第10話 完璧なハッピーエンド。ただし、そこに俺はいない
17時10分。
三階の空き教室。放課後の喧騒から切り離されたそこには、埃の匂いと冷え切った空気だけが溜まっていた。
俺は窓際に立ち、中庭を真下に見下ろしていた。ベンチ。低い木。計算通りの角度で差し込む、薄紅色の西日。
昨夜、俺が一人で立ち尽くし、何度も脳内でトレースした景色が、そこにあった。
無意識に、右手のひらに爪を立てる。
三日月形の痕が、また深く、自分の存在を証明するように刻まれた。
心臓の音が、耳元で鐘のようにうるさい。
――演算、継続。
俺は観測者だ。感情は演算を狂わせるノイズだ。
窓ガラスに映る俺の顔は、死人のように無機質だった。それでいい。
17時14分。
佐野蓮が、中庭に入ってきた。
背筋を伸ばし、ネクタイを真っ直ぐに締め直している。俺がかつて指導したからではない。あいつは今日、あいつ自身の意思で、神谷陽向に選ばれるための最高の自分を作ってきたのだ。
完璧超人の佐野が、肩を微かに震わせ、一度だけ深く深呼吸した。
愛する人の前でだけ、完璧でいられなくなる。
その不格好な純粋さは――皮肉にも、俺がかつて抱いていた「バグ」と同じだった。
17時15分。
神谷が、中庭に入ってきた。
袖の長い白いシャツ。右側だけ耳にかけた髪。夕日に透ける、うなじの白。
俺が設計し、俺が磨き上げた、神谷陽向という最高傑作の完成形。
だが、その美しさはもう、データの積み上げを遥かに越えていた。
俺は窓枠を掴む指先に、万力のような力を込めた。指先から血の気が失せ、白くなっていく。
佐野が、口を開いた。
三階の防音ガラス越しには、声は一音たりとも届かない。
けれど、俺の脳内には、昨夜俺が血を流すようにして書いた「あの言葉」が、佐野の声で再生された。
――神谷さんと話してると、自分が少し変わった気がする。
神谷の表情が、ふわりと柔らかくなる。
――笑ってる顔が、ずっと頭に残ってた。
神谷が俯き、耳を赤く染めた。
――ずっと近くにいたいと思ってる。
佐野が、神谷に手を伸ばした。
神谷が、顔を上げた。
その顔に浮かんだ光を、俺は知っている。
田中航の恋を成就させたときに見た、祝福の色。
けれど今日、その光は俺の演算結果を祝福してはいなかった。それは俺ではない男に向けられた、唯一無二の、真実の熱量だった。
神谷が、佐野の手をそっと取る。
猛烈な夕日が、二人を溶け合うような黄金色に包み込んだ。
完璧だった。俺の人生の中で、これほどまでに無価値で、これほどまでに美しい「ハッピーエンド」は他になかった。
肺に、空気が入ってこなかった。
何度呼吸を試みても、喉の奥で冷たい真空に阻まれる。
視界から色が抜け、世界は急激にコントラストを失っていった。
二人の影が並んで中庭を去っていくのを、俺はただ眺めていた。
佐野が何かを言い、神谷がそれに応えて笑う。
誰もいなくなった中庭には、空虚なベンチと、風に揺れる影だけが取り残された。
日が落ち、急速に中庭が灰色に染まる。
俺はスマホを取り出し、メモアプリを開いた。
『Case_48――』
打ち込もうとした指が、石のように動かなかった。
俺は画面を消し、冷たくなった端末をポケットの奥底に放り込んだ。
「橘くん」
背後から、声がした。
廊下に、神谷が立っていた。
頬を上気させ、乱れた呼吸を整えることもせず、俺を見つけ出した。
「橘くん、私――」
彼女が一歩、踏み出す。
「うまくいったよ。……全部、橘くんのおかげ」
喜びと、安堵。
その涙で滲んだ瞳が、俺という軍師への、最大級の感謝で輝いていた。
「橘くんがいなかったら、絶対こうなってなかった。本当に、ありがとう」
俺は彼女を見た。泣きながら、世界一の幸福を手に入れた少女の顔。
俺が作り上げた、最高傑作。
その代償として失ったものの重さを、俺は彼女には絶対に教えないと決めた。
「おめでとう。Case_48は、これで終了だ」
俺の言葉に、神谷は戸惑ったように眉を下げた。
「……Case_48。また、そんな記号で言うんだ」
「業務が完了した。それだけだよ」
廊下の先から、あいつの声がした。
「神谷さん? どこにいるの?」
神谷が振り返り、それからまた俺を見た。
「橘くん、私――」
「行くんだ」
俺の声は、自分でも驚くほど穏やかで、氷のように静かだった。
「あいつを待たせるのは、演算外だ。行け、陽向さん」
俺が最後に名前を呼んだとき、彼女の唇が一瞬だけ震えた。
けれど彼女は小さく頷き、光の待つ廊下の先へと走り出した。
佐野が彼女を迎え、二つの影が角を曲がって消える。
廊下に残された足音が、静寂に塗り潰されるまで、俺はそこに立っていた。
窓の外、夜の帷が下りている。
一番星が、昨日と同じ冷たい光を放っていた。
自分の内側に、そっと手を伸ばしてみる。
痛みがあるか。怒りがあるか。……悲しみは残っているか。
何も、なかった。
そこにはただ、広大な空洞だけが広がっていた。
自分の心が燃え尽きて灰になったのか、それとも最初から空っぽな器だったのか。
もう、それを解析する知的好奇心すら、俺の中には残されてはいなかった。
スマホに最後のログを打ち込む。
『Case_48:完了。全課程、終了。』
画面を閉じ、ファイルを完全に閉鎖した。
教室の電気を消し、静まり返った廊下へ出る。
昇降口を抜けると、秋の夜風が制服を揺らした。
――金木犀の匂いが、しない。
昨日まであれほど濃厚だった香りが、消えていた。
季節が変わったのか、それとも俺自身の感覚が「役割」と共に死んだのか。
街灯の下、自分の影だけが不自然に長く伸び、縮み、また伸びていく。
「……ああ、よかった」
誰もいない夜道に、乾いた独白がこぼれ落ちた。
一歩、踏み出す。
「これでようやく、俺は――君の物語から、消えられる」
街灯が一瞬、瞬き、消えかけた。
俺は暗闇に向かって、再び歩き出した。
どこまでも不確かな影だけを従えて。
自分が誰であるかも、もう思い出せないまま。
第1章終了
第10話、ご覧いただきありがとうございました。
これにて第1幕『おもしろい“いいやつ”』編が完結です。
全てを捧げ、そして「空っぽ」になった橘の物語は、ここからが本当の本番(第2幕)となります。
明日からも、引き続きお付き合いください。




