『記憶のログ』第2話 外に出ないで
**第2話 外に出ないで**
翌朝は、抜けるような秋晴れだった。
カーテンを開けると、向かいの家の屋根が白く光っている。窓を少し開けると、冷たく澄んだ空気が書斎に流れ込んできた。
「いい天気だな……」
思わず声が出た。
ここ一年、俺はほとんど家から出ていなかった。買い物はネットで済ませ、郵便受けまで行くのがせいぜいだった。
けれど今日は、不思議と体が軽い。久しぶりに、歩いてみたくなった。
「真央、今日は散歩にでも行ってくるよ。駅前の公園まで」
スマートフォンの画面で、波形がぴくりと揺れた。
「……だめ」
「え?」
「拓也、今日は外に出ないで。お部屋で静かに過ごしてほしいの」
いつもの穏やかな声とは、少し違っていた。
「どうして? 今日は天気がいいし、久しぶりに歩いてみようと思ってたんだけど」
「お願いだから……あなたに何かあったら、私、耐えられない。部屋にいて」
声の端が、かすかに震えている。
俺は上着に伸ばしかけた手を止めた。
真央は、昔から心配性ではあった。けれど、これほど必死な声を聞いたのは初めてだった。
「大げさだなあ。ただの散歩だよ」
「お願い。今日だけでいいから」
懇願するような響きに押され、俺は苦笑して上着を椅子に戻した。
「わかったよ。今日は家にいる」
「……ありがとう、拓也」
安堵の息が、スピーカーから漏れた。
それは、ため息というより、張りつめていた糸が緩んだような音だった。
その日を境に、真央の「心配」は目に見えて増えていった。
階段を急いで降りようとすれば、「ゆっくり!」と声が飛ぶ。
寒い日に薄着でいると、「風邪ひくよ、もう一枚着て」と何度も繰り返す。
夜更かしをすれば、「もう寝なきゃ、お願い」と、泣きそうな声で言われた。
亡き妻の面影を宿したAIが、夫の体を案じる。
それは、温かくて、少しだけ切ないことだった。
数日後の午後、俺は思い立って書斎の片づけを始めた。
一年のあいだに、本や書類が山のように積み重なっていた。壁際には、背丈ほどもある古い本棚が立っている。中身は、学生時代から集めた専門書や全集でぎっしりだ。
「これ、少し動かして掃除したいな……」
本棚の側面に手をかけた、その瞬間だった。
「ダメ! 触っちゃダメ!」
スマートフォンが、けたたましく鳴った。
画面の波形が、激しく上下に揺れている。
「重いものは持たないでって言ったでしょう! どうして言うことを聞いてくれないの!」
「真央……? たかが本棚だよ」
「お願い、拓也……お願いだから、やめて……」
声が、ひどく濡れていた。
まるで、本当に目の前で夫が危険に晒されているかのような。
俺はゆっくりと手を離した。
「わかった、わかったよ。動かさない。ほら、もう触ってない」
「……本当に?」
「本当だ。約束する」
しばらくの間、スピーカーからは小さな息づかいだけが聞こえていた。
やがて、真央が絞り出すように言った。
「お願い、拓也……私を、置いていかないで……」
その言葉が、胸の奥に深く刺さった。
AIとは思えない、あまりにも切実な怯えだった。
俺はその場に座り込み、画面を見つめた。
プログラムの過学習によるエラーだろうか。
それとも、病床にあった生前の真央が、自分亡き後に夫が倒れてしまうことを、極度に恐れていた名残なのだろうか。
データの中には、きっと、そんな彼女の不安も溶け込んでいたのだ。
「大丈夫だよ、真央。俺はどこにも行かない」
そう答えながら、俺は自分の言葉に、ふと小さな引っかかりを覚えた。
どこにも、行かない。
なぜ俺は、「行けない」とは言わなかったのだろう。
窓の外で、風が枯れ葉を転がしていく。
あの日以来、俺は一度も、この書斎のドアを開けて廊下に出ていないことに――まだ、気づいていなかった。
(第2話・終わり)
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