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潮待ちのレール ― 夜航の灯り ―  作者: たむ


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第五章 澄江の灯り

 夜の宿には、昼とは違う順番がある。


 客を迎える。

 部屋へ通す。

 食事を出す。

 風呂の支度を整える。

 そうした手順は昼も夜も同じように見える。

 けれど実際には、夜の宿ではその一つひとつの意味が少しずつ変わる。

 昼の宿が人を“泊める”場所なら、夜の宿は人を“落ち着かせる”場所に近い。

 同じ灯りでも、朝のための灯りと、夜を越すための灯りでは明るさの意味が違う。

 第四作で湊はそのことを知った。

 そして第七作の今、その夜の灯りがさらに別の役目も持っていたことが見え始めている。

 澄江にとって灯りは、客のためだけではなかった。

 自分自身が夜を読み、夜を越えるためのものでもあったのだろう。


 その夜、宿には客が二組いた。

 一組は本土側から来た若い夫婦で、翌朝に島へ渡る予定らしい。

 もう一組は仕事帰りの男で、夜遅くに着いて早朝の便でまた出るという。

 帳場の前でやり取りする汐里の姿を見ながら、湊は第四作のころとの違いを改めて感じていた。

 彼女はもう、母の残した宿を守る“娘”というだけではない。

 客の一夜の向きを見分け、どの部屋がいいか、どの言葉をどこまでかけるかを自分で決めている。

 澄江の灯りは、娘の手でちゃんと次の夜へ渡り始めているのだろう。


 食後、客の気配がそれぞれの部屋へ落ち着いてから、汐里は帳場の灯りを少しだけ絞った。

 完全には消さない。

 だが、昼の延長ではない夜の明るさにする。

 それを見て、湊はふと訊いた。


「その明るさ」

「はい」

「お母さんも、こうしていたんですか」

 汐里は頷いた。

「ええ。遅い時間ほど少し落としていました」

「どうして」

「“全部を明るくすると、かえって帰れない夜の人は落ち着かない”って、ノートにありました」

「……」

「灯りは強ければいいわけじゃないんですね」

「そうですね」


 その答えに、松崎繁江の話が重なった。

 夜の海では、灯りは全体を照らすためにあるのではない。

 見えないものの位置を知らせるためにある。

 宿も同じなのだろう。

 灯りは、不安を消すためではなく、その夜の人が“いま自分はここにいる”と分かるために置かれる。

 澄江は、その灯りの使い方を夜の港でも宿の帳場でも知っていたのかもしれない。


 帳場の奥から、汐里がもう一冊の小さなメモ帳を持ってきた。

 前夜に見た仕事ノートよりさらに薄く、手のひらに乗るほどの大きさしかない。

 表紙の布は色褪せ、角が丸くなっている。

 頻繁に持ち歩かれていたものだろう。


「これも母のものです」

「夜の記録ですか」

「たぶん、宿の中で全部書けないときに持っていた控えみたいな」

「見ても」

「はい」


 頁を開くと、たしかに断片ばかりだった。

 日付も飛び、文も短い。

 だが読んでいくうちに、一つの傾向が見えてきた。

 このメモ帳には、夜の灯りについての記述が異様に多いのだ。


 ――客室の灯り、海側は少し早く落ちる。

 ――港帰りの人は、部屋の灯りより帳場の灯りを見ている。

 ――夜の便を待つ人は、外の灯りと内の灯りを何度も見比べる。

 ――戻ってきた人には、明るすぎないほうがよい。

 ――自分が今どちら側にいるか分からなくなるから。


「どちら側」

 湊が呟く。

「母」

 汐里が小さく言う。

「夜を“内と外”で見ていたんですね」

「ええ」

「宿の内と、港の外」

「それだけじゃないかもしれません」

「どういう意味で」

「戻る側と、まだ戻れない側」

「……」

「あるいは、見届けたつもりの側と、まだ灯りから離れられない側」


 その言葉に、汐里はしばらく黙っていた。

 そして、ほとんど独り言のように言う。


「母、自分のことも書いてますね」

「そう思います」

「客のことみたいに書いてるけど」

「“自分が今どちら側にいるか分からなくなる”って」

「ええ」

「母自身の夜でもある」

「はい」


 第四作で澄江は、帰れない夜のための部屋を守る人として見えた。

 第六作で彼女は、岬で町全体を見直す人として見えた。

 第七作ではさらに、その二つのあいだにいる夜の人として見えてきていた。

 港の灯りと宿の灯り。

 戻る側と戻れない側。

 客を迎える側と、まだどこかへ行きたい気持ちを捨てきれない側。

 澄江はその境目を、夜ごとに生きていたのかもしれない。


「相沢さん」

 汐里が言った。

「はい」

「母って、夜はどこにいたんでしょうね」

「宿に」

 湊は一度そう答えかけ、少し考え直した。

「身体は宿にいたんだと思います」

「ええ」

「でも、気持ちはたぶん、帳場と港のあいだを行ったり来たりしていた」

「……」

「父の夜と少し似ていますね」

「そうですね」

「違うのは」

「何ですか」

「お母さんは、その往復を仕事に変えた」

「……」

「灯りを残すことや、水を出すことや、部屋を整えることに」

「はい」

「それが、お母さんの生き方だったんでしょう」


 その理解は、これまで見えてきた澄江の全体像をかなり深いところでつないでいた。

 帰れなかった。

 責めきれなかった。

 見届けた。

 そして夜には、帳場の灯りを残した。

 それらは別々の断片ではない。

 すべて一つの生き方の形だったのだろう。

 自分の中の往復を、宿の仕事へ変えること。

 それが澄江の“夜の灯り”だった。


 さらに頁をめくると、ひときわ細い字で書かれた文があった。


 ――夜の海で見る灯りは、遠いのに近い。

 ――宿の灯りは、近いのにその人の遠さがよく分かる。

 ――近いものと遠いものの取り違えが、夜にはよく起こる。

 ――そういう夜に、人は帰るつもりで帰れない。


「近いのにその人の遠さがよく分かる」

 湊が読む。

「すごいですね」

 汐里が言った。

「母らしい」

「ええ」

「宿って、近い場所のはずなのに」

「その人がどれだけまだどこかに残っているかが、かえってよく見えてしまう」

「……」

「夜の宿って、残酷ですね」

「でも」

 湊はメモ帳から目を離さずに言った。

「だから必要なんだと思います」

「どうして」

「その遠さを見ないまま寝かせるより」

「ええ」

「見えたうえで、ひとまず一夜を越えさせるほうが」

「……」

「春口らしいから」


 汐里は、その言葉を受けて静かに笑った。

 春口らしい。

 それはこのシリーズで何度も使ってきた言葉だが、第七作ではとくに“夜の人間の取り扱い方”を指している気がした。

 すぐ癒やさない。

 すぐ解決しない。

 その人がまだ遠いままであることを見ながら、灯りだけは残す。

 それが宿であり、港であり、春口のやり方なのだろう。


 そのとき、玄関の戸がごく小さく鳴った。

 予定外の来客か、遅い戻りの客か。

 汐里が立ち、帳場の前へ出る。

 湊も少し離れてあとに続いた。


 玄関に立っていたのは、見知らぬ女だった。

 四十代後半ほど。

 濃い色のカーディガンに、小さな鞄を肩からかけている。

 観光客には見えない。

 だが地元の人間の気安さとも違う。

 どこか“一度ここへ来ることを迷った末の顔”をしていた。


「一晩」

 女は言った。

「お願いできますか」

「はい」

 汐里が答える。

「お一人ですか」

「ええ。夜分にすみません」

「いえ」

「……最終のあとに着いてしまって」

 その言い方に、湊は思わず第七作の主題そのものを見る気がした。

 最終のあと。

 昼の時間には間に合わなかった人。

 夜の便でもなく、夜の宿へたどり着いた人。

 春口には、そういう一夜が今も流れ込んでくる。


「お部屋、空いています」

 汐里が言った。

「海の近いほうがいいですか。それとも静かなほうが」

 女は少し考え、それから小さく首を横に振った。

「今夜は、明るすぎない部屋で」

 その答えを聞いた瞬間、湊はさっきの澄江のメモを思い出した。

 戻ってきた人には、明るすぎないほうがよい。

 自分が今どちら側にいるか分からなくなるから。

 女の一言だけで、汐里もおそらく同じものを感じ取ったのだろう。


「では、坂の間に」

 彼女は自然に言った。

「ありがとうございます」

 女の声は、ほっとしたようでもあり、まだどこかへ心を置いたままでもあった。


 部屋へ案内し、戻ってきた汐里は、帳場の灯りをさらに少しだけ落とした。

 そして湊のほうを見て、静かに言った。


「母が言っていたこと」

「ええ」

「少し分かった気がします」

「どのあたりが」

「夜の灯りは、明るければいいわけじゃない」

「……」

「その人がまだどこかに残っているなら、その遠さが壊れないくらいの灯りがいる」

「そうですね」

「近いのに遠い人のための灯り」

「はい」

「母、たぶんずっとそれをやってたんですね」


 その理解に、湊は深く頷いた。

 第七作の澄江は、夜の港と宿の灯りのあいだに立つ人として、ますますはっきりしてきている。

 父の夜も、澄江の夜も、どちらも“戻る”だけでは終わらない。

 戻った場所でなお遠い。

 その遠さを壊さずに一夜を越えさせる。

 それが澄江の灯りの仕事だったのだろう。


 夜が更けるころ、湊はノートにこう書いた。


 ――澄江の灯りは、人を近づけるためだけのものではなかった。

 ――近いのにまだ遠い人の遠さを壊さず、一夜を越えさせるための灯りだった。

 ――夜の港で灯りを見分け、宿で灯りを残す。

 ――その往復が、澄江の夜の生き方だったのかもしれない。


 書き終えたあと、宿の廊下の向こうで、誰かが静かに寝返りを打つ気配がした。

 夜はまだ続いている。

 そして第七作もまた、その“続いている夜”の中でさらに深く父の不在と千紘の不在へ入っていくのだろうと、湊は思った。

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