた瞬間、この案件(Case_48)は完結したんだ」
俺は、俺の耳元を飾る蒼い石を見ないように、冷たい声を出した。
「君自身の好みが、あいつの愛の証明になったということ。それ以上の解放感はないよ」
神谷の指が、左耳のターコイズをそっとなぞる。俺の選んだ色が、彼女の白い肌の上で、無残なほど鮮やかに輝いていた。
「……似合う?」
「……それはあいつに聞いてくれ」
突き放したはずの俺の言葉は、湿った灰のように空気に落ちた。
神谷が表情を曇らせたその瞬間、廊下の向こうから眩しい光を連れた足音がやってきた。
「橘!」
佐野蓮だ。いつもの完璧な笑顔。いつもの濁りのない善意。
あいつが現れるだけで、世界が正しい順序で動き出してしまう。
「やっぱり顔色が悪い。昨日からずっと心配してたんだ。無理させたな、本当にごめん」
学食の窓際の席。佐野が申し訳なさそうに俺の肩を叩く。
「……気にするな。契約通りの仕事をしたまでだ」
「契約とか言うなよ。お前は、俺たちの最高の恩人なんだから」
正しい。
佐野の言うことは、道徳的にも、論理的にも、一ミリの狂いもなく正しい。
だからこそ、俺はどこにも反論できない。自分自身の「軍師」という仮面によって、自分の首を絞め続けるしかないのだ。
「昼、一緒に食べられてよかったよ。なあ陽向、ピアスやっぱり似合ってる。橘に選んでもらって本当に正解だった」
「うん……そうだね」
神谷が、俺を見た。
佐野の隣で笑いながら、けれど彼女の右手は、テーブルの下で何度も耳元の青を確かめるように動いていた。
俺はトレーの上の、味のしない冷えた肉を口に運んだ。
佐野と神谷が、未来の約束を話し、笑い合っている。
その幸福な音域を、俺は正確に受信し、データとして記録していく。
周波数、正常。
語彙の親和性、向上中。
メンテナンスの必要はない。この恋は、完璧な軌道を描いて安定期に入った。
それだけを自分に言い聞かせ、俺は咀嚼を続ける。飲み下すものは、塩分と脂質の塊ではなく、俺自身のプライドの残骸だった。
「……食べないの? 橘くん」
神谷が、こちらのトレーを覗き込む。
「……代謝の低下だよ。問題ない」
「またそれ……。橘くん、私、本当は知ってるよ」
「何をだ?」
「橘くんが、自分を置いてけぼりにしてること」
心拍アラートが、最大音量で脳内を掻き回した。
俺は、彼女に気づかれないように箸を置いた。
昼休みが終わり、二人が並んで去っていくのを、俺は窓際の席で、座ったまま見送った。
佐野が彼女の肩に手を回そうとして、神谷が少しだけ照れたように身を寄せる。
その光景まで含めて、俺が設計したハッピーエンドだった。
一人になったテーブルの上。俺は空っぽになった彼女の席を見つめ、静かに呼吸を整える。
――演算、再開。
今朝の「涙のバグ」について。
原因の定義を修正する。あれは弱さの漏洩ではない。
……そうだ。あれは、神谷の中に「自分(橘)は放っておけない存在である」という認識を植え付けるための、演出だ。
人は、完璧な人間には惹かれるが、弱った人間は手放せなくなる。
「……今の涙は、彼女に『親友』という名の責任を感じさせるための――最悪の、スパイスだ」
口に出してみると、その嘘は、あたかも真実のように俺の心に居座った。
そうだ。俺は泣いたんじゃない。
彼女の「特別」であり続けるために、最高の嘘を吐いただけだ。
そう定義できれば、俺はまだ、システムとして立ち上がることができる。
夕方、自室で勉強机に向かっていたスマホが一度、短く振動した。
神谷陽向から、メッセージだった。
『橘くん。今日のお昼、ありがとう。
……ピアス、橘くんにだけは、ちゃんと言葉で「似合う」って言ってほしかったな。』
俺は三秒間、その文字列を見つめた。
消去しようとして、親指が動かなかった。
演算続行。
このメッセージは、依存関係の強化によるノイズ。
削除――不能。
俺はスマホを伏せ、窓の外に広がる、何も見えない夜の暗闇に目を向けた。
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