第四章 父の夜
夜の港から戻ったあとも、湊はすぐには眠れなかった。
宿の二階の部屋は静かだった。
窓を開ければ、港のほうの灯りがいくつか低く見える。
昼なら防波堤や倉庫の形が分かるはずだが、今はもう何も輪郭を持たない。
ただ、灯りだけが点々と置かれている。
その見え方が、松崎繁江の言葉を何度も思い返させた。
帰る灯り。
帰れない灯り。
父は、その違いを知らないまま、必死に見分けようとしていたのかもしれない。
そして、届かないと分かっている灯りから、なお目を離せなかった。
夜の父。
第五作までは朝の父を追っていた。
第六作では岬で見届ける父の輪郭が見えた。
第七作のここで、ようやく「そのあとの夜をどう過ごした人だったのか」が、ゆっくり立ち上がり始めていた。
階下で帳場の戸を閉める小さな音がした。
汐里が一日の最後の確認を終えたのだろう。
第四作以来、その音にも意味があることを知っている。
宿は、夜を閉じるのではない。
夜を預かるための準備を整える。
父ももし、この宿へ戻った夜があったなら、同じ音をどこかで聞いたのかもしれない。
そのとき彼は、自分が港で見た灯りをどう抱えていたのだろう。
戻る灯りと、戻らない灯り。
見えているのに届かないもの。
春口の夜は、そういう差を人に静かに突きつけるのかもしれなかった。
翌朝、湊は朝食の席で汐里に言った。
「父の夜のことを、もう少し具体的に見たいです」
「ええ」
汐里が頷く。
「私もそう思っていました」
「宿の記録に、何かありませんか」
「母の控えに、夜遅い客や、帰りの遅い客のことが少しあります」
「父だと分かるものは」
「名前まではないです」
「でも」
「“夜更けに戻る男の人は、靴音が迷う”という書き込みが一つありました」
「靴音が迷う」
「ええ。母らしい書き方ですよね」
「かなり」
湊は苦くも温かくもない息をついた。
「それ、見せてもらえますか」
「もちろん」
帳場の奥から出された控えノートには、宿の実務の合間にいくつもの短い断片が書き込まれていた。
仕入れ、修繕、客の起床時刻。
その中に、ときどき人の様子だけを掬い取ったような文が混ざっている。
その一つに、たしかにあった。
――夜更けに戻る男の人は、靴音が迷う。
――港へもう一度行く気配と、部屋へ帰る気配が、廊下で半分ずつ残る。
――そういう人には、水だけ先に出す。
湊はその三行を、しばらく見つめた。
廊下で半分ずつ残る。
それはあまりにも父の夜に似ていた。
霧のホームで半歩ずつ遅れ、発車後のホームで取り残され、下りを追い、岬へ行き、そして夜に戻る。
戻っても、まだ半分は港に残っている。
部屋へ帰る気配と、もう一度港へ下りる気配が、靴音の中で分かれてしまう。
澄江は、そういう夜の男の人を見ていたのだろう。
父であった可能性は、かなり高い気がした。
「母」
汐里がその文を見ながら言った。
「昼のことだけじゃなく、夜の迷いもちゃんと見ていたんですね」
「ええ」
湊が答える。
「しかも、かなり細かく」
「“水だけ先に出す”って」
「そのまま寝かせないんでしょうね」
「でも、話も急がせない」
「そうだと思います」
「第四作で見えた母のやり方と同じですね」
「はい」
「夜の父親みたいな人にも、それをしていた」
「そうですね」
その理解は、第四作と第七作を強くつないでいた。
宿は、帰れない夜のための場所だった。
だがそれだけではない。
夜更けに一度港へ下り、何も変えられずに戻ってきた人。
見届けたはずなのに、なお夜の中で揺れている人。
そういう“昼の続きを抱えた夜”の人をも、宿は預かっていたのだろう。
「相沢さん」
汐里が言った。
「はい」
「お父さん、夜はどこへ戻っていたと思いますか」
湊は少し考えた。
宿だったかもしれない。
別の部屋だったかもしれない。
だが、いま大事なのは住所ではないように思えた。
「たぶん」
ゆっくり言う。
「身体はどこかの部屋へ戻ったんでしょう」
「ええ」
「でも気持ちは、港と岬のあいだを何度も往復していた気がします」
「……」
「夜って、そういう時間なんだと思います」
「昼に見届けたはずのものが」
「また別の重さで戻ってくる」
「そうですね」
その日の夕方、篠原が新しい写しを持ってきた。
今度は港の管理記録ではなく、宿の古い領収控えに近いものだった。
客名は省略され、時刻と簡単な用件だけが残っている。
その中の一行を、篠原が指で示した。
――遅帰一名、湯不要、水のみ。
――夜半過ぎ。
「これ」
湊が言う。
「お母さんのノートと一致しますね」
「ええ」
篠原が頷いた。
「水だけ先に出す、という記述と」
「父だと思いますか」
「断定はできません」
「でも」
「夜更けに戻る男が少なくなかった町ではあります。ただ」
「ただ?」
「霧のホームの時期と近い」
「……」
「しかも夜半過ぎに港から戻るとなると、かなり限られてきます」
夜半過ぎ。
その時間の父を想像すると、湊の胸の中に妙な静けさが広がった。
昼の父は、遅れている。
夜の父は、疲れている。
だがその疲れも、ただ身体のものではないだろう。
届かないと知りながら灯りを見続けた目の疲れ。
戻る気配と、まだ戻れない気配が廊下で半分ずつ残る靴音。
澄江は、それを宿の中で受け取ったのかもしれない。
父の夜を直接慰めることはせず、ただ水を出し、部屋へ返した。
そのやり方が、いかにも澄江らしく、春口らしかった。
「繁江さんが言っていた」
汐里が静かに言う。
「届かないと分かっている灯りから、離れられないって」
「ええ」
「母は、そのあとに戻ってくる人も見ていた」
「そうですね」
「だったら」
「だったら?」
「母と父って、昼より夜のほうが近いところで重なっていたのかもしれませんね」
「……」
「昼はそれぞれ別の役割や別の立場にいたけど」
「夜には」
「同じ春口の夜を、それぞれ別の形で抱えていた」
「それは」
湊は低く言った。
「かなりありそうです」
その発見は、第七作にとって重要だった。
父と澄江は、昼の関係で見るとどうしても行き違いが先に立つ。
千紘をめぐる朝。
遅れ。
責めきれなさ。
だが夜になると、二人は別のところで重なる。
届かない灯りを見て、戻りきれない気持ちを抱え、それでもどこかの灯りの下へ戻る。
宿へ。
部屋へ。
あるいは帳場の近くへ。
その“夜の重なり”を知ることで、父も澄江も、少しずつ役割ではなく人として見え始めるのだろう。
夜、湊はあえて一人で港へ下りた。
最終列車のあとではない。
その少し前の時間。
駅の白線がまだ意味を持っていて、港の灯りもすでに点き始めている、昼と夜のあわい。
その岸壁に立つと、父がこの町で持っていたかもしれない一日の長さを考えずにはいられなかった。
朝、ホームで遅れる。
昼、下りの接続を追う。
夕方、岬で見届けようとする。
夜、港の灯りを見る。
そして夜半過ぎにどこかへ戻る。
それはたった一日のことかもしれないし、何日も繰り返したことかもしれない。
どちらにせよ、人一人の中で抱えるには長すぎる一日だと思った。
父が何度も春口へ戻ったのは、その一日を何度も終えきれなかったからなのかもしれない。
海の向こうに、灯りが二つ動いていた。
一つはゆっくりと岸へ寄る。
もう一つは沖へ向かって離れていく。
帰る灯りと、帰れない灯り。
あるいは戻る灯りと、戻らない灯り。
繁江の言葉が、夜の海にそのまま浮かんでいるようだった。
父はどちらを見ていたのだろう。
澄江はどちらを見分けていたのだろう。
千紘の不在は、どちらの灯りとして夜に現れたのだろう。
第七作は、まだその答えを急がない。
ただ、その見分けの難しさそのものが、この巻の核心なのだろうと、湊は思った。
宿へ戻ると、帳場の灯りがまだ点いていた。
汐里がそこに座っている。
湊を見ると、何も聞かずに湯呑みを一つ差し出した。
第四作で見た母のやり方を、彼女はもう自然に使っている。
話より先に、湯。
帰る話より先に、いまここへ戻ってきたことを受け取るためのもの。
「夜の父親って」
汐里が言った。
「はい」
「昼の父親より、少し身近ですね」
「どうしてそう思いますか」
「失敗した人というより」
「ええ」
「戻ってきた人に見えるからです」
「……」
「宿へ、部屋へ、灯りのあるところへ」
「そうですね」
湊は湯呑みを持ちながら答えた。
「その感じは、かなり大きいです」
夜の父。
その姿を想像すると、昼の父より少しだけ人間の温度があった。
完璧に理解はできない。
赦しとも違う。
だが、夜半過ぎに水を出される人としての父は、以前のように遠い影ではなかった。
失敗したあとも、戻ってきた人。
その言い方に、救いではないが、確かな距離の変化があった。
ノートにはこう書いた。
――夜の父は、霧のホームの父より少し近い。
――それは、失敗した人というより、戻ってきた人として見えるからだ。
――澄江は、その戻りきれない夜を、宿の中で受け止めていたのかもしれない。
――昼の行き違いのあとに、夜の重なりがあった。
――そのことが、父と澄江を前より人間に見せる。
書き終えたとき、また港のほうから短い音がした。
夜はまだ終わらない。
第七作の中心もまた、この“終わりきらない夜”の中にあるのだろうと、湊は静かに思った。




