第11話 メンテナンス、開始
月曜日の教室は、刺すような白さに満ちていた。
窓から差し込む朝の光は、いつもより彩度が低く見える。いや、俺の視覚野が受け取る情報を、脳が無機質な信号に変換して処理しているせいだろう。
俺――橘晴人は、自分の席に座り、スマートフォンの画面を無心でスワイプしていた。
未読通知が七件。依頼の打診、途中経過、感謝の定型文。それらはすべて、一列に並んだ無意味な文字列に見えた。
「橘! 聞いたぞ! 神谷と佐野、マジでくっついたんだってな!」
隣の席の田中が、朝からノイズのような音量で話しかけてきた。
「……ああ」
「お前、本物の天才だな! あの佐野を落とすなんて。なあ、次は俺の恋も頼むよ。三組に――」
「要件を論理的にまとめてから来い。感情論だけの相談は受け付けないぞ」
田中がわずかに口を噤む。俺は画面に視線を戻した。七件の文字列を、一つずつ「処理」していく。胸の中にあるはずの空洞は、もう痛みすら感じさせないほど冷え切っていた。
昼休み。
俺は購買で買った、味のしないサンドイッチを中庭で咀嚼していた。ツナマヨの油脂を飲み下しながら、俺はあの日、この場所で起きた告白劇を思い出そうとした。
……思い出せない。ただの「完了済みケース」として、記録の奥底に格納されてしまったようだ。
中庭の向こうに、見知った背中が見えた。
高い身長。日光を味方につけたような端正な横顔。佐野蓮。そしてその隣で、黒髪を風に揺らしている彼女。
職業病という名の、逃げ場のない呪いが起動する。
Case_48は完結した。だが、事象としての恋愛に終着駅はない。
維持、摩擦、摩耗。橘の目は勝手に二人をスキャニングする。
佐野が彼女に何かを囁いた。彼女が笑う。
あの時、俺が教え、俺が引き出した笑顔と同じ形だ。
だが、その輝きは俺が持っていたどのデータよりも熱を持ち、俺を世界の「外側」へと追放した。
俺は食べかけのサンドイッチをゴミ箱に捨てた。空腹は消えなかったが、食べるべき理由も消失していた。中庭に背を向ける。背中に当たる光の熱すら、今の俺には届かなかった。
放課後。
教室のドアを開けると、そこには「予定外」の黒髪があった。
「……神谷さん」
「橘くん! よかった、まだいた」
彼女は、教室の端のいつもの席に座って俺を待っていた。以前と全く同じ光景。
だが、決定的な違いがあった。今の神谷陽向は、依頼者特有の切実な緊張感を脱ぎ捨て、完璧な「彼女」の顔をしていた。どこまでも柔らかく、佐野という太陽に照らされて咲いた花の顔。
「何の用?依頼は完結したはずだが?」
「用って言わないでよ。……友達でしょ?」
「……」
「相談、してもいいかな」
その言葉に、一瞬だけ演算が停止した。心拍を計ろうとしたが、指先が冷えすぎて鼓動が掴めない。
「……話してみて」
神谷が、あの日と同じように前の席を引いて座った。
金木犀の香りが、ふわりと俺の防壁を越えてくる。俺は目を細め、無意識に呼吸を浅くした。
「佐野くんね、すごく優しいの。それは本当。でも――」
彼女が少し、戸惑うように視線を泳がせた。
「優しすぎて、本音がどこにあるのか分からなくなる時があるの。私が何を言っても、絶対に怒らないし、否定もしない。完璧すぎて、逆に……どこかに嘘があるんじゃないかって、不安になるんだよね」
俺は頭の中にデータを展開した。佐野蓮。回避型ではないが、平和主義で自己犠牲が強い性格。交際初期において摩擦を避ける傾向は、神谷のような「愛されている実感を摩擦で測る」タイプには、かえって孤独を植え付ける可能性がある。
予測範囲内だ。この程度、一秒で対処法を出せる。
「橘くん」
彼女が、沈黙を守る俺をじっと見つめて続けた。
「……こんなわがままな不安、佐野くんには言えないよ。嫌われたくないもん。でも、橘くんは……私のダメなところも、格好悪い嘘も、全部見てくれたでしょ? だから橘くんには、私の全部を知っていてほしいんだよね」
脳内の警告アラートが、最大音量で鳴り響いた。
「橘くんは、私の一番の親友だと思ってるから」
親友。
その言葉が、熱した鉄のように胸の空洞に叩き込まれた。
「……佐野の回避的な優しさは、本能的な防衛なんだ。あいつに『答えにくい問い』を投げかけみな。小さな、それでいて明確な本音の共有から始めれば、あいつの鉄壁は少しずつ下がるはず」
「……答えにくい、問い?」
「ああ。それをやるだけで、佐野は君の『弱さ』に呼応して本音を出すはず」
彼女は俺のアドバイスを、懐かしい手つきでノートに書き込み始めた。
「……橘くん、やっぱり天才。橘くんに話すと、絡まった糸がスッと解けるみたい。ありがとう、本当に」
ノートを閉じた神谷が、心底安心したように微笑む。
「橘くん、最近ちゃんと食べてる? 顔色悪いよ。たまには私、お弁当でも……」
「ありがとう。でも必要ない。……Case_48の維持管理に必要な業務をしただけだから。早くいきな。あいつが待ってるだろ」
神谷は少しだけ眉を寄せ、名残惜しそうに、けれど幸せそうに教室を出ていった。
一人になった静寂の中で、俺は新しいノートのページを開いた。
Case_48_Maintenance.log。
指先が微かに震えるのを、もう片方の手で力任せに押さえつける。
オレンジ色のはずの夕日が、俺の目にはモノクロームに映っていた。
「……演算続行だ」
自分が作り上げた最高傑作が壊れることは、俺という存在の完全な死を意味する。
この恋を守らなければならない。俺が捧げたAct1の痛みが、無駄ではなかったことを証明するために。
心拍が、ゆっくりと泥のように重くなっていく。
この恋が壊れないように。
俺は何度でも、自分の中に残るわずかな熱を削り取って、彼女の幸せのための燃料にする。
それが俺に許された、唯一の――生存理由だった。
スマートフォンの液晶が点灯した。佐野蓮からのメッセージ。
『橘、最近顔色悪いな。今度、神谷さんと一緒に飯でもどうだ?』
俺は、返信を打たずにスマホを伏せた。
爪が、ノートの表紙を深く抉っていた。痛みはもう、どこにもなかった。
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