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潮待ちのレール ― 夜航の灯り ―  作者: たむ


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3/9

第三章 灯りの見分け

 翌日の夕方、春口は昼の熱をまだ少し残していた。


 空はよく晴れていたが、夏の盛りのように強すぎる光ではない。

 季節が一歩だけ先へ進み、日の傾きがわずかに早くなったせいか、町の輪郭にはすでに夜の受け入れ方が混じり始めている。

 港のトタン屋根は白く光るが、その下の影は昨日より深い。

 駅の赤い屋根も、夕方になると少しだけ沈んで見える。

 夏の終わりの春口では、昼と夜の境目がはっきり線を引くのではなく、光の濃さがゆっくり入れ替わる。

 だからこそ、人の感情もまた、その境目で少しずつ別の顔を見せるのだろうと湊は思っていた。


 午後の早い時間、篠原から「今日は港の灯りをよく知っている人に会えます」と連絡があった。

 場所は港の少し外れ、小さな灯台の管理小屋に近い古い家だという。

 汐里は帳場を早めに片づけ、「今日は母の夜のことが少し分かるかもしれませんね」と言った。

 第六作までで澄江の岬は見えてきた。

 だが、第七作ではさらにその先、夜の港の灯りと澄江の時間がどう結びつくかが大事になる。

 昼の澄江ではなく、夜の澄江。

 宿の主としての仕事が終わったあとで、なお灯りを見ていた人の側面へ、ようやく入っていくのだろう。


 港の外れへ向かう道は、観光の人がほとんど通らない。

 小さな造船所の脇を抜け、網を干す空き地の横を曲がり、さらに石段を少し下りる。

 そこに、灯台守の手伝いをしていたという松崎繁江の家があった。

 木造の平屋で、海に面した縁側が低くついている。

 窓の前には小さな風見鶏のような金具があり、風向きを見るためのものだろうかと湊は思った。

 夜の灯りを読む人は、昼の風もまた見ているのかもしれない。


 戸を開けて現れた松崎繁江は、八十を越えているとは思えないほど背筋の伸びた老女だった。

 髪は白いが、目がよく動く。

 人の顔を見るというより、その向こうの光まで一緒に見ているような目だった。

 瀬尾直吉が“遠くを見る人の目”なら、こちらは“暗い中で光の違いを見る人の目”なのだろうと、湊は思った。


「まあ」

 繁江が汐里を見て言う。

「澄江さんの娘さんね」

「はい」

 汐里が答える。

「母をご存じですか」

「夜の港で、何度も見たから」

 その一言で、汐里の表情が静かに引き締まった。

 宿で働く澄江。

 岬へ行く澄江。

 そこへ今、夜の港に立つ澄江が加わろうとしている。

 第七作で開こうとしている扉の向こう側が、最初の言葉からもう見え始めていた。


 家の中へ通されると、壁に古い灯火表や海図の切れ端のようなものが飾られていた。

 趣味というより、昔の仕事道具をそのまま残している感じに近い。

 小さな棚の上には、煤けたランプがいくつか並び、その隣に古びた双眼鏡も置かれている。

 夜の海を見る道具と、灯りを保つ道具と、灯りを読む道具。

 この部屋は、それだけで第七作の主題そのもののようだった。


「篠原さんから」

 繁江が茶を出しながら言う。

「少し話は聞いています」

「はい」

 湊が頭を下げる。

「夜の春口のことを」

「夜の灯りのことですね」

 汐里が続ける。

「ええ」

 繁江は頷いた。

「昼の春口なら、誰でも見れば分かる」

「駅や港や岬」

「そうです。でも夜は違う」

「灯りで読む」

 湊が言うと、繁江は少しだけ目を細めた。

「そう。灯りで読む」

「何を」

「何が動いていて、何が止まっていて、何が帰る灯りで、何がまだ帰れない灯りかを」


 その最後の言葉が、湊の胸に静かに落ちた。

 帰る灯り。

 帰れない灯り。

 夜の港をそういうふうに読むのか。

 昼の港は、便があるかないか、船が入るか出るかで読める。

 だが夜は、もっと感情に近い読み方になるのだろう。

 灯り一つにも、その向きや動き方で“帰る”と“帰れない”の差がある。

 それはまるで、人の気持ちそのものだった。


「どうやって」

 汐里が訊く。

「見分けるんですか」

「高さと」

 繁江が指を折る。

「揺れ方と、消え方」

「消え方」

「ええ。帰る灯りは、たいてい規則的に遠ざかる」

「……」

「帰れない灯りは、一度近づいて、また止まる」

「それって」

 湊が言う。

「かなり人間的ですね」

「そうよ」

 繁江はわずかに笑った。

「夜の海は、人の都合がそのまま出やすいから」


 その説明を聞きながら、湊は父の夜を想像していた。

 霧のホームの朝。

 発車後のホーム。

 下りの接続。

 夕凪の岬。

 そのあとにも、夜は来たはずだ。

 父はその夜、港の灯りを見たのだろうか。

 もし見たのなら、どれを“帰る灯り”として、どれを“帰れない灯り”として見ただろう。

 澄江もまた、宿の帳場の灯りと海の灯りのあいだで、そうした違いを見分けていたのかもしれない。


 繁江は、棚の上のランプを一つ持ち上げた。

 磨かれてはいるが、古い真鍮の縁には細かい傷が無数についている。


「これ」

 彼女が言う。

「夜の便が遅れたとき、目印に使ったことがあるの」

「港で?」

 汐里が訊く。

「ええ。岸壁の端に持っていって」

「待つ人のために」

「それもあるし、戻る人のためにも」


 戻る人。

 その言葉で、第四作の宿がすぐに思い出された。

 宿は、発車後に戻ってきた人のための場所でもあった。

 ならば港の灯りもまた、戻る人のためのものだったのだろう。

 見届けたあとにも戻る夜。

 その構造は、宿と港のあいだで深くつながっている。


「澄江さんは」

 繁江がランプを置きながら言った。

「夜の灯りをよく見ていた」

「母が」

 汐里が小さく繰り返す。

「宿の帰り道だけじゃないの」

「どういう」

「わざわざ港まで下りてきて、しばらく立ってることがあった」

「何を見ていたんでしょう」

 繁江は少し考え、それから正直に答えた。

「最初は船を見てるように見えた」

「でも?」

「でも、ほんとうは違ったと思う」

「違う」

「船そのものより」

 繁江は窓の外の海を顎で示した。

「どの灯りが“戻る灯り”で、どの灯りが“戻らない灯り”かを見ていた気がする」


 その言葉に、汐里の横顔が少し強張った。

 戻る灯り。

 戻らない灯り。

 澄江は、その差を夜の海に探していたのかもしれない。

 千紘は戻らなかった。

 父もまた、何かの意味では戻らなかった。

 けれど便や人や感情は、すべてが同じかたちで失われるわけではない。

 夜の灯りを見分けることで、澄江はその違いを自分の中で確かめていたのだろうか。


「相沢さん」

 汐里が低い声で言った。

「はい」

「母、夜にも母だったんですね」

「どういう意味で」

「宿で客に灯りを残すだけじゃなくて」

「ええ」

「自分でも、灯りで物事の位置を確かめていた」

「そうですね」

「昼の母と、ちゃんとつながってる」

「はい」

「少し救われます」

 その言葉は静かだったが、深かった。

 死んだ人の昼と夜がつながること。

 それは、その人が物語の中の役割ではなく、ほんとうに生活していた一人の人間だったと知ることなのだろう。

 澄江は宿の主として働き、岬で町を見て、夜には港の灯りを見ていた。

 そういうふうに一日を持っていた人だったのだ。


 繁江はさらに、古い灯火表の一枚を取り出した。

 そこには夜の海で見える灯りの種類が、簡単な図で描かれている。

 高さの違い。

 動きの違い。

 灯台の周期。

 船灯の位置。

 対岸の家の灯りの並び。

 小さな記号の集まりなのに、眺めていると夜の海そのものが浮かび上がるようだった。


「父も」

 湊が訊いた。

「港の夜に来ていた可能性はありますか」

「若い男の人なら」

 繁江が答える。

「何度か見た覚えがある」

「本当ですか」

「はっきり名前までは分からない」

「でも」

「灯りの見方が、不慣れな人の見方じゃなかった」

「……」

「知らないくせに、必死に見分けようとする人の見方」


 その表現に、第五作からここまでの父の輪郭がまた一つ加わった気がした。

 父は夜の海の読み方を知らない。

 けれど必死に灯りを見分けようとした。

 それはつまり、夜の時間の中でもまだ何かを諦めきれず、自分の位置を確かめようとしていたということだろう。

 昼の遅れが夜へ持ち越され、夜の灯りの中でなお整理されずに残っていた。

 第七作が描こうとしているのは、まさにその時間なのだ。


「その男の人は」

 汐里が訊く。

「どんなふうに見ていましたか」

 繁江はしばらく黙り、ゆっくり答えた。


「一つの灯りだけを見てるようで」

「ええ」

「ほんとうは、その灯りに辿り着けないことも分かってる顔だった」

「……」

「だから余計に、離れられないみたいだった」


 その言い方は、あまりにも父らしかった。

 昼のホームでも、父は半歩ずつ遅れた。

 夜の港でもまた、届かないと分かっている灯りから離れられなかったのかもしれない。

 人はときどき、希望があるから執着するのではなく、もう届かないと知っているからこそ、余計に目を離せないことがある。

 夜の海の灯りは、その心理を強く浮かび上がらせるのだろう。


 話を聞き終えて家を出るころには、空はかなり暗くなっていた。

 港のほうではもう、昼の色はほとんど残っていない。

 灯りだけが、位置を持って海辺に浮いている。

 帰る道すがら、汐里はしばらく黙っていた。

 やがて、ぽつりと言う。


「灯りって」

「ええ」

「導くものだと思っていました」

「でも」

「それだけじゃないんですね」

「どういう意味で」

「届かないことを知るための灯りでもある」

「……」

「母も、父も、そういう灯りを見ていたのかもしれない」

「そうですね」

 湊は静かに答えた。


 その夜、宿へ戻って帳場の灯りを見ると、昼とも、昨夜とも、また違って見えた。

 この灯りは人を導くだけではない。

 届かなかったもの、戻らないもの、それでも見なかったことにしないものの位置を知らせるためにもあるのだろう。

 第四作の灯りと、第七作の灯りが、ここでようやく深いところでつながった気がした。


 ノートには、こう書いた。


 ――夜の灯りは、人を導くだけではない。

 ――届かないこと、戻らないこと、それでも見なかったことにできないものの位置を知らせる。

 ――父も、澄江も、そういう灯りの前に立っていたのかもしれない。

 ――春口の夜は、失われたものを照らすのではなく、その失われ方の輪郭だけを静かに残している。


 窓の外で、見えない海のほうからまた一つ汽笛が鳴った。

 その短さが、かえって夜を深くした。

 第七作はここからさらに、父の夜そのものへ近づいていくのだろうと、湊は静かに思った。

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