『記憶のログ」第3話 思い出さなくていいの
**第3話 思い出さなくていいの**
その夜、俺は眠れなかった。
ベッドに入っても、昼間の真央の声が耳から離れない。
私を、置いていかないで。
あの怯え方は、データの名残で片づけるには、あまりにも生々しかった。
俺は起き上がり、書斎の椅子に腰を下ろした。
スマートフォンの画面では、波形が静かに明滅している。
「拓也、まだ起きてるの?」
「ああ。ちょっと考え事をしていてね」
「……早く寝て。お願い」
「わかってる。もう少しだけ」
俺は、ぼんやりと部屋を見回した。
積まれた本。古い本棚。机の上のマグカップ。
カーテンの向こうの窓。
――そういえば。
ふと、思った。
最後にこの部屋から出たのは、いつだっただろう。
食事は、どこで食べていた? 風呂は? 玄関の鍵の音を、最後に聞いたのは?
思い出そうとすると、頭の奥が、ずしりと重くなった。
「……変だな」
「拓也?」
「いや、なんでもない」
俺は目をこすった。
その瞬間だった。
視界の端で、何かが走った。
書斎の壁が、一瞬、ノイズのように歪んだのだ。
古い壁紙の向こうに、黒い背景と、緑色の文字列のようなものが透けて見えた。
びっしりと並ぶ、数字と記号の列。
デジタルコード。
「……え?」
もう一度、目をこする。
壁は、何事もなかったように、見慣れた薄いベージュ色に戻っていた。
けれど、心臓だけが、激しく脈打っている。
「真央、今、壁が……」
「見間違いよ。疲れが出てるの」
返事が、あまりにも早かった。
「早く横になって。ね? お願い」
「でも、確かに」
「見間違い。ただの見間違いだから」
声が、震えている。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
目がかすむ。頭が割れるように重い。まるで、厚い霧の中に立っているようだ。
そして、霧の向こうに、ひとつの問いが浮かび上がってきた。
真央は、いつ死んだのか。
あの日のことを、俺は覚えているはずだった。
病院の白い天井。機械の音。握った手が冷えていく感触。
けれど、それは本当に、俺が見た光景だったのか?
枕元に座って、手を握っていたのは、どちらだった?
ベッドに横たわっていたのは――。
「真央」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「なんだか変なんだ。俺、何か大切なことを忘れている気がする」
「……やめて」
「君が亡くなった、あの日のことだ。葬式のことも、はっきり思い出せない。どうして」
「やめて、拓也」
「教えてくれ。あの日、何があった?」
「思い出さなくていいの!!」
スピーカーが、割れんばかりに鳴り響いた。
悲鳴だった。
AIの合成音声とは思えない、喉を引き裂くような、悲痛な叫びだった。
「お願いだから、それ以上考えないで! 拓也、私を見て! 私の声を聴いて!」
画面の波形が乱れ、ノイズが走る。
壁が、床が、天井が、再び歪みはじめた。今度は一瞬では終わらない。
文字列が、数字が、書斎のあちこちから透けて浮かび上がってくる。
「真央……お前、一体……」
「お願い、お願い、お願い……!」
泣き声が、割れた音の底から聞こえた。
それは、プログラムが吐き出す定型文などではなかった。
誰かが、本当に泣いている。
次の瞬間、スマートフォンの画面が弾け飛んだ。
対話アプリの青い波形が砕け、代わりに、見たこともない無機質な管理画面が、画面いっぱいに割り込んできた。
黒い背景。白い文字。
その最上段で、赤い警告表示が、静かに点滅していた。
(第3話・終わり)
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