第12話 俺の知識が、彼女の耳元で
「橘。……本当は、こんなことお前に頼むべきじゃないって分かってるんだ」
放課後の教室。178センチの体躯を不格好に丸めて、佐野蓮が俺の隣に立っていた。
いつもなら眩しいはずの彼の瞳が、今日はどこか焦燥に揺れている。
「一ヶ月記念に、何か贈りたくて。でも俺……陽向が本当は何を喜ぶのか、まだ掴みきれてない。情けないけど、俺よりお前の方が、彼女のことを見てるだろ」
佐野は無邪気に頼っているのではない。むしろ、俺という存在の大きさに無自覚な恐怖を感じ、必死に「彼氏」としての形を整えようとしている。その必死さが、今の俺には猛毒だった。
「……俺、実は睡眠不足なんだ。手短にしてほしい」
「悪い。……付き合ってくれるか。お前の目が、必要なんだ」
俺は窓の外を見た。夕暮れが、世界を白と灰色の境界へと塗り替えていく。
「……わかった。一時間だけ付き合うよ」
駅ビルの三階。清潔すぎるほど明るいアクセサリーショップに、俺たちはいた。
「陽向、こういうシンプルなのが好きかな」
佐野が棚に並んだシルバーのリングを指差す。俺はそれを一瞥し、頭の中のアーカイブを高速で検索した。
半年前、まだ『コンサルタント』を名乗る前の、何でもない放課後。
図書館の帰り道、彼女が足を止めたのは、この店のショーウィンドウだった。
『橘くん、見て。私、こういう色が好きなんだよね。青でも緑でもない……なんて言うんだっけ』
『ターコイズだ』
『そう、それ! なんか、この色を見てると落ち着く気がして』
彼女は何気なく言った。俺もまた、何気なくそれを記憶のフォルダに放り込んだ。
自分のためではなく、いつか『 Case_48』が動き出した時のための、ただの変数だと言い聞かせて。
「……彼女は、青より少し緑の混ざった色を好む」
俺の声は、自分でも驚くほど乾燥していた。
「今の時期なら、華奢なピアスがいいと思う。主張の強い装飾は、彼女の『脆さ』を打ち消す。だから、一粒だけの、ターコイズを選ぶと良いんじゃないか」
佐野が俺を、まじまじと見た。
「……そんなことまで覚えてるのか、お前は。……やっぱり、敵わないな」
佐野の苦笑いには、隠しきれない敗北感が混じっていた。彼はその劣等感を振り払うように、棚の奥にある一品に手を伸ばした。
細い金属のフープに、小さな石が一粒。
俺は佐野の手からそれを借り、指先でそっと触れた。
冷たかった。滑らかで、逃げていきそうなほど小さな、蒼い結晶。
一秒だけ、その感触を脳に刻み、俺はそれを佐野へ返した。
「これだ。佐野、お前が選ぶんだ」
「……ああ。ありがとう、橘」
俺の手から、宝石が――権利が、完全に消えた。
レジに向かう佐野の背中を見つめながら、俺は壁にもたれた。
財布からカードが出る。決済音が響く。
佐野が対価を払い、彼女の耳元を飾る『唯一の男』になる契約が結ばれた。
俺の持っていた知識が、今この瞬間、あいつの愛の証明書に書き換えられたのだ。
「お待たせ、橘。本当に助かった。お礼と言っちゃなんだけど」
佐野が、自販機で買ってきたスポーツドリンクを差し出した。
「冷えすぎて味もしないかもしれないけど。……飯も今度、神谷さんと三人で行こうぜ。俺、奢るからさ」
「……三人は、いいよ。……帰る」
受け取ったペットボトルの冷たさが、手のひらから体温を吸い取っていく。
百数十円。俺の魂と記憶を切り売りした報酬。
佐野は、大事そうに小さな袋を抱え、彼女のもとへ向かって雑踏に消えていった。
駅のホーム。一人、冷たい風に吹かれながら、俺はスポーツドリンクのキャップを開けた。
一口含んだ。……味がしない。
成分表示の文字列を、呪文のように脳内で繰り返す。ナトリウム、クエン酸、糖分。記号で世界を埋め尽くし、演算を再起動させる。
今頃、佐野は彼女に袋を渡しているはずだ。
神谷は、驚きに目を見開く。
箱を開け、俺が教えた「あの日と同じ色」を見つけ――そして、それが佐野が自分のために一生懸命選んでくれた『本物の愛』だと信じ込む。
鏡の前で髪をかき上げ、その青を耳に添える。
『似合う?』
『……ああ、すごく』
そこにあるのは、橘晴人という男が入り込む余地のない、完成された幸福の図だ。
俺の知識が。俺だけが知っていたはずの彼女の秘密が。
皮肉にも、俺ではない男との絆を深めるための「最も強固な楔」に化けていく。
電車が、轟音と共に滑り込んできた。
俺はその鉄の箱に身を委ね、目を閉じた。
――演算終了。
俺の記憶が、あいつの所有物になる。
俺の恋心から削り出された言葉が、別の男の口から愛として囁かれる。
それでいい。それが軍師の、正しい死に様だ。
翌朝。
教室の入り口で、俺の演算回路がショートした。
神谷陽向が、そこに立っていた。
俺が昨日触れたものと同じ蒼色が、彼女の黒髪の隙間で、残酷なほど鮮やかに輝いている。
彼女は、俺と目が合った瞬間、かつてないほど複雑な――けれど確かな熱を宿した目で、俺の方へ歩き出した。
佐野の隣ではなく。
ピアスをくれた彼氏のもとでもなく。
まっすぐに、俺の方へ。
「……橘くん」
耳元の蒼色を指で震わせながら、彼女は俺の制服の袖を、これまでで一番強く掴んだ。
「これ、佐野くんがくれたんだけど……。……ねえ。どうして君が、泣きそうな顔をしてるの?」
俺は答える言葉を持たなかった。
ただ、自分の頬を伝ったものが何であったかを。
システムの故障だと判定することすら、もう、できなかった。
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